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43 最終話

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 宴から数日。後宮は、皇后樹蘭の話しでもちきりだった。人前で隙を見せず一切笑わない彼女が笑みを浮かべ、冷酷無慈悲な彼女が侍女に褒賞を与え、決して披露することがなかった楽器演奏までしたのだと。

 樹蘭は殺害未遂事件を機に、本当に反省したのではないか。いや、また命を狙われるのが怖くてしおらしく振る舞っているだけではないか。などと様々な憶測が飛び交った。

 だが真実はどれも違う。反省したとか、心変わりしたとかの問題ではなく、今樹蘭とし皇后の座に据わっているのは、そっくりの見た目をした――別人なのである。

 孫雁が護衛を付き従えて内之宮に行くと、らんかは庭園の長椅子で、凛凛と月鈴に挟まれて座っていた。
 彼女は手に針と刺繍台を持っており、両脇のふたりに刺繍を教わっている様子だった。刺繍は淑女に必要な素養のひとつ。彼女は健気にも皇后にふさわしくなるよう努力しているのだろう。

「あ、違うわ。そこは緑の糸で縫わないと。赤い茎など見たことがないでしょう?」
「樹蘭様、ここに段ができていて縫い目が不自然です。よろしければここは私が代わりに縫いましょうか」

 月鈴と凛凛は、らんかの手元を食い入るように眺め、指で指し示しては、ああだこうだと指導している。三人はとても楽しげな様子だった。
 冬至祭典以来、月鈴は頻繁にらんかに会いに内之宮を訪れるようになり、交流を深めていた。凛凛も以前より表情が柔らかくなったような気がする。それは全て、らんかが人懐こく、好かれやすい性格だからだろう。

「妾が縫わなければ練習にならぬだろう。――痛っ」
「大丈夫ですか!?」
「このくらい平気だ。舐めておけば治る」

 針を指に刺したらんかは、血が滲む親指の腹を、唇に押し付けて止血した。
 それからも彼女は難しそうな顔をして刺繍に向き合う。眉間に皺を寄せ、ぶつぶつと呟きながら。

 彼女がこちらの存在に気づいていない様子なので、しばらく奮闘ぶりを観察していた孫雁。

「完成だ。なかなかの出来ではないか?」

 らんかはぱっと表情を明るくさせ、完成した刺繍を高いところに掲げた。満足気にそれを眺めたあと、目線の奥に孫雁の姿を捉える。

「孫雁様……! どうしてこちらに?」

 孫雁の存在に気づいて駆け寄ってくる彼女。凛凛と月鈴は、皇帝とその一番の妃である皇后の逢瀬を邪魔してはならないと気を使い、こちらに会釈してから離れて行った。
 孫雁もまた、護衛の者たちに下がるよう命じる。

「妃に会いに来るのに、理由は要らないだろう?」
「へへ、なんかそれ、照れちゃいます……」

 他の人の目がないため、らんかの口調や表情が素に戻る。
 頬を赤らめながらはにかむ彼女を見て、腹の底から愛おしさが込み上げた。手を伸ばして彼女の頬を撫でる。柔肌を弄ぶように触れていると、彼女はくすぐったそうな顔をした。

「なんですか? もう……くすぐったいっ。ふふっ」

 くしゃっと破顔する彼女に、今度は胸が甘く締め付けられる。
 ころころと表情を変えるらんかから目が離せない。ずっと見ていたくなる。

(なんなんだ、この可愛い生き物は……)

 鏡の中で会った樹蘭が言っていた。らんかは樹蘭の生まれ変わりであり、樹蘭が乗り越えられなかった課題をこなしてきたのだと。
 結局孫雁は、どんな出会い方をしても、同じ相手を好きになってしまう運命なのかもしれない。
 らんかを愛するのは必然だったのだ。

 今はただ、孫雁の命を助けるために元の世界を捨て、新しい世界に飛び込んできたらんかのことが愛おしくて仕方がなかった。彼女がここを選んでよかったと笑えるように、自分が傍で守っていきたい。

 孫雁は彼女の頬に手を添えたまま顔を近づけ、囁くように問いかける。

「――お前に口付けがしたい。いいか?」
「……は、はい。私も……したいなって、思ってました」

 上手がちに、そして甘えるような声でそう答えたあと、彼女は目を閉じる。
 孫雁は彼女の形の良い唇にそっと自分の唇を重ねた。唇が触れ合うだけの行為なのに、心が幸福感で満たされるのを感じるのだった。


 ◇◇◇


 孫雁に「少し歩こう」と誘われ、一緒に歩いて行った先は、天和宮の霊廟れいびょうだった。
 天和宮の数ある建築物の中でもとりわけ荘厳で、職人たちが技術を尽くしたことが伝わる。

 門を越えて霊廟の敷地内に入ると、大きな本堂が佇んでいて。赤い瓦の屋根の両端に、鳥の象が乗っていた。
 この霊廟には、皇家の先祖たちが祀られている。故人ひとりひとりに石碑が作られるのだが、ひとつだけ名前が空白のものがあった。

「これは、樹蘭の石碑だ」
「それで名前が書いていないんですね」

 隣で礼拝する孫雁を見て、らんかもその動作を真似る。
 興栄国の宗教では、自ら命を断てば、浄土へも地獄へも行けずにその狭間でさまよい続けると言われる。今はまだ、樹蘭は暗闇の中をさまよっているのかもしれない。

 けれど、こうして供養し続ければ必ず光へたどり着くのだろう。そしてらんかとして生まれ変わり、孫雁の元へ戻ってくるのだ。

(樹蘭様は……いえ、前世の私はよっぽど、孫雁様が好きだったのね)

 ちらりと彼のことを見上げると、彼はまだ目を閉じていた。怜悧な横顔を観察していたら、瞼を持ち上げた彼と視線がかち合う。目が合ったと同時に、お互いに微笑み合う。

 すると孫雁は、懐から佩玉を取り出した。赤い紐に金玉がついた美しい佩玉。そして孫雁の帯に、対になる意匠の佩玉が吊る下がっていた。

「受け取ってくれるか? 私の想いの証を」
「はい。……もちろん」

 彼は嬉しそうな様子で、らんかの帯に佩玉を結びつけた。らんかは新品の佩玉を手ですくい上げて、愛おしげに目を細める。

 失うものがあれば、得るものもある。喪失と再生を繰り返して人は生きていくものなのかもしれない。

 頬に冷たいものが触れ、はっと顔を上げると、雪がちらちらと降り始めていた。
 雪が大地を覆う冬が過ぎれば、雪解け水が田畑を潤して、新しい草木が芽生える春が訪れる。そうして季節は巡っていく。

 悪女として名を馳せ、疎まれてきた皇后樹蘭が、やがて人々に敬愛される国母となるのは……まだしばらく、先のこと。
 転移した元国民的女優は今日も、異世界で皇后を演じる。




〈終〉



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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。新作は来月あたりに投稿予定です。

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