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 数時間に渡るレッスンを終えたあとで、図書館に引き篭って本を読み耽っていると来客があった。ちょうどイーサンは外出中。代わりにウェンディが応対することに。

 応接室で待っていたのは――エリファレットだった。大切なファン。ウェンディがずっと好きだった人。彼の姿を見た瞬間、心臓が音を立てた。緊張して冷たくなる手を握り締めて、なけなしの平常心をかき集めて頭を下げる。

「――も、申し訳ございません。イーサン様はただ今外出中でして……」
「いや、構いません。俺は弟ではなくあなたに会いに来たのですから」
「わ、私に……?」

 彼に促されて、向かいのソファに座る。ウェンディが戸惑っていると、彼は人好きのする笑顔を浮かべて言った。

「ここでの生活に不自由はありませんか? 辛い思いはされていませんか?」
「いえ、思う存分執筆をさせていただけて、むしろ快適に過ごしています!」
「それはよかった」

 彼は物言いたげに唇を開閉させる。何か気になることでもあるのかと聞くと、彼はバツが悪そうに続けた。

「ウェンディ嬢のことが心配なんです。突然王子妃という地位を与えられ、慣れない勉強をなさっていると伺いました。ひとりで不安を抱えているのではないかと思い、ここへ参りました」
「まぁ……」

 なんて親切な人なのだとじーんとする。

(やっぱりプリンスマンさんは優しい……)

「お気遣いいただきありがとうございます。プリンスマ……じゃなくて、エリファレット様」
「気を遣うのは当然です。なぜなら俺はあなたの大ファンなんですから」
「……! はい……!」

 そう。この人はウェンディたったひとりの男性ファンだ。それも、昔からの熱烈な。

「新刊……! 読んでくださいましたか?」
「あ、ええっと……実はまだ忙しくて購入できていなくて」
「じゃあそうだ、ちょっと待っててください」

 彼はいつも、発売と同時に買って読んでくれていたので、発売からしばらく経っても読んでいないのは珍しいが、きっとよほど忙しかったのだろう。
 ウェンディはぱたぱたと駆け足で応接室を飛び出し、書斎に戻って新刊の献本を持ってきた。ついでに、没にした原稿も持ってくる。応接室に戻って、本の表紙の裏にサインを書く。宛名はもちろん、『ノーブルプリンスマンさんへ』。

「これ、よかったら受け取ってください」
「で、ですか悪いんじゃ……」
「お気になさらないでください! いつもお世話になっているお礼です!」
「こっちの紙は?」
「ああ、没にした原稿です。ご興味があるかなと思ったんですけど……」
「ありがとうございます。大切に読ませてもらいますね」

 満面の笑顔で答えると、彼は気まずそうに本を受け取ってしまった。

「――とにかく、困ったときはいつでも頼ってください。イーサンは不誠実で信用ならない男です。……辛い思いをされることもあるでしょう」
「……」

 確かにウェンディは、イーサンに脅されて半ば強引に婚姻を結んだ。でも、彼はそれほど悪い男だと思えなかった。ウェンディの好きなことを許容してくれるし、毎日悠々自適な生活をさせてもらっている。同じ屋敷に住んでいるため、毎日顔を合わせてよく言葉を交わすが、初対面のとき以外で不審感を抱く瞬間はなかった。むしろ、誠実な印象を受けている。

(イーサン様は、素敵なところも沢山あると思う)

「あの人は、そんな人じゃ――」

 だから、エリファレットの言葉に賛同できずに言い返そうとすると、代わりに聞き慣れた声が降ってきた。

「誰が不誠実で信用ならない男ですって? 兄上」

 ちょうど外出から帰って来たイーサンだった。笑顔を浮かべているが、目の奥には敵意が滲んでいて。一方のエリファレットは、忌々しげにイーサンを見上げており、一触即発の雰囲気だ。

「何が言いたい?」
「弟の妻を口説くようなあなたには言われたくないと思っただけです」
「別に、口説いているつもりはない」

 イーサンに後ろから肩を触れられ、応接室から出るように促される。ソファから立ち上がると、イーサンはウェンディの肩を寄せてエリファレットを牽制した。いつになく不機嫌な態度を取るイーサンを、ウェンディが宥める。

「あ、あの、イーサン様。そうお怒りにならないでください。エリファレット様は王宮での生活に不自由はないかと気にかけてくださっただけなんです!」
「兄上を庇うんですか? あなたは僕の妻なのに」
「それは……」

 厳しい口調で責められ、しゅんと肩を落とす。

「亭主関白は嫌われるぞ。彼女が怯えている」
「余計な世話です。とにかく、あなただけはウェンディに不用意に近づかないで」
「はっ、独占欲か?」
「――お帰りを。兄上」

 有無を言わさないイーサンの態度に折れるエリファレット。帰り際に、同情した様子でこちらに声をかけた。

「分かったでしょう? この男はあなたを我がものにして支配しようとしている。俺はあなたが不憫でなりません」

 ウェンディが黙っていると、イーサンが畳みかけた。

「兄上」
「はは、分かった。出ていくさ。――今日のところは」

 2人はずっといがみ合っていて、ウェンディはイーサンの腕の中でその対立を混乱しながら見ていることしかできなかった。
 エリファレットをら追い出してすぐ、イーサンは腕の中からウェンディを解放する。彼は額に汗を滲ませ、焦ったようにこちらに尋ねた。

「ひとりにさせてすまなかった。兄にひどいことをされてないか!?」
「……い、いえ。大丈夫です」
「エリファレットは冷酷で危険だ。決して関わってはならない。彼だけは絶対に」
「エリファレット様が危険……なんですか?」

 信じられなかった。ウェンディは『ノーブルプリンスマン』とはそれなりに長い付き合いだが、一度も危険だと思うような瞬間はなかったから。イーサンはいつになく困った様子でしばらく考え込んでから、ウェンディの両肩に手を置いた。

「とにかく、あの男は駄目だ。もう話しかけられても口を効かないで」
「……」
「約束して、ウェンディ」
「…………できません」

 彼の手を振り払って、冷静に顔を見据える。

「納得できる理由もなく、従いたくはありません」

 エリファレットはイーサンを不誠実で信用できない男だと言い、イーサンはエリファレットを冷酷で危険だと言う。

(……どちらが本当なの?)

 長いこと自分の執筆活動を応援してくれたファンか、ひと月一緒に暮らした肩書きだけの夫である王子。ウェンディはどうしても、前者に心が傾いてしまう。

「あなたを不安にさせたくない。何をどう伝えていいか……僕には分からないんだ。どうしたら僕の言葉を信じてくれるのかも……」
「今の時点で、エリファレット様が危険だとは、私には思えないです。ごめんなさい」
「ウェンディ……」

 すると、イーサンは辛そうに眉尻を下げた。ウェンディは気付かないふりをして、「部屋に戻る」と背を向けた。ウェンディの背中に彼が問いかける。

「……あなたはなぜ、兄の肩を持つ? まさか……兄を愛しているのか?」

 どきっとして目を泳がせる。エリファレットのことを想い、気にしている理由はたったひとつ。それは――彼が思い入れのあるファンだから。長い時間積み上げてきた時間が、ウェンディの心を強く揺さぶるのだ。今は夫であるイーサンを信じるべき立場なのに。

「待って、僕の話を――」

 ウェンディは話を聞かず、そのまま応接室を出た。
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