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十六
しおりを挟む「久しぶりに兄様に会えて、嬉しかったのに、な」
日垣より贈られた絵巻物を手に、ゆすらは大きなため息を吐いた。
普段なら夢中になるそれに集中できないほど、今ゆすらの胸中は乱れている。
「他のお妃、か」
偶然聞いてしまった、麗景殿に詰める女房の噂話。
いよいよ彰鷹の下へ他の妃も入内して来るというその声が、ゆすらの耳から離れない。
春宮として有能だと認知され始めた彰鷹の下へ、娘を送り込みたいと考える貴族が増えているという話を日垣から聞いていたゆすらは、いくら彰鷹がゆすらを唯一の妃と言ってくれたとしても、それは難しいだろうと感じてもいたし、そうなる覚悟もしていた。
「ああ、でも。していたつもりだけだった、ってことかな。やっぱり嫌だと思うもの」
絵巻物を完全に床に置き、ゆすらはくたりと脇息に凭れかかった。
「折角、兄様がくれたのに」
視界に入る絵巻物を、ゆすらは虚ろな目で見つめてしまう。
絵巻物や書物という貴重な品々を、日垣は惜し気もなくゆすらに贈ってくれる。
日々そのことに感謝し、暇さえあれば埋没しているゆすらだけれど、今日はそんな気にもなれない。
「はあ。絵巻物や書物でも払拭できないなんて、難題」
多少の嫌な事は、絵巻物や書物を見たり読んだりしているうちに忘れてしまうゆすらも、今回は上手くいかないとため息ばかりが漏れてしまう。
「はああ」
「何だ?この世の終わりでも見たのか?」
そしてもう幾度目か数えられないほどのため息を吐いたその時、聞き慣れた声がして彰鷹が姿を現した。
「彰鷹様」
「何だ何だ。ゆすらの周りだけ闇に包まれているようじゃないか」
揶揄うように言われても、いつものように言い返す気にもならないゆすらの周りで女房達が素早く動く。
最早これが通常となってしまった、彰鷹の先触れ無しの訪問を驚く者は麗景殿にはいない。
むしろ、庭から来なかっただけ今日はまし、な様相でさして待たせることもなく彰鷹に円座を差し出した。
「おい。本当にどうした?具合でも悪いのか?」
いつもの覇気を感じさせないゆすらに、体調不良を案じた彰鷹が言ってもゆすらには響かない。
「この世の終わり・・似たようなものかもしれません。いえ、そのものかも」
そしてぽつりと遠くを見たまま言ったゆすらの顔を、彰鷹が覗き込んだ。
「ゆすら?俺が分かるか?見えているか?」
「・・・あきたかさま」
「ああ、俺だ。どうした?また何かあったのか?」
もしや、冗談のように言っていた三度目かとも思う彰鷹だが、そのような報告は受けていない。
「あった、というか。これからある、というか」
「これから?何か予告状のようなものでも届いたのか?」
途端に緊張を孕む彰鷹を、ゆすらはぼうっと見返した。
「予告状は、彰鷹様がいいな」
「何だ、それは」
心底理解不能と眉を顰める彰鷹に、ゆすらはうっすらと微笑んだ。
「だって、ちゃんと彰鷹様から聞きたいから」
「俺から聞く?一体、何の話だ」
謎めいた言葉を放つゆすらを威圧しないようにしながらも、訳が分からなさ過ぎて彰鷹は混迷を極める。
「だから、予告されるなら彰鷹様がいい、ってことです。ええと、その内容っていうと・・これからは、これまでのように頻繁に一緒には居られない、とか、更にそこから進化すれば、もう二度とふたりでこんな風に過ごす時間は取れなくなる、とか?・・・わあ。考えただけで凄く寂しい」
彰鷹に妃が増えれば、当然ゆすらと過ごす時間は減るだろうし、もしも彰鷹がゆすら以外の妃を寵愛すれば、共に過ごす時間そのものが無くなる可能性もある、とゆすらはどんより落ち込む。
「?悪い。話が全く見えないんだが。何が元で、そこからどう進化するとふたりで過ごす時間が無くなるんだ?ん?もしかして、政務のことか?確かに、これから益々忙しくなるだろうが、だからといってゆすらと過ごす時間を疎かにするつもりはないぞ?」
釣った魚に餌はやらない、などということはしないと誓ったではないかと言われ、ゆすらはふるふると首を横に振った。
「お仕事の邪魔をするつもりはありません。むしろ、私に出来ることがあればお手伝いしたいです」
「じゃあ、何が問題なんだ?ゆすらが憂いている訳は何だ?」
「他のお妃です」
「他の妃?まさか、父上の妃たちに何か言われたのか?」
余り大きくは動かないものの、身体を傷つけなければ構わないとでもいうように事細かにゆすらに難癖を付けて来る第二皇子の母始め、欲望の権化のような父の妃たちに、またも何か言われたのかと彰鷹は気色ばむ。
「そうではなくて、彰鷹様のお妃のことです」
「?俺の妃?ゆすら?」
