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53.欠けた時間を埋め合いまして。
しおりを挟む「エリアスさん! 待って! どこまで行くの!」
フィアナを腕に抱いたまま、エリアスはまっすぐに夜の街を歩く。夜の心地よい風が、ふわりと二人の髪を撫でる。通り過ぎる家々から零れる光が、彼の白い頬、涼やかな瞳、細い銀糸のような髪を闇夜に浮かび上がらせる。
エリアスはそうやって、フィアナを噴水広場へと連れて行った。噴水の縁にフィアナを座らせた彼は、余裕のない――喜びと切なさの入り混じる笑みを浮かべて、フィアナを正面から覗き込んだ。
早鐘のように鳴る彼の、胸の鼓動が聞こえた気がした。
「フィアナさん。私の天使さま」
ぎゅっと、強く強く、エリアスに抱きしめられる。久しぶりに鼻腔をくすぐる、柔らかなコロンの香り。その懐かしさに、うっかりフィアナの涙腺も緩みそうになる。
まるで、そのまま一つに溶け合ってしまおうとするように、エリアスは大きな体ですっぽりとフィアナを包み込み、掠れた声で囁いた。
「ずっと……。ずっと、貴女に、こうして触れたかった」
――このまま、溢れる幸福に酔いしれてしまうのもまた一興だろう。
けれどもフィアナには、先に確かめなければならないことがある。
「エリアスさん、エリアスさん。正直に答えてください。……記憶、いつ戻ったんですか?」
気まずげな沈黙が、ふたりの間に流れる。さらさらと噴水のしぶきが散る音だけが、場を埋めるように微かに流れる。
ややあって体を離したエリアスは、眉をハの字にして白状した。
「頭をぶつけた翌日です、私の天使さま」
エリアスの答えに、フィアナはにっこりとほほ笑む。それこそ慈愛に満ちた天使のような笑みなのに、異様な緊張感が辺りを満たす。
一拍おいてフィアナはきっとエリアスを睨むと、大きく手を振りかぶった。
「とりあえず一回殴らせなさい、この嘘つき!」
べちん!と。乾いた音色が、夜の噴水広場に響いたのだった。
フィアナを庇い、頭をぶつけてしまったエリアス。そのあと医者に診てもらった時の彼は、本当に記憶があいまいで、フィアナたちのことがわからなかったのだという。
けれども、そのすぐあと。診断を終えて軽くひと眠りし、明け方にふと目を覚ました時。彼はすべての記憶を取り戻していた。
「はじめは、すぐに皆さんにお伝えしようと思ったんです」
腕を組んで見下ろすフィアナの前で、エリアスはしゅんと項垂れて続ける。一国の宰相である彼が、夜の街で地面にじかに座って小さくなっている姿は、なかなか見物であろう。
「しかし、ひとりベッドの上で考えていたとき、私は思いついてしまったんです。記憶がない。この状況は、うまく使えると」
エリアスは、店を覗いていた怪しい男たちについてフィアナから話を聞いたときから、アリス・クウィニーが背後にいることを疑った。
これまでも問題が多く、加えてエリアスにすっかりご執心の彼女であれば、フィアナとのことを知れば嫌がらせをしようとしてもおかしくない。加えて、彼女の父親はスラムの犯罪組織との繋がりが疑われており、彼女ならその伝手を使ってならず者をグレダの酒場に差し向けることが可能だ。
もしもその仮説が正しければ、エリアスが頻繁に店に通っている限り、アリスはグレダの酒場への嫌がらせをやめない。といって急に店に通うのをやめるのは、どうしても不自然だ。
しかし、記憶を無くしたなら。店のこと、フィアナのこと、友のこと。すべてを忘れてしまったなら。急にフィアナたちのことを避けるようになっても自然であるし、アリスもグレダの酒場を頻繁に襲わせる必要はなくなる。
自分が離れれば、いくらかはフィアナを守れる。そう思ったのだ。
「それに、アリスさんが黒幕であれば、私の記憶喪失を利用して次の策を講じてくるはずです。であれば、しばらくは自由に彼女を泳がせて、証拠を集めるべきだ。そのように考え、記憶喪失のフリを続けました。――貴女が苦しみ、涙を流しているのを知りながら」
すみません。そう、消え入りそうな声で懺悔するエリアスの手は、強く握りしめるあまり白くなってしまっている。
