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第二章

それはまるで夢のような時間だった①

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(ルークベルト視点)



「泣か……ないで……?私は、大丈夫……だから……」

 涙を流しながら震えた声でそう言った彼女が今でも頭に焼き付いて離れない。ただ謝ることしかできなかった俺に向かって手を伸ばしながら、少し歪んだ、それでも他の誰よりも美しい笑顔を見せた幼かったあの少女のことだけは、きっといつまでも、離れない。



 君はもう覚えていない話だ。君は君が思っているよりも少し前から俺の婚約者だった、なんてそんな話は。

 あれは俺が7歳の時だった。父上が「お前の最愛の娘を見せろ」と駄々をこねてラインホルト公爵とその娘、フィリア・ラインホルトを呼びつけたのが始まりだ。謁見の間では堅苦しいからとその会合は王宮の庭で行われた。俺はそんなことはつゆ知らず庭の奥のあまり人の寄ってこない東屋で長椅子に寝転がっていた。そこは剣や書物に追われる日々に少し疲れた時に来る場所だった。気を抜いて目を瞑っていると物陰から音が聞こえてきて、見知らぬ気配を感じた。

「誰だ?」

 一瞬で立ち上がり辺りを窺うと悪戯をしているのが見つかったかのようなバツの悪そうな顔をした少女が現れた。

「ごめんなさい。蝶を追いかけていたらここまで来てしまいました。悪者ではありません。許してください……」

 瞳を潤ませてこちらに訴えかけてくる少女に思わず警戒心を捨ててしまった。むしろずいぶん幼いのにそれなりに言葉遣いが上手かったことに感心していた。

「別に怒ってはいない。君が元いた場所まで案内しよう」

 できるだけ優しい声音でそう言うと少女は太陽のように輝く笑顔になった。たぶん俺はこの瞬間にはもう彼女の虜だった。

 快晴の空のように澄んだ瞳、日差しに反射してキラキラと光る藍色の髪、そして薄く桃色に染まった頬。全てが美しかった。幼いながらに完成された顔立ちはまるで絵画のようだった。

 それから俺の後ろを小さな歩幅でついてくる彼女のペースに合わせて案内し、父上たちの元へと帰すと、また愛らしい笑顔で「ありがとうございます!」と言った。俺は自分がらしくない緩んだ表情になるのを察してすぐに口元を片手で隠した。それでも父上には悟られてしまったらしく、その後すぐに彼女との婚約が成立することになった。

「ルーク様!またここにいらしたのですね」

 婚約を結ぶと彼女は俺をそう呼ぶようになり、よく王宮にも来るようになった。そして俺があの東屋で休んでいるとそこに無邪気な笑顔で現れて、何かを求めるわけでもなく長椅子の端に控えめに腰掛けて穏やかな声で話しかけてきた。

「ルーク様は夢を見ますか?」

「まぁ、たまにならな」

「私は、最近変な夢を見ます。見たことないものがいっぱいあるお部屋でずっと泣いているんです。寂しくて寂しくて、泣いているんです」

 彼女はよく夢の話をした。遠いどこか俺の知らない場所を見ながら静かに語るその姿になぜか不安を覚えた。彼女はいつか、どこかへ消えてしまうのではないかと。引き止めるようにその小さな肩を掴もうとして、ふと我に返って手を引っ込める。彼女が夢の話をするたびに俺がずっとそんなことを繰り返していたなんてきっと誰も知らない。

 それでも……

「ルーク様に初めて会った日もそうでした。目の前で飛んでいた蝶を夢で見た気がしたんです。だから追いかけていたらここに来ました」

 こんなことも言われてしまうから彼女の見るその夢を恨むこともできなかった。

 彼女はいつもどこか掴みきれなかった。それでもいつも俺を信頼して、話し疲れた時はその小さな体をこちらに預けて眠る姿が愛おしくてたまらなかった。ずっとそんな穏やかな時間が続くならそれ以上の幸せなんてきっとこの世にはないのだろう。そう思っていた。いや、違う。今でもそう思っている。
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