「私以外のお妃、です」
「いないだろう」
「今はいませんが、そろそろ、という話を聞きました」
「誰に」
「麗景殿の女房が、そんな話をしていて・・それで」
「なるほどな。ゆすらはたったそれだけのことで、俺を信じられなくなったのか」
そう言った彰鷹は、かつてゆすらが見たことのないような無表情でその場に在って、それが却ってゆすらには恐ろしい。
「だ、だって。たくさんの貴族が自分の娘を彰鷹様の妃にしたがっている、って兄様も言っていたし・・・!だから、ちゃんと覚悟しないとって思ったけど、やっぱり嫌なんだって思い知って・・・!」
「つまり。ゆすらは俺が他の妃を迎えると思って、勝手に色々考え勝手に落ち込んでいた、とそういうことか・・・はあ。いいか、そういうのを、杞憂、というんだ」
ため息吐くように言われ、ゆすらはその身を小さく縮めた。
「平気なつもりだったんです。でも、つもりだけだったんだ、って分かって」
「それでいい。他の妃を迎えても何とも思わないなどと言われたら、俺が悲しいぞ」
「彰鷹様」
「左大臣たちの活躍もあって、俺の地番は固まりつつある。そんな状況を鑑みて、今まで日和見していた連中が動き出しているのは事実だ。だがな、ゆすら。俺の妃はそなたひとり。それは、何があっても絶対に変わらない」
「何があっても・・・彰鷹様、嬉しいです・・・あ、でもそれじゃ駄目です」
うっとりと彰鷹の言葉に聞き入っていたゆすらは、しかしはっとしたようにその言葉を否定した。
「何故、駄目なんだ」
「彰鷹様の地盤を更に固めるために、有力な貴族の姫君をお迎えする必要があるのと、あと絶対に外せないのはお世継ぎのことです」
彰鷹が自分を唯一の妃と言ってくれるのは嬉しいが、やはり世継ぎは必要だとゆすらは思う。
私は、未だ本当の意味で妃じゃないし。
それが、未だ、なのかどうなのかも分からない状態なんだから、やっぱり他にお妃は必要ってことなんじゃないの?
ちゃんと、彰鷹様がその気になるお妃が。
「有力貴族との繋がりは婚姻以外で固めるから案ずるな。それに、世継ぎはそのうちゆすらが産んでくれるのだろう?それよりも、これを」
「は?え?・・あ・・っ」
何かあっさりと大事な事を言われた気がする、と思う間も無く、ゆすらは彰鷹が差し出したものに目を奪われた。
「かなり派手に刃こぼれしていたが、致命傷には至っていなかった、と鍛冶師が言っていた。まあ、刀身は細くなってしまっただろうが、また持っていてくれ・・って!どうした!?」
突然ぼろぼろと泣き出したゆすらに彰鷹は慌てふためいき、おろおろとその肩を抱き寄せる。
「だって・・彰鷹様が・・」
「俺が?他の妃の件で強く言い過ぎたか?ん?」
「ちが・・この短刀・・私・・投げちゃったから」
外通路閉じ込め事件に於いて、余りに彰鷹に笑われたのが悔しくて思わず短刀を投げつけてしまったゆすらだが、まさかそれを彰鷹がそのまま持ち帰ってしまうなど思ってもみなかった。
ゆすらに投げつけられた短刀を彰鷹が持ち帰る、それは即ち、ならば返せということなのだろうと落ち込み深く後悔していただけに、彰鷹のこの行動はゆすらには意外過ぎたのだと涙ながらに言えば、彰鷹が呆れたようにその涙を拭う。
「あんな程度で、そんなことする筈ないだろう。莫迦だな」
「どうせ莫迦です」
「ああ、そう拗ねるな。あの時は、俺も悪かった。怖い思いをしたのはゆすらなのに、俺はそれよりも彼奴等に痛快なやり返しをしたゆすらが誇らしくて。だが、だからといってあんな風に笑うべきではなかった。反省している」
「地味な嫌がらせも神経削られますけれど、あれは流石に凄く怖かったので笑いごとじゃないとあの時は思いましたけど。冷静になってみると、確かに女人の所業じゃなかったなあ、と」
女人、しかも妃が短刀で扉を破壊するなど、確かに前代未聞で、引くどころか笑い飛ばしてくれた彰鷹の懐の深さに感謝さえしている、とゆすらが言えば彰鷹がその髪を優しく撫でた。
「そのくらい逞しくいてくれた方が安心する。言っただろう、俺が行くまでこれで何とか頑張れ、と。行くの遅くなって悪かった」
「すぐに顔色変えて駆け付けてくれたの・・嬉しかった」
ふるふると首を横に振ってゆすらが言えば、彰鷹がその目を覗き込む。
「ゆすらが傍に居てくれて俺も嬉しい。それに、世継ぎの心配までしてくれて。宮中に来たばかりだから、慣れるまではと思っていたが。そろそろいいか?我慢をしなくとも」
「・・・・・!」
髪を撫でながら、耳をくすぐるように言った彰鷹の甘い声に、ゆすらの心臓が大きく跳ねた。
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