上 下
31 / 90
2章 霊憑きの髪飾り

13.

しおりを挟む

 それを聞いた藍玉が変な顔をした。

 李流焔が天宮城を落とした頃、紅焔はまだ年端もいかない子供だった。彼が乱世を駆けるようになるのは十年も先のことで、少なくとも天宮城で命を落とした者たちに対して、紅焔に直接的な関係はない。

 しかし紅焔は、ほのかに湯気を立てる茶を眺めながら、ゆっくりと首を振った。

「確かに、俺には過去に命を落とした者たちの運命を変えてやる力はない。しかし俺は皇帝だ。今やこれからを生きる者たちへの責任が、俺にはある」

 真に平らかな世を創る。そう夢物語を何度も口にした父の中にも、きっと同じ思いがあったのだろう。

飢えの苦しみが、親しい者を喪った悲しみが、明日にも死ぬかもしれないという恐怖が、普通の人間を修羅に変える。そういう地獄を、戦場で何度も見た。

同じ悲劇が繰り返されないように――人間が人間として、隣人を慈しむことができるように。そういう世を創る義務が、紅炎にはある。

「過去に囚われ、進む道の正しさに縋りつくことはもうしない。だからこそ純粋に、シンプルに、今の俺は己の成すべきことがわかる。……彼女のことは、俺に初心を思い出させてくれた。そういう巡り合わせだったんだ」

 切れ長の目を伏せ、紅焔はかつてこの城で生きた者たちに思いを馳せた。藍玉はそんな夫をしばし珍しい生き物を見るような顔で眺めていたが、しばらくしてから得心したように頷いた。

「なるほど。旦那さま、クソ真面目ですね」

「クソとか言うな。年頃の娘が」

「真面目ついでに、今のはジジ臭いです」

「悪かったな。どうせ俺は、面白みの欠けたつまらない男だよ」

 口をへの字にして、紅焔は不貞腐れた。

 コウ様は真面目すぎると、従者だった頃の永倫に何度も言われた。紅焔にもその自覚はある。そんなことだから、自らを呪う生霊なんかを生み出してしまうのだ。

 しかし藍玉は、飄々と肩をすくめた。

「つまらない男だなんてとんでもない。むしろ私は、いまこの瞬間に初めて、旦那さまを好ましい夫と感じました」

 ちょうど茶を飲もうとしていた紅焔は、思いきり咽せてしまった。気管に入ってしまった茶をゴホゴホと吐き出してから、涼しい顔で菓子をつまむ藍玉を紅焔は睨んだ。

「お前、さては俺を揶揄って遊んでいるな?」

「いいえ。これっぽっちも」

「正直に言ってみろ。いまなら怒らないから」

「すみません。ちょっとだけ遊びました」

 藍玉はそう言って、ペロリと赤い舌を覗かせる。その表情が思いのほか愛らしく、紅焔は本当に文句を引っ込めるしかなくなる。

 むすりと紅焔の眉間のシワが濃くなる中、向かいに座る藍玉は、風に揺れる髪を押さえながら微笑んだ。

「けれど、ウソも言っていませんよ。――あなたは良い方です。皇帝などにしておくのが、もったいないくらいに」

「それは……」

 どういう意味かと聞こうとして、すぐに思い直して口をつぐんだ。どうせ彼女は答えない。月が満ち欠けするように、少し近づいたと思ったら離れていく。藍玉はそういう娘だ。

(今日はこの辺りが引き際か)

 残りの茶を飲み干して、紅焔は席を立つ。そのまま立ち去ろうとした時、思わぬ一言が彼を引き留めた。

「そういえば、私と話をしたいと仰っていましたね」

「……は?」

 動きを止めて、紅焔は藍玉を振り返る。彼女はいつもと同じ感情の読めない澄んだ薄水色の眼差しで、艶やかな黒髪の下からじっとこちらを見つめていた。

 ぽかんと紅焔が瞬きをすると、藍玉は長い睫毛を震わせてそっと目を伏せた。

「すでに気が済んだのなら良いのです。ただ、旦那さまが春陽宮に泊まった夜に、そんなことを仰っていたのを思い出しまして」

「おま! あの夜、俺の声が聞こえてたのか!?」

「ええ、まあ。早く霊の正体を突きとめたかったので、聞き流しておりましたが」

「聞き流すな。仮にも皇帝の言葉を!」

 本当になんて妃だ。頭を抱える紅焔を再び見上げて、藍玉は形の良い唇を開く。

「……ただ、今回は。旦那さまのおかげで、あの侍女の魂を早く、未練から解放してやることができました。そのお礼に、なんでもひとつ、あなたの質問に答えましょう」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

生贄の花嫁~鬼の総領様と身代わり婚~

硝子町玻璃
キャラ文芸
旧題:化け猫姉妹の身代わり婚 多くの人々があやかしの血を引く現代。 猫又族の東條家の長女である霞は、妹の雅とともに平穏な日々を送っていた。 けれどある日、雅に縁談が舞い込む。 お相手は鬼族を統べる鬼灯家の次期当主である鬼灯蓮。 絶対的権力を持つ鬼灯家に逆らうことが出来ず、両親は了承。雅も縁談を受け入れることにしたが…… 「私が雅の代わりに鬼灯家に行く。私がお嫁に行くよ!」 妹を守るために自分が鬼灯家に嫁ぐと決心した霞。 しかしそんな彼女を待っていたのは、絶世の美青年だった。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...