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雲
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近くで見た雲は恐ろしく巨大で、空のすべて、世界のすべてを覆っているかのようでした。よく見るとその境界はあいまいで、端の方は白い色が薄くなっていって、すうーっと霧が溶けるように空間に混じっって、どこからが雲なのかはっきりしないところがあります。
雲はからっとした明るい白さをしていました。複雑な気流がぶつかり合ってできるぶ厚い雨雲とは違うのです。これはシャボン玉にとっては、幸運と言えたかもしれません。
シャボン玉はさらに上昇し、雲の中に入って行きました。雲が空と溶け合う霧のような空域に入り、視界が悪くなってきたなと思ったらいつの間にか目の前が真っ白になり、何も見えなくなっていました。
不思議と怖さは感じませんでした。割れないように体に力を入れているので精一杯だったせいかもしれませんが。
ただ空気がやけにしっとりと自分を優しく包んでくれている感じがしただけです。雲の中の水蒸気は、水分が蒸発して体の水が足りなくなりかけていたシャボン玉に小さな恵みをもたらしたのでした。
シャボン玉はほんのちょっとだけ、安らかな気持ちになりました。心なし体も楽になったような気がします。ひょっとしたら雲の中は、他の空よりもわずかに気圧が高かったのでしょうか。シャボン玉は、体がパンパンに張り詰めた感じが、ほんのちょっとだけ少なくなったような気がしたのです。
そうして、長い時間が過ぎました。
おそらくシャボン玉の上昇は、この時止まっていたのでしょう。長い間自分を押し上げていた、空気の動きを感じません。シャボン玉に見えるのは、白い濃密な靄とそれを通して届く光だけ。僕はいったいどこにいるんだろうか。ひょっとしたらこれまで空を旅して来たと思ったのは幻で、僕は最初からこの白い空間を漂っているだけの、体の無い意識だけの存在なのかもしれない。僕はこの空間を、永遠にさ迷い続けるのかもしれない・・・・・・。
シャボン玉にはそう思えてきました。聞こえてくる音も無く、何も見えない、感触も無い。そんな状態に長く置かれると、不思議なことを考えるようになるものです。
そのうちに、シャボン玉は不思議なことに気づきました。自分の回りの雲が、かすかに赤っぽく色付き始めている気がしたのです。最初は錯覚かとも思ったのですが、どうやらそうではありませんでした。
それは時間がたつほどに、鮮やかに色合いを増していたのです。しばらくたつと、周囲の雲はもう白とは言えないオレンジ色に染まっています。それだけではなく、しだいに光も強まっていました。上の方がどんどん明るくなって、まぶしい輝きを放っていたのです。
シャボン玉は雲界を、上の方へと抜けようとしていたのでした。
シャボン玉は久しぶりに、頭のてっぺんにじりじりと陽光に照らされる熱感を感じました。その感覚は広がって、そして、オレンジ色に染まった霧は晴れて行きました。広々とした空に完全に出たシャボン玉は、太陽の日差しを全身に受けて、目もくらむような思いを味わいました。そして少ししてそれに慣れてくると、ゆっくりと周囲を見渡したのです。
その時の光景を、どう表現したらいいのでしょうか。世界は雲の下で見たのとは、まるで違ってしまっていました。
雲が自分の下にあって、まるで綿の絨毯を敷いたようにはるか見渡す限りに続いていたのも驚きです。ですが、そのすべてが鮮やかな朱色に染まり、柔らかな光を放っているように見えたのは想像を越えた光景でした。いや、本当に予想外だったのは、空の片側が茜色だったことでしょうか。空は青いと決まっていると思っていたのに、何だか裏切られたような気分です。その原因は太陽でした。真っ赤な太陽が、世界を朱く染めていたのです。太陽は雲の水平線とくっつきそうな低さにあって、圧倒的な力でもって横から雲と空とを照らしていました。
