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エージェント 久保田

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 情報システム部の久保田は、夏季休業中の八月十三日十六時、上司の岸部長とともに、ジャカルタに到着した。

 六月に稼働開始した第二次グローバルPSI(生産売上在庫)システムの、S(売上)とI(在庫)の部分が、未だネシアだけネット接続されておらず、EXCELベースのメール連絡にとどまってリアルタイム表示されないことが、経営会議で問題となっていた。

 十日の午前中に篠崎が情報システム部に来て、岸に対し経理も困っていると相談した。すぐ隣の島で聞くともなしに聞いていたような顔の久保田が「一緒にネシアに行って、休み中にやっつけちゃいましょう」と後押したため、岸もその気になって応じてくれた。もちろん、久保田と篠崎はチャットでシチュエーションを仕組んでから演技したのである。

 岸のパスポート番号を控えていた久保田によって、既に航空券は手配済だった。岸は横浜の自宅に二日間だけ帰省して、そのまま羽田から久保田を伴ってジャカルタへ向かった。
 シンメカ出張者の定宿(じょうやど)である、独立記念塔近くの五つ星ホテルに投宿した久保田は、私物のアイパッドのSNSで篠崎からの追加の指示を確認し、明日からの仕事の段取りを組み替えていった。

 翌日十四日月曜日午前九時半。ネシア駐在のシンメカプロパー社員、平井がホテルまで迎えに来た。
 シンメカ・ネシアには、シンメカ本社から三名の社員が出向している。全員、英語は達者であるが、現地語はまだ片言である。岸と久保田を乗せ、助手席に納まった平井が、現地人運転手に何か命じた。「出してくれ」とでも言ったのだろう。

 運転手は、車の列がひしめく六車線の大通りに強引に割り込むと、フルスロットルで加速を開始した。車間距離は十五メートルあるかどうか。父母の世代から聞いた、「カミカゼ運転」を地で行くような走りである。ネシア社用車だけでなく、周囲の車、全てが同様の運転ぶりである。

 生命の危険を感じた久保田と岸は、後席のシートベルトを体をよじって探し当て、ベルト引出しに何度も引っ掛かりながらも装着を終えた。社命で、シンメカ本社社員にネシアでの運転を禁じている理由を、二人ともに得心したのだった。

 高速道路を通り、さらにどこをどう通ったかわからないが、四車線の通りに面した、白いコンクリート作りの建物前の駐車場に止まった。平屋の建物の道路に面した上部を横断する五メートル幅で描かれた赤文字の『Shinmecha』。ここがシンメカ・ネシアである。

 平井に先導されてオフィスに入る。柱部分を除けば、建物の床から天井近くまでガラス張りである。ガラスは薄く黒いコーティングが施されて外部からは見え辛くなっており、日射しに応じてロールカーテンを下ろしている。
 オフィスは十五メートル四方の事務室と、五メートル四方の廊下側がガラス張りの社長室、パーテーションで密室になるミーティングルームの他に、事務用倉庫と、日本では絶滅した真っ赤な上着に帽子を被った受付嬢(やや派手な化粧)付きの来客カウンターまである。百坪ほどの別棟があり、製品倉庫兼ショールームと、礼拝所になっている。

 岸と久保田は、平井に現地人マネジャーを紹介された。ナジルワンと名乗り、表は英語、裏は日本語の名刺まで寄越した。他に男性事務員が二名、ヒジャブという布を、顔面だけ出して頭をぐるりと顎まで巻いている女子事務員が二名。女性は、髪を隠しているためか、久保田にはお世辞にも美形に見えなかった。化粧っ気が無いことも一因らしい。受付のお姉ちゃんが派手だったのとは対照的だったが、夜に平井が語ったところによると、受付嬢はあちこちの会社を掛け持ちしているそうである。

 ところで、肝心の社長の比良坂は、と訊ねると、予定が出来たので、カリマンタン島のバンジェルマシンに出張したと言う。岸は往訪の旨、電話で直接連絡して面談の約束まで取り付けていたのに、何を考えているのかと怒り心頭であった。
 久保田は、あり得ることだと思った。十七日の独立記念日に戻ると言う。久保田たち、情報システム部は十五日深夜の便で帰国する。今日明日を捕まらなければ、PSI接続の件は有耶無耶で済むと思ったのだろう。

 篠崎からの追加情報を得ていた久保田は、受注売上・購買在庫システムの入ったパソコンを、女子事務員に立ち上げてもらって、一通りの入力操作をさせた。
 一見すると、入力方法を見学しているようだが、久保田はログインIDとパスワードを打つキーの押下された位置と順番を、完全に記憶した。棋士が棋譜を諳(そら)んじられるように、IT屋久保田はキートップが凹むイメージとして、脳に焼き付けることができるのだ。

 午後の就業時間中にちゃんと設けられている礼拝時間。久保田は仕入在庫システムの入ったPCに向かい、篠崎から送られたバックドアのコマンドを入力した。ドアが開くことを確認してから、OS(オペレーティングシステム)のコマンドラインに降りていき、USBメモリからファイルを数個PCに落とすと、OSの起動シークエンスに手を加え、ウイルス対策ソフトの設定メニューに入っていくつかの設定を変更した。

 ムスリムの女子事務員が礼拝から戻った時には、久保田は何食わぬ顔で透明ビニール容器に封入されている常温の飲料水にストローを差し、不味そうに飲んでいた。

 翌日も不機嫌な岸に伴われて、ネシア事務所で過ごし、PSIシステムの指導をしながら、隙をみてはネシアにある全てのPCに持参ファイルを落し、設定を変えていった。ウイルス検知ソフトが反応しないことを確認しながら。
 残念なことに、比良坂のノートPCは、シンメカ情報管理規程に反して出張先まで個人持ち出しをしており、事務所には存在しなかった。久保田は、まあいい、見ていろ、と一人ごちた。

 さらにネシア事務所にある二台の日本製複合機(コピー・プリンタ・FAX・兼スキャナー)にも、持参のミニノートPCから社内LANを介して侵入すると、あるプログラムを走らせ、思惑通りに作動することを確認した。

 大いに不満顔の岸と、反して不敵な笑みを浮かべた久保田は、十七時に平井に空港まで送ってもらい、深夜便で帰国の途に就いた。
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