「貴女に真実を打ち明けてしまおうか。何度も、そう悩みました。しかし、万が一アリスさんにばれたら、どんな報復をするかわかりません。私のことは構わない。けれども、矛先が貴女に向いてしまったら。これ以上、私のせいでフィアナさんが傷つけられてしまったら。そう、思うと」
「言えなかった。そういうことですか」
フィアナが後を引き継ぐと、エリアスは唇を引き結んだ。沈黙は肯定の意。それくらいはわかる。――加えてエリアス側の事情も、理解は、した。
守ろうとした。被害を最小に事を治めるためだった。理屈はわかる。彼の想いもわかる。
それでも。
「……エリアスさんは、ひどいです」
ぎゅっと膝の上で手を握って、フィアナは表情をゆがめる。そんな彼女に、エリアスが唇を開きかけたが、途方に暮れたように視線を落とした。
多分これは、駄々を捏ねているだけだ。そう自覚しつつも、フィアナはつんと鼻の奥が痛むのを堪えながら、エリアスを精一杯睨んだ。
「大切な人の記憶から消える。それがどういうことか、エリアスさんにわかりますか?」
視界が滲んでぼやける。やっぱり泣いてしまった。頭の片隅でそんなことを投げやりに思いながら、フィアナは続けた。
「このまま、エリアスさんの記憶が戻らなかったらどうしよう。何度も。何度も何度も何度も。考えて、悩んで、頭を抱えて。そうやって不安になりながら、自分を責めて。そんな日々が、エリアスさんにわかりますか?」
大粒の涙がフィアナの頬を伝った、そのとき。エリアスが限界を迎えた。
彼は膝をついたまま、噴水の縁に腰かけるフィアナを抱きしめた。そうやってフィアナを包み込んだまま、彼は大きな手でフィアナの背をさすった。
ぐすっと鼻を鳴らしつつ、フィアナは唇を尖らせた。
「……伝わりました? 私、怒っているんです」
「はい。すごく伝わりました」
「とってもですよ。すっごく怒ってるんですよ」
「反省します。すごくすごく、反省します」
「反省したって無駄です。もう許せませんって、思っちゃってます」
「それでもかまいません。かまいませんけど」
そう言って、エリアスは困ったように微笑む。彼は壊れものを扱うように、そっとフィアナの目元を撫で、零れそうな涙をぬぐった。
「貴女の心が癒えるまで、一晩でも、数日でも、数か月でも、貴女を抱きしめたい。それだけは、許してくれませんか?」
愛おしさの滲む、優しい声。久しぶりすぎるその響きに、新たな涙が浮かんでしまう。それがまた悔しくて、フィアナはぷいとそっぽを向く。
本当に頭にくる。文句だって、まだまだ言い足りない。
けれども、これ以上はフィアナ自身が限界だった。
――ややあって、大変不服ながらも、フィアナはエリアスをちらりと見た。
「一か月分。全部を埋め合わせしてくれるっていうなら、考えます」
「喜んで」
間髪入れずに、エリアスは頷く。そうして彼は、そっとフィアナの顔を覗き込むと、温かく包み込むような口付けを落とす。
「私のすべては、貴女のために。愛しています。私の女神な、天使さま」
二人は何度も、何度も何度も、口付けを重ねた。それはまるで離れていた時間を埋めるようでいて、同時に、相手がそこにいるという実感を確かめるのに似ていた。
甘い痺れが、フィアナを襲う。このまま未知の感覚に溺れてしまいそうで、恐くなったフィアナは身を引こうとする。けれども、そんな彼女を捕えて、エリアスがさらに追い詰める。
「え、エリアスさん、ストップ。休憩を所望します」
息も絶え絶えに、フィアナは細い腕でエリアスを押す。だが、ゾクリとするほどの色香を漂わせ、美しい男は切なげにフィアナを見つめて小さく首を振った。
「嫌です。嫌です、フィアナさん」
つう、と白い指が首筋を撫で、フィアナは悲鳴を上げそうになる。きゅっと噛みしめた唇を、エリアスがすかさず啄む。ゆらゆらと揺れる熱を瞳に宿し、エリアスは囁いた。
「足りません。一分、一秒。もっと多くの愛を、私は貴女に……」
――だが。そんな彼の頭を、勢いよく何者かが叩いた。
「いつまでも帰ってこないと思ったら……! おっさん、少しは自重しろ!!!!」
「ま、まままままま、マルス!?!?」
いつの間にエリアスの背後に立って目を吊り上げている幼馴染の姿に、フィアナは仰天し、続いてリンゴのように顔を真っ赤に染め上げたのだった。
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