太陽が自分と同じ高さにあるなんて、すごく不思議なことでした。シャボン玉はその姿を、初めてはっきりと見ることができました。今までは強烈な光に邪魔されて、形が分からなかったのですが、今回は丸いと見てとれたのです。してみると太陽の光は、減ってしまっているのでしょうか。でも空のてっぺんにいて思いっきりギラギラ輝いていた時には世界を自分の色に染めたりはしなかったのに、今になって何もかもを自分の色に変えてしまうとは、理屈に合わないことでした。
ひょっとしたら太陽は、怒っているのかもしれないとシャボン玉は思いました。何かすごく頭にきたから、空や雲や世界に対して八つ当たりして赤くなって、「俺に従え」と主張しているのではないでしょうか。そういう態度はよくないと思いますが、だからと言って意見を言うには太陽は遠すぎました。
太陽の表面は、柔らかく溶けかかっているように見えました。シャボン玉にはそれが、怒った太陽が涙を流そうとしている前兆のようにも思えたのです。
空は以前より明るさが少なくなっているようでした。太陽の近くは強烈に朱いのですが、そこから遠ざかるにつれて色が薄くなってぼんやりした青みと混じり、空の反対側は、青みがやや暗くなっています。そしてそのあたりには、針で刺した点のような一番星が見え始めていました。
地上では、逢魔が刻と呼ばれる時間帯に入り始めていたのかもしれません。ですが、雲の上では、それはまだ太陽が暴君のように君臨する時間だったのです。
シャボン玉は溶鉱炉の中に放り込まれたような気分でしばらく呆然としていました。そして少しして驚きから覚めると、タカが言っていた言葉が思い出されてきます。
「太陽は毎日あっちの山から昇ってきて、そっちの山へと沈んで行くんだぜ」
今、太陽が低いところにあるのは、タカが言った通りに東から西へと空を移動して、山の向こうへと沈みこもうとしているからなのではないかと気づいたのです。でもそうするとその後は、世界は真っ暗になってしまうのでしょうか。
そんな、そんな馬鹿なことが、本当に起こってしまうのか。シャボン玉は震えあがりました。
「それがあるんだよなあ・・・・・・」
タカののんびりした声が、頭の中に響いてきました。
雲はからっとした明るい白さをしていました。複雑な気流がぶつかり合ってできるぶ厚い雨雲とは違うのです。これはシャボン玉にとっては、幸運と言えたかもしれません。
シャボン玉はさらに上昇し、雲の中に入って行きました。雲が空と溶け合う霧のような空域に入り、視界が悪くなってきたなと思ったらいつの間にか目の前が真っ白になり、何も見えなくなっていました。
不思議と怖さは感じませんでした。割れないように体に力を入れているので精一杯だったせいかもしれませんが。
ただ空気がやけにしっとりと自分を優しく包んでくれている感じがしただけです。雲の中の水蒸気は、水分が蒸発して体の水が足りなくなりかけていたシャボン玉に小さな恵みをもたらしたのでした。
シャボン玉はほんのちょっとだけ、安らかな気持ちになりました。心なし体も楽になったような気がします。ひょっとしたら雲の中は、他の空よりもわずかに気圧が高かったのでしょうか。シャボン玉は、体がパンパンに張り詰めた感じが、ほんのちょっとだけ少なくなったような気がしたのです。
そうして、長い時間が過ぎました。
おそらくシャボン玉の上昇は、この時止まっていたのでしょう。長い間自分を押し上げていた、空気の動きを感じません。シャボン玉に見えるのは、白い濃密な靄とそれを通して届く光だけ。僕はいったいどこにいるんだろうか。ひょっとしたらこれまで空を旅して来たと思ったのは幻で、僕は最初からこの白い空間を漂っているだけの、体の無い意識だけの存在なのかもしれない。僕はこの空間を、永遠にさ迷い続けるのかもしれない・・・・・・。
シャボン玉にはそう思えてきました。聞こえてくる音も無く、何も見えない、感触も無い。そんな状態に長く置かれると、不思議なことを考えるようになるものです。
