9 / 28
九
しおりを挟む「ゆすら」
明日、いよいよ入内。
宮中へ行くという日、日垣は、ゆすらを自分の部屋へ呼んだ。
「はい」
静かに強い瞳に見つめられ、ゆすらはそっと畳に手を突いた。
大好きな兄。
早くに両親を亡くしたゆすらに寂しさを感じさせないほど、日垣は心砕いてゆすらを育ててくれた。
「お世話に、なりました」
万感の思いが込み上げ、声が掠れる。
そんなゆすらを見つめる日垣の目はとても優しい。
「俺からお前に告げるのはひとつだけだ。ゆすら。お前は第一皇子に嫁ぐ。嫁ぐからには、何があっても第一皇子に随いなさい」
静かに染み入る声。
何があっても。
ゆすらを妃とし、日垣の後見をもって春宮となることが決定した彰鷹ではあるが、その立場は未だ盤石とは言えない。
強力な後見を持つ第二皇子。
否、第二皇子を有する内大臣が、このまま指を銜えてみているとは思えない。
「この先、何があっても。例え廃嫡の憂き目を見る日が来たとしても、私は最後まで彰鷹様に随います」
運命を共に。
その覚悟でゆすらは日垣を見つめた。
「いい目だ」
満足そうに頷き、日垣は柔らかな笑みを浮かべる。
「なあに。何かある時は、俺も命運を共にする」
元よりその覚悟で彰鷹の後見となった。
で、あれば。
「何処までも、皇子様と共に行こう。あの方は、お前を必ず幸せにして下さる」
日垣の言葉に、ゆすらは強く頷いた。
「・・・・・行って、しまった・・・」
ゆすらが宮中へ行った後の、西の対の屋の庭。
その今は思い出となってしまった場所に立ち、千尋はゆっくりと辺りを見渡した。
『千尋くんっ、こっちこっち!すっごく大きな蛇が・・・!』
聞こえる、幼い声。
子供の頃、好奇心が先に走って無自覚に危険に近寄るゆすらから目が離せなかった。
『千尋くん、今日すっごく暑いね。お池に入ったら気持ちよさそう』
そんな風にうっとり見つめるのみならず、即実行に移してしまうゆすらの行動力に、千尋はそれ以上の迅速さを培った。
奇異な姫だと、皆が言うのが不思議だった。
ゆすらは何事にも素直で、嘘を吐かない。
真っ直ぐな瞳は千尋に安寧をくれたし、ゆすらが何を言っても何をしても、千尋には可愛く思えるばかりだった。
時に言われる我がままでさえ、鈴を転がすような声を聞いているだけで幸せな気持ちになれた。
そして。
『ね、千尋くん。可笑しく無い?』
裳着を終えたゆすらの姿を見たときの、あの感動に似た衝撃を千尋は生涯忘れる事は無いだろうと思う。
きれい、だった。
物凄くきれいだった。
天女がこの地に舞い降りたのかと思うほど、ゆすらは眩しく美しかった。
「ゆすら・・・」
呟く名。
その名の持ち主は今、宮中に在って。
傍に、居るのだろうか。
「春宮彰鷹親王・・・」
日垣がゆすらの婿に選んだのは、第一皇子彰鷹だった。
千尋は、冷遇の皇子と言われ続けた彰鷹の、その凛とした佇まいを思い出す。
春宮に立ち、凛々しさを増したと評判の彼は、以前には強く濃くあった気鬱の影が緩んだと見える。
「あれは恐らくゆすらと出会ったがため」
呟き思い返すのは、先だって彰鷹より直々に声を掛けられ、問われた言葉。
『その方、ゆすら姫と親しく育ったというのは、本当か?』
諾という言葉と共に頭を下げた千尋を、春宮は責めるでなく、ただ一言言い切った。
『それは、羨ましい話だ』
羨ましい。
千尋から見れば、それは春宮の方が遥かに。
羨ましい?
