10 / 11
花街の呪い
しおりを挟む
昭和五十一年の新春、篠崎は中年男性の訪問を受けた。次女の勤める研究所の三十九歳の部長で、二人の幼子を遺して妻に先立たれ、嘉子を妻にしたいと申し入れた。まだ二十二歳である嘉子とは、歳の差が大きすぎる。一族は反対し、篠崎はこの吉村宅まで断りに出向いた。一流大学に学び、難関資格を取得していながら、決して偉ぶらない吉村を、逆によくできた人物と評価した。篠崎は一族を説得し、四月に式を挙げた。
先に次女が嫁入りしたので、篠崎は長女と六年交際している薬学部七回生の富野家に乗り込んで、結婚の催促をした。
勢いに押された父親の資産家富野は、同じ年の晩秋に挙式することを了承した。式の招待客はキヨの差配で花街の男衆が多く、新婦の由紀子すら眉をひそめた。真澄ともにキヨの養子で、及川家としての結婚式である。キヨが未だ入籍を許さない篠崎は新婦父、及川弘文として席次表に記載された。
翌昭和五十二年。篠崎の中古車ブローカーのネットワークは全取引先の倒産で瓦解し、篠崎は生業を雇われ仕事に求めた。既に五十歳を過ぎ、かつてのトップセールスと言えど就職先は見つからなかった。新聞広告で得た運転手の仕事は一ヶ月で喧嘩して辞めた。オイルショックから続く景気低迷のため、夜の街も活気が無かった。昭和三十年代のまま改装もされない『リド』も、めっきり客足が減っていた。客の居ない店内から、中年ホステスのカラオケ声ばかりが外に漏れていた。
真澄は八十坪ある篠崎の自宅土地を換金して、ジリ貧になる店を改装するか、廃業してビルを建てる提案をした。キヨからも了承を得て、次女の夫の紹介で土地の売却が決まり、キヨの麻雀部屋まで備えたビルの設計図まで決定した。
土地売買契約の締結後間もなく、宇都宮にいるキヨの最初の養女から異議が挟まれた。『リド』跡ビルが篠崎との共同名義になることは認められないと言う。唆(そそのか)したその夫が乗り込んできて、そこに借金のあったキヨは、早々に宇都宮側に転んだ。
既に自宅の退去引渡し期日も決まっていた篠崎と宇都宮側で怒鳴り合いの激しいやりとりがあったが、キヨの指示は覆らなかった。
真澄はキヨに絶縁宣言をした。恩知らずと罵られながらも真澄は篠崎と入籍し、キヨの籍から抜けた。
翌年、大宮本郷の土地売却代金を叩いて、篠崎は育った浦和の地に三十坪の土地付の小さな建売住宅を求めた。次女の夫にビル管理会社の事務職を斡旋してもらい、かつての稼ぎとは比べるべくも無い薄給取りとなった。だが、自尊心の強い篠崎は、事あるごとにトップセールス時代の自慢話を滔々と論じ、先輩社員たちに疎まれていた。一年半勤めた後の酒の席で、自慢話を揶揄されて激高し、喧嘩となってそのまま辞めた。
真澄は浦和に移り住んで以来、家計の助けにするために、製本工場のパートに出ていた。愚痴を聞いてくれたパート仲間から、ゴタゴタが続くのは、何かが憑いてるからだと指摘され、川口の良く当たるイタコの占いを勧められた。
幸せな一家に生まれていながら、一人だけ売られるような目に遭い、夫を失い、殆どただ働きさせられた半生。そして今の夫の酒癖の悪さと、その中年以降の仕事上のトラブル。やはり何かあるのかも知れないと、真澄は川口芝に盲目の霊媒師を訪ねた。
拝み屋という風情だった老婆は、真澄の一族の名と生年月日を聞き取る中、嘉子のそれに反応した。この子が生まれるために、誰かが身代わりに持っていかれたと。由紀夫の事はまだ話していなかった真澄は驚愕した。そして前夫の名を出すと、老婆は顔を顰めた。