そのうちに、シャボン玉は不思議なことに気づきました。自分の回りの雲が、かすかに赤っぽく色付き始めている気がしたのです。最初は錯覚かとも思ったのですが、どうやらそうではありませんでした。
それは時間がたつほどに、鮮やかに色合いを増していたのです。しばらくたつと、周囲の雲はもう白とは言えないオレンジ色に染まっています。それだけではなく、しだいに光も強まっていました。上の方がどんどん明るくなって、まぶしい輝きを放っていたのです。
シャボン玉は雲界を、上の方へと抜けようとしていたのでした。
シャボン玉は久しぶりに、頭のてっぺんにじりじりと陽光に照らされる熱感を感じました。その感覚は広がって、そして、オレンジ色に染まった霧は晴れて行きました。広々とした空に完全に出たシャボン玉は、太陽の日差しを全身に受けて、目もくらむような思いを味わいました。そして少ししてそれに慣れてくると、ゆっくりと周囲を見渡したのです。
その時の光景を、どう表現したらいいのでしょうか。世界は雲の下で見たのとは、まるで違ってしまっていました。
雲が自分の下にあって、まるで綿の絨毯を敷いたようにはるか見渡す限りに続いていたのも驚きです。ですが、そのすべてが鮮やかな朱色に染まり、柔らかな光を放っているように見えたのは想像を越えた光景でした。いや、本当に予想外だったのは、空の片側が茜色だったことでしょうか。空は青いと決まっていると思っていたのに、何だか裏切られたような気分です。その原因は太陽でした。真っ赤な太陽が、世界を朱く染めていたのです。太陽は雲の水平線とくっつきそうな低さにあって、圧倒的な力でもって横から雲と空とを照らしていました。
太陽が自分と同じ高さにあるなんて、すごく不思議なことでした。シャボン玉はその姿を、初めてはっきりと見ることができました。今までは強烈な光に邪魔されて、形が分からなかったのですが、今回は丸いと見てとれたのです。してみると太陽の光は、減ってしまっているのでしょうか。でも空のてっぺんにいて思いっきりギラギラ輝いていた時には世界を自分の色に染めたりはしなかったのに、今になって何もかもを自分の色に変えてしまうとは、理屈に合わないことでした。
ひょっとしたら太陽は、怒っているのかもしれないとシャボン玉は思いました。何かすごく頭にきたから、空や雲や世界に対して八つ当たりして赤くなって、「俺に従え」と主張しているのではないでしょうか。そういう態度はよくないと思いますが、だからと言って意見を言うには太陽は遠すぎました。
太陽の表面は、柔らかく溶けかかっているように見えました。シャボン玉にはそれが、怒った太陽が涙を流そうとしている前兆のようにも思えたのです。
空は以前より明るさが少なくなっているようでした。太陽の近くは強烈に朱いのですが、そこから遠ざかるにつれて色が薄くなってぼんやりした青みと混じり、空の反対側は、青みがやや暗くなっています。そしてそのあたりには、針で刺した点のような一番星が見え始めていました。
地上では、逢魔が刻と呼ばれる時間帯に入り始めていたのかもしれません。ですが、雲の上では、それはまだ太陽が暴君のように君臨する時間だったのです。
シャボン玉は溶鉱炉の中に放り込まれたような気分でしばらく呆然としていました。そして少しして驚きから覚めると、タカが言っていた言葉が思い出されてきます。
「太陽は毎日あっちの山から昇ってきて、そっちの山へと沈んで行くんだぜ」
今、太陽が低いところにあるのは、タカが言った通りに東から西へと空を移動して、山の向こうへと沈みこもうとしているからなのではないかと気づいたのです。でもそうするとその後は、世界は真っ暗になってしまうのでしょうか。
そんな、そんな馬鹿なことが、本当に起こってしまうのか。シャボン玉は震えあがりました。
「それがあるんだよなあ・・・・・・」
タカののんびりした声が、頭の中に響いてきました。
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