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52.泥だらけで出会いました。
しおりを挟む遠くで馬の嘶きが聞こえる。
見あげれば、夕暮れ近い空を鳥が飛んで行く。
平和な一日の終わり。
図書委員の役目を恙なく終えた私は、今ひとり寮への道を歩いている。
ひとりといっても、もちろん侍女も護衛も傍にいるので、何の心配もありはしない。
ありはしない、のだけれど。
『すまない、ローズマリー。今回の政務での課題が煩雑なうえかなり困難で。しばらく放課後一緒に過ごしたり帰ったりできそうにない』
そう言ったパトリックさまの憂いを含んだ瞳を思い出すと、寂しい気持ちになる。
パトリックさま。
パトリックさまにそう言われたときには、父さまの言いつけもあり、きちんと笑顔で対応できた私だけれど、実際会えない日が続くと、その信条は簡単に大きく揺らいでしまった。
パトリックさまは、この国の未来の中枢なのだから、少しくらい会えなくても仕方が無い。
理性ではそう判っているのに、気持ちがまったく付いて行かない。
どうしても、教室だけではなく、もっと一緒に居たいと願ってしまう。
パトリックさまは毎日大変そうだというのに、どうやら私はかなり贅沢になってしまったようだとため息が出た。
それに、パトリックさまと個別にお話しできないと、その体調も心配になる。
パトリックさま、無理していないといいけれど。
授業終わり。
みんなへの挨拶もそこそこに、急いだ様子でアーサーさまと執務室へ向かわれるパトリックさま。
その表情は凛々しくも厳しく、簡単に『頑張ってください』なんて、とても言えない。
まして『大丈夫ですか』なんて、パトリックさまの管理能力を侮るようで考えることさえ憚られるけれど、勝手に心配するくらいのことは許して欲しいと思う。
授業はいつも通り難なく熟しているパトリックさまだけれど、もしや、睡眠や食事をきちんととれていないのではないか、疲れがたまってきているのではないか。
思うだけで、胸が苦しくなってしまう。
『・・・けて・・・・』
思わずため息を吐きかけたそのとき、何処からか声が聞こえた気がして、私は立ち止まって辺りを見回した。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
私の異変に気付いた侍女のマーガレットが、即座に私の傍に来た。
マーガレットは、長く私の傍付きを担当してくれている腹心ともいえる存在で、先日の、突然コットン生地のワンピースを買って来て欲しい、という私の無茶な願いにも動じることなく『お嬢さまがお召しになるなら、わたくしがお作りいたします』とにっこり笑って、ほぼ一日で生地を用意し、完成までさせてくれた凄腕の持ち主。
「何か聞こえない?誰かの声のようなもの」
耳をすませ言う私の言葉に、マーガレットも耳をすませてくれるけれど、やがて残念そうに首を横に振った。
「いいえ。わたくしには、何も」
『た・・・すけ・・・て』
「ほらまた!助けて、って言っているのだわ」
何処かで、誰かが助けを求めているのだろう。
風の向きか何かで、マーガレットには聞こえないのかもしれない。
そう思った私は、目の前に森があることに気づいた。
「え?」
それは、学園内にある自然の森とは違う、暗く深い森。
しかも私は今森ではなく、寮へと続く花壇の脇にある小道を歩いていたはずで、そこはとても開けている場所。
だから、このような森が突然あるなど不可解でしかないのだけれど。
『たす・・・け・・・て!』
『た・・・す・・・けて!』
微かに、けれど確かに聞こえるその声に背中を押されるよう、私はその森へと一歩を踏み出した。
『たす・・・けて!』
『た・・・すけて!』
「っ!」
森に入った途端、言い様の無い負の淀みに包まれる不快を強く感じる。
そして、どうやら呼び声はふたつであると気づくけれど、見渡しても目に入るのは暗い森ばかりで、呼び声の主の姿は見えない。
「マーガレット。ここは何処かしら?」
突然、見知らぬ森が目の前に出現して、そこに入り込んでしまった。
そんな話は聞いたことも無い。
私は不安になって、後ろにいるはずのマーガレットに声をかけ。
「え?いない?」
そこに立っているのが私ひとりであることを知った。
『たすけ・・・て!』
『たす・・・けて!』
その間にも大きく強くなる呼び声。
「今、行きますわ」
私は覚悟を決め、魔法で手に小さな明かりを灯して真っ暗な森を歩き出した。
『たすけて!』
『たすけて!』
より大きく鮮明になる声が、私の進む方向が正しいのだと教えてくれる。
「もう少し、だと思うのだけれど」
がさがさと下生えをかき分け進めば、地面が湿り気を帯びてくる。
そうして、私の目の前にぽっかりと空間が拓けた。
灯りをかざしてみれば、そこは黒くどろどろとした沼のようになっている。
油が浮き、泥を混ぜ込んだかのように粘着質に見えるその沼は、とても生き物が生息しているようには見えない。
『たすけて!』
