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特命調査室長 シノザキ

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 デスクの充電ホルダーに立てたPHSが鳴った。視線は手元の精算表に固定したまま、少数株主損益の段まで電卓を打った左手を、そのまま前方に伸ばして構内電話のPHS端末を取る。右手のスケール(ものさし)は、いま打った数字の下に固定している。
東京から新幹線で一時間半の小さな地方都市にある工場は床面積が広く、事務棟の管理部門は部署間に十分なスペースがあり、喧噪感が無い。

「シノザキさん、コバヤシです。いま、いいですか? 第七までお願いします」

 丁寧な物言いで「コバヤシ」と名乗るのは、篠崎のボス、シンメカの小林社長である。「石を投げればコバヤシに当たる」と言われるこの地方都市では、千人規模の工場にもなると、それこそ小林さんだらけになる。その中で経理部長の篠崎を「シノザキさん」と呼ぶのは、社長ただ一人である。

 篠崎は、七月の月次決算連結精算表の集計中の列だけ積算してチェックマークを付けると、経理部のすぐ横にあるパーテーション付属のドアから、書庫に挟まれた通路を通りぬけて中廊下を右に折れ、東の突き当たりにある第七会議室に向かった。

この建物が大手通信機器メーカーの工場だった頃、構内放送室として整備された、防音装置付きの会議室である。公表用業績見通しの数字調整や、新規事業の展開方針、特許訴訟関連打ち合わせ等、特に機密性の高い会議の用に供している。

 会議室に入ると、社長の小林清二、創業会長の小林勝利、専務の小林明、総務部長の小林秀次が既に鳩首会談中である。
 
社長だけがワイシャツにネクタイを締め、その上に作業服の上着を羽織り、スラックスを履いている。篠崎も含めたその他全員が、シャツからズボンから上着まで、帯電防止用に導電繊維の織り込まれたベージュ色の作業服姿で、一見しただけでは技術屋か事務屋だか区別がつかない。慣れた銀行屋は理解しているが、一見(いちげん)の保険屋は作業服をブルーカラーと思い込み、取締役レベルに尊大な口を利いては追い出されている。

「シノザキさん、急に呼び出して申し訳ない。ちょっと厄介ごとが起きたようです」

 もう還暦は過ぎているが、いまだに黒々とした豊かな髪を七三分けにしたセイジ社長が切り出す。曖昧な表現であるが、経験上、たいてい確定的な面倒事に及んでいる。

 社長は創業一族とは血縁は無いが、優れた技術力を持つアイデアマンで、シンメカの発展を支えてきた功労者である。温厚な人柄で社内で最も信頼されている。

 次いでコーポレートガバナンス(企業統治)およびコンプライアンス(法令遵守)担当役員が、スピークアップ(内部通報)の詳細を篠崎に説明した。
 創業会長の御曹司にしてイェール大学MBAのアキラ専務である。インテリイメージとはかけ離れた、アバタの多い田舎のヤンキー兄ちゃん的風貌の巨漢である。

 一通り通報内容の説明が終わると、社長は立ち上がった。

「この件は最上級のコンフィデンシャルマター(機密事項)です。今回もシノザキさん、特命調査室長として、いつものように、迅速適切に対処してください」

 この日も午後二時から東京で第1四半期の決算発表と、通期業績見通し説明のスケジュールが入っているセイジ社長は、会社組織図には存在しない『特命調査室』室長を篠崎に発令すると、十一時の新幹線で東京に向かうため退出した。

 創業者のカツトシ会長は、ずっと不機嫌な顔をして聞いていたが、ひとこと篠崎に発破をかけると出ていった。根っからのエンジニアは、聞きたくもなく聞かされた経営上の心配事を、毎週月曜日の恒例行事、自分の育てた大好きな工場巡視で紛らわしたいようだ。

「では、本件の解決スケジュールについてだが・・・」

 アキラ専務によって、決着期日が提示された。

 篠崎は経理部長として、今期の連結損益の見通しを、十パーセント程度の調整可能なポケットを持たせつつ、随時更新している。
 本件が決算にどう影響するか、まったく見えていないが、第2四半期の決算発表前にはカタをつけ、なんとか通期業績見通しの変更をしないで済ませる方針をアキラ専務に示した。あと三か月である。

 篠崎はデスクに戻ると、同じ島で直角に接する右斜め前のデスクで集計に熱中している部下のコバヤシケイコに、指示文を装った暗号メールを送った。
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