どうして、過去までもを欲しがるのですか。
貴方はゆすらの未来を手に入れたのに。
ゆすらから、その隠し名を告げられる幸福者なのに。
自分こそがゆすらに隠し名を告げられる存在となりたかった、恥じらいつつ告げるのだろう甘やかなその声を聞きたかった、と改めて思えば暗い淀みに取り込まれるようで、千尋は頭を左右に振って、その思考を霧散させた。
「千尋君じゃないか」
その時、聞き慣れた声に呼ばれ、千尋ははっとして声のした方を見た。
「これは左大臣様。お邪魔しております。お留守に、申し訳ありません」
そこに日垣の姿を見、千尋は一気に心臓が煩くなるのを感じる。
「いや、それは別にかまわないが・・・。何故、ここに・・・?」
ゆすらの去った場所に千尋が居る、その意味。
柔らかな日垣の瞳が一瞬鋭くなり。
そして。
「・・・そうか。そうだったのか・・」
より柔らかになった音が、千尋を包んだ。
「千尋君。君は、ゆすらを想ってくれていたのだな」
言葉に、千尋は息を呑んだ。
密かにゆすらを想う。
誰よりも強く激しく。
それは今更であり、この先も変わらない千尋の不変。
「君は、ゆすらとは幼い頃から仲良くしてくれていたから、婿がねにとも思わずきてしまったが・・そうか。もっと早く言ってくれれば・・・。あ、いや」
気楽な調子で話していた日垣が不意に深刻な様相を呈した。
「言わないでくれて、ありがとう」
その言葉に、千尋は己の判断が正しかった事を実感した。
『言わないでくれて、ありがとう』
その言葉が意味する処。
それは、何があってもゆすらは春宮妃になった、と、そういうこと。
「後宮でゆすらに与えられたのは、麗景殿だった」
そして、日垣よりもたらされる後宮でのゆすらの情報に、千尋は当然と頷いた。
「それはそうでしょう。何よりも大切にするべき存在なのですから」
「まあ。俺もそう思う」
豪放に笑う日垣を、千尋は頼もしく見つめる。
日垣ならばきっと、ゆすらを不遇になどさせはしないだろう。
「まずは先制攻撃というところですか」
麗景殿とは、春宮の住まいである梨壺からも近く、特に大事とされる妃に与えられる場所。
春宮の正妃として迎えられるのだから当然としても、やはり表立って春宮に大切にされていると示す格好の機会であることは間違いない。
「派閥としては、そうなのだがな。春宮様ご本人としては、どうやら本当にゆすらを大切に想ってくれた結果のようでな」
「ああ。そのようですね」
思わず苦い声になってしまうものの、ゆすらと共に育った自分を本気で羨ましいと言った瞳に嘘は無かったと千尋も思う。
「未だこれからだが。春宮様なら、ゆすらを大切にしてくれるだろう」
「それだけでは駄目です。誰より幸福だとゆすらが感じるようにしてくれないと」
そうでないと自分が攫いに行きたくなってしまう、と冗談めかした本気で言った千尋の肩を、日垣はぽんと叩いた。
「まあ。もしもの時は、本気で思い切りやってくれ」
「はい。ゆすらの気持ちを揺らしまくって、春宮を動揺させてやります」
だがその前に、ゆすらが春宮妃として幸福な道を歩めるようにしよう、とふたりは固く誓い合った。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説

ようこそ安蜜屋へ
凜
歴史・時代
妻に先立たれた半次郎は、ひょんなことから勘助と出会う。勘助は捨て子で、半次郎の家で暮らすようになった。
勘助は目があまり見えず、それが原因で捨てられたらしい。一方半次郎も栄養失調から舌の調子が悪く、飲食を生業としているのに廃業の危機に陥っていた。勘助が半次郎の舌に、半次郎が勘助の目になることで二人で一人の共同生活が始まる。
ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て
せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。
カクヨムから、一部転載
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
黄昏の芙蓉
翔子
歴史・時代
本作のあらすじ:
平安の昔、六条町にある呉服問屋の女主として切り盛りしていた・有子は、四人の子供と共に、何不自由なく暮らしていた。
ある日、織物の生地を御所へ献上した折に、時の帝・冷徳天皇に誘拐されてしまい、愛しい子供たちと離れ離れになってしまった。幾度となく抗議をするも聞き届けられず、朝廷側から、店と子供たちを御所が保護する事を条件に出され、有子は泣く泣く後宮に入り帝の妻・更衣となる事を決意した。
御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。
※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。
江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる