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3章 ひとつ目の狐
5.
しおりを挟むその夜。公務を終えた紅焔は、やたらと疲労を覚えながら居室に向かっていた。
(今日一日、妙に藍玉の顔が頭にチラついてまいったな……)
都を脅かす妖怪のことを秘密にすると決めた罪悪感からだろうか。大臣からの報告を聞いている時も、新法設立のための書物に目を通している際も、なぜかあの涼やかな美しい顔が頭の片すみに浮かぶ。そのせいで公務がはかどらず、仕事は進まないのに普段の二倍は疲れるという非効率具合だった。
幸いと言ってはなんだが、口にすることで呪いが自らに降りかかることを恐れてか、新月の夜に狐の妖怪が出たことはそこまで広まってはいない。後宮は外界と遮断されがちであるし、藍玉はまだ都で起きていることを知らないだろう。
順調にいけば、次の新月に狐の妖怪は退治される。仮にそのあとで藍玉の耳に噂が届いてしまったとしても、すべては終わったこととして謝り倒すだけだ。
そう嘆息した紅焔は、襖戸をガラリと引いて開けた。
「おかえりなさいませ、お忙しい旦那さま」
「うわあ!」
いま最も見たくない顔に出迎えられ、紅焔は文字通り悲鳴をあげて飛び上がった。
藍玉は当たり前のような顔をして、部屋の真ん中の椅子にすわりのんびりと茶を嗜んでいる。完璧に整った美しい横顔を、紅焔は化け物を眺めるような目で見つめた。
「なんでいる!? ……え、本物、だよな……? 本当になんでいる!?」
「侍従長さんにお願いして、お部屋にあげていただきました」
「はあ!?」
「お優しい旦那さま。私がこちらに足を運ぶことがあれば、自由に通して構わない。そう皆様に仰ってくださっていたそうですね。契約妻に過ぎない私に少々気を許しすぎな気もしますが、おかげで温かいお部屋でゆっくり待たせていただけました」
そういえば以前、紫霄宮に勤める者たちにそう伝えていたのだった。藍玉から自分を訪ねてくることなど紅焔が倒れた時以来なかったので、すっかり忘れていた。
(だから侍従長の奴、そそくさと退散したのか!)
執務室から出た途端、「それでは夕餉の支度を……」などと言いながら侍従長ほかお付きの者たちが消えた理由が、ようやくわかった。いつもは居室まで送ってからいなくなるので妙だとは思ったのだ。大方、紅焔が妃と水入らずの時間を過ごせるようになどと、いらぬ気を回したのだろう。
(妖怪の件が片付くまでは、彼女には会わないつもりだったんだがな……)
内心でぼやくが、来てしまったものはしょうがない。紅焔は親しげな笑みを張り付けて、藍玉の向かいに腰を下ろした。
「珍しいな、君のほうから俺を訪ねてくれるのは。何か話したいことでもあるのか?」
「はい、旦那さま。私、浮気の気配を察知して、こちらまで参りました」
「っ、う!?」
藍玉の前にあった豆の菓子を口に放り込んだ紅焔は、とんでもない単語が耳に飛び込んできたせいで思い切りむせてしまった。ごほごほと咳き込む紅焔を、藍玉はいつもの無表情でじっと見つめる。
「まあ、まあ。落ち着いて話しましょう、旦那さま。はい。お茶です」
「う、浮気だぁ!? この俺が!? いつ、どこで!」
藍玉が置いてくれた茶器には目もくれず、紅焔は顔を引き攣らせて勢いよく立ち上がる。
断言しよう。自分は浮気などしていない。……そもそも皇帝であり、今のところ妃はひとりだけとはいえ後宮なんてものを抱えている紅焔に『浮気』の概念が当てはまるのは甚だ疑問だが、とにかく無実である。
しかし藍玉は、彼女らしくもなく少しだけ唇を尖らせた。
「いいえ、しました。私というものがありながら、旦那さまは別のお方とあんなことを……」
「してない! いいか、こればかりは空と大地の両方に誓えるぞ。こう見えて俺は、女とは無縁のむさくるしい兵部畑の人間だ。こんな人間が、器用に浮気なぞできると思うか!?」
「なんでちょっと得意げなんですか。それと、私が申し上げているのは女性関係ではありません」
「は……?」
じっと薄水色の瞳で――気のせいでなければ、うらめしげに自分を見上げる藍玉に、紅焔は眉根を寄せて戸惑う。けれどもすぐに、彼女の言うところの『浮気』を理解して、とっさに頭を抱えてしまった。
(あー……。あーあーあーあー、浮気ってそういうことか!)
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