この男の父が回収すべきだった業を背負ってしまったと。由紀子にも業がかかっているが、まだ由紀夫が守っている。しかし、その子供に出る恐れがある。
石橋の家に憑いているのは多数の古い女の怨念。篠崎には今生の女の恨み。お前自身は前世の因縁。
毎日先祖供養をすれば、先祖が業を和らげてくれるだろうと言うと、人形(ひとがた)に切った白い紙を一族分寄越した。各人の名を書いて、川に流せ。
真澄はイタコの言に従って、小さな仏壇を求めた。過去帳に篠崎家、石橋家、実家まで一族の命日を書き込み、毎朝水を替え、線香と灯明を灯して供養の祈りを捧げた。
真澄の祈りが通じたのか、篠崎は幸運にも大手中古車店の店舗開発責任者の職を得た。
終戦直後に大型トラックメーカーの地方工場で世話した後輩で、篠崎が千葉のディーラーに転勤になった後、半ば強引に引き抜いた森嶋の紹介である。森嶋はその後千葉でセールスとして根付き、中古車販売店で成功を収めて千葉中古車協会の会長に就いていた。かつての伝手を頼って、千葉県のディーラーまで足を伸ばしたところを、来訪中の森嶋に声をかけられたのである。
それからの篠崎は、六十歳まで中古車業界に身を置き、定年後は少年期にかい掘りで遊んだ別所坂下の白幡田んぼ跡に建つマンションに、通いの管理人を七十歳まで勤めた。
その十年間で一度だけ、夫婦で東北地方を自動車で巡った。
真澄の生まれ育った家はモダンなものに建て替えられていたし、浦和と同様、実家周辺は都市化で昭和初期の面影は無かったが、なにより両親の墓に四半世紀ぶりに詣でられることが嬉しかった。仏壇ではない、両親と先祖代々の墓前で、真澄は娘達の加護を祈った。
先に次女が嫁入りしたので、篠崎は長女と六年交際している薬学部七回生の富野家に乗り込んで、結婚の催促をした。
勢いに押された父親の資産家富野は、同じ年の晩秋に挙式することを了承した。式の招待客はキヨの差配で花街の男衆が多く、新婦の由紀子すら眉をひそめた。真澄ともにキヨの養子で、及川家としての結婚式である。キヨが未だ入籍を許さない篠崎は新婦父、及川弘文として席次表に記載された。
翌昭和五十二年。篠崎の中古車ブローカーのネットワークは全取引先の倒産で瓦解し、篠崎は生業を雇われ仕事に求めた。既に五十歳を過ぎ、かつてのトップセールスと言えど就職先は見つからなかった。新聞広告で得た運転手の仕事は一ヶ月で喧嘩して辞めた。オイルショックから続く景気低迷のため、夜の街も活気が無かった。昭和三十年代のまま改装もされない『リド』も、めっきり客足が減っていた。客の居ない店内から、中年ホステスのカラオケ声ばかりが外に漏れていた。
真澄は八十坪ある篠崎の自宅土地を換金して、ジリ貧になる店を改装するか、廃業してビルを建てる提案をした。キヨからも了承を得て、次女の夫の紹介で土地の売却が決まり、キヨの麻雀部屋まで備えたビルの設計図まで決定した。
土地売買契約の締結後間もなく、宇都宮にいるキヨの最初の養女から異議が挟まれた。『リド』跡ビルが篠崎との共同名義になることは認められないと言う。唆(そそのか)したその夫が乗り込んできて、そこに借金のあったキヨは、早々に宇都宮側に転んだ。
既に自宅の退去引渡し期日も決まっていた篠崎と宇都宮側で怒鳴り合いの激しいやりとりがあったが、キヨの指示は覆らなかった。
真澄はキヨに絶縁宣言をした。恩知らずと罵られながらも真澄は篠崎と入籍し、キヨの籍から抜けた。
