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第二章

38話

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 前に進む。そう決めたのは自分自身だ。そう思いながらも手が震えるのはきっとまだ心の奥に不安があるから。でもそれに向き合っていかないと前には進めない。一つ大きく呼吸をしていつもより大きく分厚く見える扉をノックした。静かな廊下にはうるさいくらいにその音が響く。

「どうぞ」

 部屋の奥から聞こえた声に心を決めて扉を開き足を一歩踏み入れる。

「何か用でも、……フィリア」

 切れ長の目をいつもより少しだけ大きく見開いてこちらを見るその人、ルーク様はやはり多忙らしく手には書類を持っていた。

「お忙しいところを申し訳ございません」

「いや、気にする必要はない。少し先の仕事を早めに進めているだけだ。それより、こんな時間にどうした?」

 正直に言えばまだ病み上がりなのだからもう少し休んでいただきたいのだけれど……それに今は授業が始まるまで随分と余裕があるほどの早朝だ。おそらくと思って来てみたけれど本当にいらっしゃったし……。心配になったけれどこれがこの方の普通なのかもしれない。とりあえず質問に答えることにした。

「あ、えっと……前にお話をしましょうと…」

「…っああ、そのことか……」

 上手く言葉にできなくて途切れてしまったところをどうにか察していただけたらしくルーク様は机の上の書類を整理して一つ咳払いをした。

「俺から場を設けるべきだったのに、すまない」

「いいえ、私から申し上げたことですから。場所を変えますか?」

「そうだな」

 それから私たちは前に偶然出会った庭園の東屋の方まで歩いた。あそこは少しあの時のルーク様の表情やお声を思い出してむず痒くなるのだけれど、きっとあそこが一番ゆっくりとお話しできる場所でもあった。

「覚えて、いらっしゃいますか?」

 東屋に近づいてきた頃、何とは言わずにそう聞くとルーク様は顔ごと視線を逸らした。少しだけ見えた耳が赤く染まっているのが見えてふっと笑みが溢れる。

「……あの時は完全に寝ぼけていた。それにここは、よく似ているんだ」

 ちょうど目的地についてからルーク様はふと目を細めてその景色を見た。木の葉がサラサラと揺れて鳥たちの声が耳に心地よく響く。確かに、ここは私たちが昔過ごした王宮の庭園の東屋によく似ている。

「だから君が目の前に現れた時、奇跡が起こったのかと思った。あの頃のままに時間だけが進んだ世界が、突然現れたのかと……」

 そこまで言うとルーク様は押し黙ってしまった。けれど長椅子の一人分のスペースにハンカチを敷いて私をそこに座らせてくださる。そんな気遣いに胸が少し高鳴るのを感じた。

「何から話せばいいだろうか?」

「何からでも。お話ししたいことがあればそれでもいいですし、私に聞きたいことがあればお聞きください」

 私の隣に腰掛けながらのルーク様の言葉にそう返すと、彼は少し考えるような素振りをとった。そしてゆっくりとこちらを向く。

「……今度、髪を切ってもらえないだろうか?」

「へ?」

 予想だにしない言葉が聞こえてきたものだから間抜けな声が出てしまった。言った本人も少し驚いたような顔をしている。咳払いをして言葉が続けられる。

「いや、その……嫌ならいいんだ。強制するつもりはない。なんでこんなことを……」

「いいえ!嫌ではありません!ただ、どうして髪を切りたいとお思いになったのかが気になって……こんなにお綺麗な髪なのに」

 日光を反射してキラキラと輝くその銀糸のような髪は、今こうして見てみてもやはり切ってしまうにはとてももったいないように思えた。するとルーク様は少し困ったように眉尻を下げながら笑みを溢した。

「……これは願掛けみたいなものだから」

「願掛け?」

「髪型が同じままなら思い出してもらえるのではないかと、一度考えてしまうと切れなくなってしまった。思い出しても嫌われるだけなのだから切ってしまおうと思ったこともあったのだが、どうにも踏み切れなくてな……」

 そう聞くと言葉が喉の奥に引っかかってしまって出てこなくなる。するとそれを察したかのようにルーク様は言葉を足した。

「だから君に切ってほしいと思った。こんな未練がましい思いは、もう必要ないだろう?」

 そう言って笑う姿で分かった。ああ、このお方も前に進もうとしていらっしゃるのだ、と。

「そういうことならば、切らせていただきます」

「ありがとう」

 話がひと段落つくとぎこちない空気が流れる。先程はルーク様から聞いてくださったのだから、次は私から聞かなくては。聞きたいこと、話したいことは山程あったはずなのにいざとなると頭には何一つ浮かばない。それでも思い出そうと頭を捻った。





 ふと自分の声で空気が揺れるのが分かった。

「あの、…私はルーク様の……枷になっていませんか?」

 無意識のうちに口から出たのは困らせるだけだと分かっていたから聞く気なんて毛頭なかったことだった。ルーク様との時間を思い返して、何をどう聞こうかと整理していただけだったはずなのに、それはいつの間には唇の向こうに放たれていた。
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