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3章 ひとつ目の狐
7.
しおりを挟む後日、鬼通院から一度だけ追加の報告があった。それによれば、新月の夜に都に出る術師は全部で五名。先日、春明と共に城に登った赤髪の男――嘉仁が指揮を取るという。
兵部からは正式に、都に御触れを出した。来る新月の夜は、呪術師による妖怪狩りが行われる。一般の民は建物の奥深くに籠り、決して表を出歩いてはならぬ。
そうしてあっという間に、新月を夜に控える日を迎えた。
紅焔が居を構える紫霄宮は、皇帝の執務室も備えている。大臣らとの御前会議やなんらかの式典が催される日を除き、皇帝はほとんどの時間をこの執務室で過ごし、日々の政務を執り行なっている。
ゆえに、皇帝を警護する近衛武官の大将・梁永倫にとっても、紫霄宮は慣れた場所だ。
(んーっ。今日もいい天気だなあ!)
大きく伸びをしながら、永倫は紅焔の執務室へ向かう。元従者である永倫は紅焔の信頼厚く、紅焔のそばに付くことが多い。とはいえ皇帝の警護は基本的に持ち回り制なので、本日のように昼過ぎからお役目に当たることもあるのだ。
季節はすっかり春めいて、ぽかぽかと陽気が降り注ぐ。風の中にはどこかで咲いた花の甘い香りが混じり、歩いているだけで心が弾んでくる。一年中、今日みたいな天気が続けばいいのに。そんなことを思いながら、永倫は元気に皇帝の執務室の戸を開いた。
「失っ礼しまーす! 梁永倫、交代にて参りました……って、えええええええええーーーー!? コウ様、めっちゃしなびてるうううううーーーー!?」
戸を開いた途端、真っ先に目に飛び込んできた主人の姿に、永倫は春の陽気も忘れて悲鳴をあげた。
普段は姿勢よく几帳面に執務席に座っている紅焔は、今日はジメジメと湿った空気を纏い、ぺたりと机に突っ伏している。真面目が服を着て歩いているような紅焔の、いつもならあり得ない姿に、ほかの近衛たちは声すら掛けられずにオロオロとしている。
永倫がおそるおそる近づいていくと、部下の近衛武官たちが救いを求める子羊たちのような目で永倫を見た。
「梁大将……」
「梁大将、我々はどうしたら……」
(具合が悪い……ってわけじゃ、ないみたいだ)
ピクリとも動かない主人を観察して、永倫はそう結論付けた。急に目の前で倒れたとかなら近衛たちが慌てて医官を呼んでいるはずだし、徐々に体調が崩れていったのなら、体調管理にも余念がない紅焔ならさっさと公務を切り上げて寝室に戻っている。
だとすればこれは、自分にしか対処できない事態だ。そう判断した永倫は、ぱんぱんと勢いよく手を叩いた。
「よし、みんな。あとはこの、梁大将に任せた、任せた! 陛下は私と積もる話があるから、みんなはここを外すように。あ、けど。執務室に誰も入らないように外は見張っていてね。というわけで、配置急いで!」
そう呼び掛けると、部下の近衛武官たちが我先にと執務室から出ていく。皆、執務室に満ちる居たたまれない空気から逃げ出したくて、永倫が号令をかけるのを待っていたようだ。
最後の一人が、扉をきちんと閉める。それを確認してから、改めて永倫は、どんよりと突っ伏したまま沈黙する紅焔に向き直った。
「みんないなくなったよ。それで。何があったのさ。上奏文すら読めないなんて、お前らしくもない」
ぴくりと、紅焔の肩が動いた。一応、永倫の声が聞こえてはいるらしい。
ややあって、甲羅に籠っていた亀が首を出すように、もぞもぞと紅焔が起き上がる。力なく項垂れる彼は、叱られた子供のように意気消沈していた。普段は近寄りがたいほどの秀麗な美貌も、今日はすっかりかたなしだ。
これは、思ったより重症かもしれないぞ。そう永倫が戦慄した時、紅焔は視線を伏せたままぽつりとこぼした。
「……俺は、いかに自分が小さい人間が思い知ったんだ」
「何が? 皇帝として国を治めることなら、コウ様はよくやっているよ。焔翔様が見守ってくださってるのが分かったって、前にそんなことも言ってたじゃないか。何がどうして、キノコを頭からはやしそうなくらい落ち込んでいるのさ」
「いや。そういったことではなくて……」
なにやら言いづらそうに、紅焔が目を逸らす。その気まずげな表情を見て、永倫はすぐに「もしかして?」とピンと来た。
そういえば十日ほど前にも、紅焔が妙に覇気がないというか、魂が抜けたような顔をしていた日があった。その前夜には、妃が彼を訪ねてきていたと、侍従長が話していた。
「コウ様、やっぱりお妃さまと何かあったんじゃない?」
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