翌年、大宮本郷の土地売却代金を叩いて、篠崎は育った浦和の地に三十坪の土地付の小さな建売住宅を求めた。次女の夫にビル管理会社の事務職を斡旋してもらい、かつての稼ぎとは比べるべくも無い薄給取りとなった。だが、自尊心の強い篠崎は、事あるごとにトップセールス時代の自慢話を滔々と論じ、先輩社員たちに疎まれていた。一年半勤めた後の酒の席で、自慢話を揶揄されて激高し、喧嘩となってそのまま辞めた。
真澄は浦和に移り住んで以来、家計の助けにするために、製本工場のパートに出ていた。愚痴を聞いてくれたパート仲間から、ゴタゴタが続くのは、何かが憑いてるからだと指摘され、川口の良く当たるイタコの占いを勧められた。
幸せな一家に生まれていながら、一人だけ売られるような目に遭い、夫を失い、殆どただ働きさせられた半生。そして今の夫の酒癖の悪さと、その中年以降の仕事上のトラブル。やはり何かあるのかも知れないと、真澄は川口芝に盲目の霊媒師を訪ねた。
拝み屋という風情だった老婆は、真澄の一族の名と生年月日を聞き取る中、嘉子のそれに反応した。この子が生まれるために、誰かが身代わりに持っていかれたと。由紀夫の事はまだ話していなかった真澄は驚愕した。そして前夫の名を出すと、老婆は顔を顰めた。
この男の父が回収すべきだった業を背負ってしまったと。由紀子にも業がかかっているが、まだ由紀夫が守っている。しかし、その子供に出る恐れがある。
石橋の家に憑いているのは多数の古い女の怨念。篠崎には今生の女の恨み。お前自身は前世の因縁。
毎日先祖供養をすれば、先祖が業を和らげてくれるだろうと言うと、人形(ひとがた)に切った白い紙を一族分寄越した。各人の名を書いて、川に流せ。
真澄はイタコの言に従って、小さな仏壇を求めた。過去帳に篠崎家、石橋家、実家まで一族の命日を書き込み、毎朝水を替え、線香と灯明を灯して供養の祈りを捧げた。
真澄の祈りが通じたのか、篠崎は幸運にも大手中古車店の店舗開発責任者の職を得た。
終戦直後に大型トラックメーカーの地方工場で世話した後輩で、篠崎が千葉のディーラーに転勤になった後、半ば強引に引き抜いた森嶋の紹介である。森嶋はその後千葉でセールスとして根付き、中古車販売店で成功を収めて千葉中古車協会の会長に就いていた。かつての伝手を頼って、千葉県のディーラーまで足を伸ばしたところを、来訪中の森嶋に声をかけられたのである。
それからの篠崎は、六十歳まで中古車業界に身を置き、定年後は少年期にかい掘りで遊んだ別所坂下の白幡田んぼ跡に建つマンションに、通いの管理人を七十歳まで勤めた。
その十年間で一度だけ、夫婦で東北地方を自動車で巡った。
真澄の生まれ育った家はモダンなものに建て替えられていたし、浦和と同様、実家周辺は都市化で昭和初期の面影は無かったが、なにより両親の墓に四半世紀ぶりに詣でられることが嬉しかった。仏壇ではない、両親と先祖代々の墓前で、真澄は娘達の加護を祈った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
欲望
♚ゆめのん♚
現代文学
主人公、橘 凛(たちばな りん)【21歳】は祖父母が営んでいる新宿・歌舞伎町の喫茶店勤務。
両親を大学受験の合否発表の日に何者かに殺されて以来、犯人を、探し続けている。
そこに常連イケおじホストの大我が刺されたという話が舞い込んでくる。
両親の事件と似た状況だった。
新宿を舞台にした欲望にまみれた愛とサスペンス物語。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる