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こちら動けば相手も動く

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 八月二十九日火曜日。社長が出張不在なので、久々に会社一番乗りの篠崎は、昨夜集めたネシアデータの整理をおこなっている。

 いつもは八時半にやってくるケイコが、四十五分も早く出勤してきた。だが、私服である。

「PCは八時半まで立ち上げ禁止だぞ。それにID(社員証)は読ませたのか?」

 東証一部に指定替えした折に、残業時間に関する厳しい戒律ができた。社員のPCには、ロガーが仕込まれており、立ち上げ時刻(正確にはOSログイン時)、シャットダウン時刻が記録され、サーバの人事課フォルダに通知されている。始業は八時四十五分だが、一応、八時半からの立ち上げは時間内としてセーフ。八時半より早く立ち上げると、早朝時間外労働ということになって、勤怠システム事前登録と権限者承認が必要となる。人事課のツッコミが厳しいので、篠崎もつい神経質になっている。

「まだ出勤になっていません」

 答えると、机の中から紙出力した比良坂メールを出して見せ、小声で「これだけ出ました」と伝えて来た。経理部はまだ他に誰も出勤していない。

 篠崎はPCで第七会議室周辺のライブカメラを止め、ケイコに入室して待つように伝えた。篠崎は上級管理職なので、残業制限が無く、PC使用時間の制限も無い。
篠崎は自分が紙出力した資料を持ち、ケイコに遅れて第七会議室に入った。

「よーし、十五分で今日の割り当てを決めよう。きみはどこまで調べた?」

「先週からメールのやり取りが盛んになっています。比良坂社長からマネジャー宛の指示が、非常に細かくなっています。倉庫外注への命令を、具体的に指示しています。それだけではなく、直接倉庫外注に対して、臨時の増床を要求しています。それも、おなじ倉庫棟ではなく、隣接した建物で、フォークリフトで在庫品の移動が楽にできるところという条件付きです。倉庫からの契約書がメール添付で来てたので、こちらで印刷しました。今日、八月二十九日から、十一月二十八日までの三か月間です。30×50メートルの占有で、面積単価が今の倉庫より高いです。その他、送金関係のメールはありませんでした」

 先週水曜のグローバル営業会議(毎月一回、朝六時から午後一時まで、全世界の子会社を結んでテレビ会議を実施している。海外事業本部、製造部、品質保証部、生産計画課、経営企画部、なぜか経理部の参加である)で、グローバルPSI(生産売上在庫)の進捗フォロー兼、四半期のプレ実地棚卸(フィジカルカウント)を、無作為抽出した子会社に対して八月末付で本社立ち合いの下実施すると通告をした。

 グローバルPSIは創業会長が信念をもって構築したものの改良版だが、まだ所期の効果が上がっていない。その確認は大義名分になる。四半期の実地棚卸は、前回の本決算でちゃんとできない子会社があったのは事実で、そのフォローアップもまた理由になっている。

 もちろん、事前に社長に対して、ネシアに偶然を装って棚卸に行きたいので、理由を付けてやりますよ、と話を通している。金曜日に本社からの立ち合い先を通告した。

 ネシアには、経理部会計グループの春原(すのはら)課長と部下一名が行く。
 インドとトルコに行かせようとした監査室は断固行かないと言い張り(内部監査にも行ったことがない)、EU(オランダ・ドイツ)なら行くと条件を出したので、アムステルダムの大量在庫の確認をしてくれるならいいや、とエコノミークラスで送り出した。
 これまたブラジルに行かせようとした監査役は、アメリカでないと嫌だと駄々をこねたので、ビジネスクラスなら、と条件を出して(耶蘇OBはファーストクラスが既得権益と思っている。旅費規程では、役員からビジネスクラスで、部長の篠崎はエコノミーである)、行ってもらう。
耶蘇の方々には危険地帯に赴いてもらい、なろうことなら殉職していただきたかったのだが、うまくいかないものである。

 そのような棚卸(たなおろし)立会(たちあい)通知のためか、ここへきて、ネシアでは倉庫の移動指示が活発になっているのだろう。そのココロは、在庫の物理的整理では無く、存在しては拙(まず)い在庫を、どこかに隠す、というのが、監査上推定される事象である。

「今日もメールが飛び交うだろうから、その追跡と、あとはうちの輸入実績だな。ネシアから直輸入の有無と、モノは他所から、代金だけネシアに払うと言う三角決済の有無だ。それから、通常は次回の支払から減額するのでやらないはずだが、返品分を現金で返したことがあるかどうか。物流部と海外事業本部からデータを貰ってくれ。以上、細かい指示はチャットでやるから。着替えてきていいよ」

 いつものようにライブカメラで周囲の確認をして、ケイコを送り出す。八時十五分に、篠崎もデスクに戻った。
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