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四
しおりを挟む「・・・あれ?誰もいない」
桜の宴。
左大臣家で行われるそれは盛大な事で有名ではあるものの、姫であるゆすらは一度としてその篝火に照らされる桜を直に見た事は無い。
『ゆすら。琵琶を弾いてくれるか?』
はっきり見えない桜をもどかしく思いつつ大人しく御簾の奥深くに座り、日垣にそう声を掛けられ琵琶を弾く。
それが、ゆすらにとっての桜の宴。
しかし今年こそは、篝火に照らされる桜をはっきりと見たいと思ったゆすらは、夜、多くの公達が来る前ならその光景を見られるのではないかと考えた。
そもそも、ゆすらが住まう西の対の屋から件の桜の場所まで結構な距離があるうえ、桜の時期は客人も多く、ゆすらは昼間の桜でさえ見たことがない。
自分が住まう屋敷の桜なのに、その見事さを知らない。
その事実に気付いたとき、ゆすらはとても大きな損失を被っているような気持ちになった。
桜のある場所は、ゆすらの住まう西の対の屋からは遠い。
それはすなわち、通常の姫ならけしてひとりで移動などしない距離ということを意味するが、ゆすらは規格外の姫である。
どうしても今年は桜が見たい。
ひとが集まる篝火の頃は諦めるとしても、せめて咲き誇る昼間の桜の下で琵琶を弾きたい。
その一念。
「決めた」
誰に迷惑をかけるでなし、とひとり頷き決意して、剣の稽古をする時のように身軽な水干姿になると、ゆすらは琵琶を手にその場所目指して歩き出した。
今の時間は、遠慮しなくてはいけない人がいるわけでもないし、大丈夫よね。
夜、盛大な桜の宴が行われる関係で昼間は客人の予定はないはず、とゆすらは庭を進んで行く。
誰かに行き会ったとしても、それは屋敷の使用人か、宴の準備のための人足だろうと思えば足取りも軽い。
もしこれで、他の対の屋に継母が居るとか異母兄弟が居るとかなら、流石のゆすらとて躊躇っただろうが、この屋敷に住まう主家筋は日垣とゆすらだけだ。
そして、使用人達はゆすらの普段を知っている。
姫が水干を着て庭を闊歩する姿を歓迎はしないだろうが、またかと言われて終わりになるだろうからその点に不安は無い。
しかし流石に余所からの人足には驚かれるだろうと思い、余りに人数が多ければ近づくのは控えよう、と物陰から見つめた目的地。
そこでゆすらは、幸いにも人影の無い事を確認したのだった。
「準備は、もう終わったということなのかな」
篝火や宴の用意がなされた庭を横切ったゆすらは、その真下から見事な満開の桜を見上げた。
「きれい・・」
理屈抜きでため息が出る。
薄紅の霞が蒼穹に描き出された絵のようで、ゆすらは飽きることなく見つめてしまう。
「ほう。これは見事だ」
その時すぐ傍で声がして、ゆすらはぎょっとして飛び上がった。
「誰っ!?」
しかし次の瞬間鋭く誰何し振り返った先には、身分低からずと見える公達が立っていて、更に驚愕することとなった。
「なっ・・・未だ、誰も来ない時間のはずなのに」
思わず呟けば、その公達の目が楽しそうに細められる。
「その声、女か。水干姿とはまた勇ましい」
誰?
直衣を着ているってことは、公達だろうけど。
思い、ゆすらは隠れることも忘れてその人物を観察した。
嫌味無く微笑んだ表情と凛とした立ち姿には品があるも、目にはやや荒んだ暗さも見える。
しかしその顔立ちは、絵物語に出て来る男主人公と並んでも遜色ないほどに整って美しい。
それなのに、直衣の袖から覗く節だった手や、かなりの上背と肩幅のある堂々とした体躯は、公達というより武人を思わせる荒々しさがある。
「ああ。俺は誰か、だったか」
恐らくは武門も扱う近衛府の公達、とゆすらが決定づけたところで、その公達は益々楽しそうに口の端をあげた。
「俺は、最近左大臣と親しくなった者だ。まあ俺が疫病神となるか否か、微妙なところだがな」
そう言って緩く肩をあげてみせた、何気ない動きひとつとっても優美といっていい軽やかさで、人目を惹きつける。
「あ」
この立派な直衣姿から、いずれにしても今日の客人が早くに到着したのだろうと思ったゆすらは、自分も着替える必要があることを思い出し、更に大変なことに気がついた。
「ん?どうかしたか?」
まずい!
流石にまずい!
公達に姫が素顔を晒す、など有り得ないと言われる貴族社会。
その中枢を担う左大臣家で、妹姫が水干姿で出歩いているなど、何を言われても文句は言えない。
左大臣である兄にも迷惑をかけてしまう、とじりじりと後ずさりながら顔を精一杯背け袂で隠そうとするも、水干のそれは何とも心もとない。
「何をしている。今更恥ずかしがっても仕方無いだろう。それよりお前、琵琶を弾くのか?それとも誰かへの届け物か?」
「これは、自分で」
姫が水干姿で歩いていることよりも、その手にした琵琶の方が気になったらしい公達に言われ、ゆすらは琵琶を大切に持ち直した。
姫ならば琴の方が普通ではあるものの、琵琶でもそう違和感はない。
これだけは唯一、ゆすらが姫として胸張って言える特技だった。
それに、この様子だと使用人だとでも思っていそう。
今のうちに逃げてしまえば自分が誰なのかばれない、とゆすらは逃走経路を頭に描く。
「ん?左大臣家で、琵琶・・・女人・・」
しかしゆすらが実行に移すより早く、公達が何かを思い出したように呟いた。
ま、まずい!
思い出さなくていい、思い出さなくていいから!
左大臣家で宴といえば、妹姫が琵琶を弾くのが恒例となっていて皆も楽しみにしている、と日垣に言われれば嬉しいゆすらだったが、今ここでその姫が自分だとばれるわけにはいかない。
今なら、未だ間に合う!
意を決し走り出そうとしたゆすらは、しかしその動きを簡単に止められてしまった。
凄い。
私に触れないで動きを止めるなんて!
身体の向きを変えることでゆすらの動きを封じた、公達の身のこなしに感動していたゆすらは、次の瞬間固まった。
「もしかして、ゆすら姫か?」
私の莫迦!
感動している場合じゃなかった!
初手を封じられても、二度三度と挑むべきだったと思うも後の祭り。
完敗だ、と公達を見たゆすらは、自分を見つめる驚愕の瞳と出会い、反発心がむくむくと湧きおこるのを感じた。
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