パンドラの玉手箱

川葉 秋

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パンドラの玉手箱

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 学校は、悪いところじゃない。私は学校が嫌いなわけじゃない。ただアイツらがいるから、アイツらのせいで学校に行きたくなくなった。でもそんなこと家族に言えない。ただでさえうちはシングルマザーで貧乏で、お母さんには迷惑ばかりかけているんだ。余計な心配事を増やすわけにはいかない。頭痛を訴えて学校を休むくらいが、私に出来るたった一つの逃げ道。学校が嫌いなわけじゃない。お母さんが嫌いなわけじゃない。ただアイツらが、アイツらだけが本当に嫌で怖いんだ。宿題のプリントがいつも無くなった。出しているのに出ていないと怒られた。いつの間にか名前を書き換えられていたみたいだった。靴をゴミ箱に捨てられた。靴の中には泥が詰められていて、ところどころ虫が湧き出ていた。私はそれを履いている。お母さんにどうしても相談出来なくて、貧乏だから新しいのを買えなかった。教科書をトイレにぶちまけられた。汚い靴で散々踏まれて、ビチャビチャのまま授業を受けた。始まりなんか分からない。原因なんか知らない。でも辛くて耐えられない。私には仲間がいなかった。
 その日は、朝から雨が降っていた。いつも行きたくない学校に、何故だか今日だけは死んでも行きたくなかった。お母さんに頭が痛いと伝える。少し心配されながらも休むことができた。しかし家に閉じこもっていても暇になるだけだ。私は遠くに行きたくなった。荷物をまとめて、電車に揺られる。お母さんが帰って来る前に家に帰れば多少不自然でも絶対にバレない。たぶん、忙しくてそれどころじゃないから。
 随分と遠くまで来てしまった。知らない町の大きな海。悩みなんて全部吹き飛んでいきそうな強い風。砂浜を歩く音が心地いい。ボロボロ靴の隙間から砂が入り込んでくるけれど、そんなこと今はどうでも良かった。全部忘れてしまいたかった。ふと、足下に視線を落とす。何かにつまずいた気がしたからだ。そこには黒い箱が落ちていた。紐できつく縛ってあるが、古い紐のようで簡単に千切れそうだ。拾い上げてよく見てみると、かすれた白い文字で『パンドラの玉手箱』と書かれていた。裏返すと大きな赤い文字で『決して開けることなかれ』とはっきり書いてあった。なんというか、気味が悪い。私はそれを砂に戻して帰ることにした。十分な息抜きはできたからだ。しかしやはり気になってしまう。海に背を向け歩き始めたところで、私は立ち止まっていた。持って帰ろうか。という思いが芽生えたのだ。あの箱には、何か惹かれるものがあった。あの箱を持っていると、落ち着いていられる気がした。持って帰ろうか。はるばるこんな遠くまで来て、手ぶらで帰るのもいかがなものだろう。それでは結局、私は電車代を無駄にしただけではないか。それはもったいない。せっかく無料で貰えるいうのに。持って帰ろう。私の意思は固まった。もう一度海に戻り箱を拾う。さっきよりも温かみが増したような気がした。私は箱を持って帰った。
 今日も、学校に行かなければいけない。仮病だってそう何度も使える訳じゃないのだ。また耐えなくてはいけない。ああ、逃げ出したい。全部全部放り出して違う世界にでも行ってしまいたい。死んでしまえば楽になるだろうか。何気なくパンドラの玉手箱に手を置いた。あったかい…… なんだろう。安心できる。体が一気に楽になる。学校に持っていきたい。だが持って行けば最後、取り上げられるのがオチだろう。私はこの箱を、何がなんでも手放したくなかった。
 学校に着いて下足箱を開く。私の靴に大量の画鋲が刺さっていた。半分心が折れながら全てを取り除いて履く。今すぐにでも帰りたい。帰ってあの箱に触れていたい。しかしそんなことをすれば、親に連絡がいくに決まっている。また一日中我慢するしかない。教室に入る。まだ誰もいない。いや、隠れているのかもしれない。私の机の上で、クラスで育てていた花の植木鉢が割れていた。驚いて近づく。すると突然カメラのシャッター音が聞こえた。慌てて後ろを振り返ると、やっぱりアイツがいた。ニヤニヤしながらスマホを掲げている。
「あーあ。浦瀬さん植木鉢壊しちゃった。クラスのみんなで育ててた大事な花だったのにな~。証拠もあるし。浦瀬さんひどっ」
私じゃない。でも何と反論しても無駄なのだろう。私に味方はいない。
「謝りに行った方がいいんじゃない?鳥羽センセーならいたよ?私も行ってあげる~」
鳥羽先生は担任だが、コイツの味方だ。都合のいい言葉だけを信じて執拗に私を怒る。大嫌いだ。
「おい、浦瀬。何してるんだ?」
完璧なタイミングで鳥羽先生がやって来た。コイツに金でも貰ってるんだろうか。
「あ、鳥羽センセー!なんかぁー浦瀬さんクラスのお花壊しちゃったみたいでぇ、私先生に言いに行こって言ったら、怒られるから内緒にして欲しいって言うんです~。あ、言っちゃった。ごめんね浦瀬さん」
泣きそうだ。私は何もしていないし学校に来てから一言も発していない。それでも味方になってくれる人ははいない。
「浦瀬…これはちゃんとみんなに謝るべきだぞ。朝のミーティングで時間を作るから」
公開処刑、ですか。私はどうしたらいいのだろう。もう本当に嫌だ。朝からずっとこれだ。嫌だ。嫌だ、嫌だ。消えてしまいたい。
 下校のチャイムが響く頃には、私はボロボロになっていた。でもやっと帰れる。やっとあの箱に触れられる。私は早歩きで家に帰った。急いで箱に手を置く。ゆっくりと深呼吸をした。ポロポロと涙が出てくる。これまではそんなことなかった。泣くだけの余裕ができたということだ。この箱のおかげで。
 次の日も学校を耐えた。その次の日も、その次の日も耐え続けた。箱はいつでも私にの味方をしてくれる。そのうち、箱以外何も信用できなくなった。元々信用するつもりも無かったが。
 ある日。私は本当に耐えられなくなった。いじめの主犯は一人だが、加担している人は何人もいる。傍観者も何人も。その中で、口こそきかないが同じ立場の人間というものがいる。いじめられている人。私の他に一人だけいた。勝元 将馬。彼は気が強い男の子だ。初めはいじめの主犯だったのが、だんだん立場が逆になってきたらしい。彼の存在は正直私には嬉しかった。きっかけが有れば立場が逆転するかもしれないと教えてくれているようだったからだ。彼がいじめられているのを見ると少しスッとした。だがこの日は、いつもと違った。勝元くんがいじめられなくなったのだ。何があったのかは知らない。ただ分かるのは、彼も私をいじめるグループに加わったということだ。今までほんの少し仲間意識を持っていたのに。裏切られたと思った。それだけじゃない。さすが元リーダーというだけあって、内容は一気にエスカレートした。頭から泥をかぶらされた。トイレの便器に顔を押しつけられた。昼、お弁当をひっくり返されて、踏みつけられた。
「食えよ。ほらエサ。早く食えよ」
勝元くんが私に命令する。藤山が私の体を掴んで無理矢理食べさせようとした。もう駄目だ。そう思った。私の中で何かが壊れてしまった…。私は藤山をありったけの力を込めて突き飛ばすと、逃げるように走って家に帰った。今すぐパンドラの玉手箱に触れたい。触れなきゃいけない。私がおかしくなってしまう。私はあの箱に依存していた。
 家の隅で、箱は静かに私を待っていた。勢いよく手を置く。だんだん落ち着いてきた。すると酔いが覚めるように、麻薬がきれたみたいに急に我にかえる。私は自分がやってしまったことに対して、激しく後悔し始めた。またお母さんに迷惑がかかる。今まで耐えてきたのが完全に水の泡だ。私はここからも逃げ出したくなった。ふと、ずっと頭の片隅で考えていたことを思い出した。決して開けることなかれ。開けたらどうなるのだろう。死ぬだろうか。だがそれも良いとも思う。一度考え出すと無性に開けたくなった。駄目と言われたらやりたくなる。仕方の無いことだ。いやでも駄目なものは駄目なんだろう。私は開けないことに決めた。はずだった。頭で開けない、開けないと思っているのに体が勝手に動く。箱に伸びた手が開けようとする。箱にまとわりつく紐は、案の定いとも簡単に外れた。もういい。開けよう。私はそう決め直した。今以上に最悪な状況にはならないだろうと思ったからだ。目を閉じて、深く息を吸う。覚悟を決めて蓋を開けた。
 目が覚めると、私はフカフカのソファーの上にいた。どうやら眠っていたようだ。ここは私の部屋。私はお金持ちなのだ。時間は朝の7時。学校に行かなくてはいけない。でも最近は楽しいのだ。クラスの藤山 莉花で遊んでいる。担任も私の味方。最近は勝元 将馬でも遊び初めた。彼は少し前までクラスの子をいじめていた。だから私が反省させてやっているのだ。私は正義の味方なのだから。しかし腹が立つのは藤山の方。学校ではほとんど喋らない。どうせ私達を見下しているのだろう。貧乏人のくせに。だから立場を教えてやっている。どちらが上でどちらが下かはっきりと。ああ楽しい。私は今すごく幸せだ。

 「あおと!空乙!お願い、目を覚まして!ねぇ、どうしたの?空乙、どうしちゃったの?お願い起きて!空乙!」
母親の必死の叫び声が病院に響く。ベッドには、今にも息絶えそうな少女が横たわっている。母親の涙が頬を伝って少女に落ちる。無情な電子音が聞こえた。少女の手は、少しずつ冷たくなっていく。
「嫌っ!嫌よ空乙!目を覚まして!」
「……浦瀬さん。残念ですが…」
優しく肩に置かれた医師の手を、母親は思いっきり振り払った。
「嫌よ!あおと!」
母親はベッドにすがりつく。しかし泣き叫ぶ母親の目の前で息を引き取ったその少女は、まんべんの笑みで黒い箱を握りしめていた。
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