『たすけて!』
けれど私は、その沼から聞こえる声に耳をすませ、灯りをより遠くへとかざして暗闇をじっと見つめた。
「あんな所に!」
すると視界の遥か先で、木の枝に二匹の仔犬と思しき存在が絡め取られている姿が見える。
仔犬は自分でぱたぱたと動くも、木の枝と泥沼に嵌っていて抜け出すことが出来ない。
「もう少し頑張ってね!」
叫んで、私は近くにあった木の棒を掴み、沼へと差してみた。
「深くは、無いわね」
そのことに安堵し、私は息をひとつ吐いて覚悟を決め、黒い沼へと一歩を踏み出す。
底なし沼の類でもなさそうだと、そこにも安堵し、泥に足を取られながら何とかもう一歩。
ぬめ、ぬるりとした気持ちの悪い感触に身震いし、沼の深さを確かめながら、ゆっくりと一歩ずつ前に進む。
制服に泥が絡み、油でぎとぎとに汚れていく。
そして、ふと視界に入ったパトリックさまと対のブローチ。
「落としたり、汚したりしたら大変だわ。それに、こちらも」
私は、パトリックさまと対のブローチと、先日贈られた金細工の指輪を外すと、ふたつ一緒に大切に胸のポケットに仕舞った。
そうしてまた、泥と油に悩ませられながらゆっくりと前に進む。
「仔犬さんたち。あと、もう少しですからね」
はっきりと二匹の仔犬を視界に捉え、木の枝を避けて、漸く、と仔犬に手を伸ばそうとした私は。
「なっ!?」
突如現れた茨にその手を阻まれた。
茨は、まるで生きているかのように仔犬を囲い、私に牽制を仕掛けて来る。
「くうん」
「くうん」
仔犬たちが、その茨を恐れるように鳴く。
「怖いですよね。そうですよね。私、頑張りますから!」
気合を入れ直した私は、茨に手を取られ、腕に巻き付かれながらも振り払い、何とか仔犬に辿り着くことが出来た。
「やりました・・・っ!?え!?どうしてなのですか!?」
けれど、私は仔犬を抱きあげることが出来ず、驚きの声をあげてしまう。
沼から出ている上半身を大切に抱え、確かに抱きあげようとしているのに、仔犬は少しも持ち上がらない。
木の枝に挟まっているだけかと思われたその下半身は、まるでこの沼に固められているかのように、ぴくりとも動かない。
『ぼくたちに、なまえを、ちょうだい』
『ぼくたちに、なまえを、ちょうだい』
「名前?」
『そう。なまえを、ちょうだい』
『うん。なまえが、ほしいの』
二匹の仔犬に言われ、私はじっと二匹を見つめた。
黒い油に覆われて、片目が開いていない二匹の仔犬。
もう片方の目も、辛うじて見える程度。
それでも、その美しい色は際立って見えた。
「分かったわ。はじめまして。私の名前はローズマリー。僭越ながら、あなた方に名前を付けさせていただきますね。そうね。あなたの名前はテオ、そして、あなたの名前はクリア。というのは、どうかしら?」
淡い蒼の瞳を持つ仔犬にテオ、淡い翠の瞳を持つ仔犬にクリアとそれぞれ名づけ、気に入ってもらえるかどうか、と思い尋ねれば。
『ありがとう!ローズマリー!ぼくのなまえは、テオ』
『ありがとう!ローズマリー!ぼくのなまえは、クリア』
二匹は嬉しそうにそう言った。
「え?」
すると、あれだけ執拗に絡みついていた茨が消え、固まっているかのようだった沼が緩んで、二匹がずぶずぶと沈んでいきそうになる。
「わわっ!」
私は慌てて二匹を抱き寄せ、しっかりと胸に抱き締めた。
「もう、大丈夫ですよ」
ほっとして、私は反転し、陸にあがるべく再び泥のなかを歩き始める。
「くうん!」
「くうん!」
二匹の仔犬、テオとクリアが嬉しそうに鼻を擦り寄せて来るのが可愛い。
可愛い、けれど、この沼大変!
二匹を大切に抱いたまま、絡みつく泥に重くなる足を何とか持ち上げ、沈みそうになる足を引き抜いて、転びかけながらなんとか歩く、を繰り返して、私は漸く沼の端まで来た。
『ローズマリー!ぼくたちを、おいていくの!?』
『ローズマリー!ぼくたちを、おいていかないで!』
沼からあがろうとするも、テオとクリアを抱いたままでは無理だろうと、私が岸に二匹を下ろすと、二匹は焦った様子で私へと足を伸ばす。
「置いていったりしません。私も今、あがりますから」
私へと懸命に伸ばされる短い脚も可愛いと思いつつ、私は泥で重くなった身体を沼から引きあげた。
「さあ、帰りましょう」
「くうん!」
「くうん!」
再び抱き上げれば、テオもクリアも嬉しそうに鳴いて私に擦り寄って来る。
可愛いです!
泥と油に塗れていてこれだけ可愛いのだから、きれいにしたらきっともっと凄く可愛い。
幸い、テオもクリアも私といたいと思ってくれているみたいだし、寮でペットを飼っているひとも珍しくないので、その辺りもきちんと申告すれば問題ない。
けれどまずは身体をきれいに洗って、それから清潔で居心地のいい寝床と食事を用意して。
それからそれから、何が必要かしら、と私は楽しくこれからを考えて。
「どちらに行ったらよいのでしょう?」
暗い森のなかで、迷子と化して途方に暮れた。
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