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しおりを挟む孫雁と文英がいぶかしげに眉をひそめる。この世界の医療の段階で、精神病はあまり一般的ではないのだろう。だから、樹蘭の状態を理解できる人は少なかった。いや、ほとんどいなかったのかもしれない。
だから皆、彼女の乱心を『悪女』という言葉で片付けた。
「恐らく馴染みがないのでしょうね。でも、心は肉体と同じように、病気になることがあるんですよ。心の病気は性格も、顔つきも、振る舞いも、何もかもを変えてしまうんです」
亡くなった父親のことを思い出す。父も精神を患っていて、最後には亡くなってしまった。
すると文英がこちらに問う。
「監察の結果は、絞殺死でした。何より、樹蘭様の首には女性の手形と引っ掻き傷があり、激しく抵抗したことがあります。自分から死ぬことを望んだ人に、こういう痕は残らないそうです」
「本当に死にたい人なんて……いるんでしょうか」
らんかの父親の場合は、薬を大量に服毒したことで中毒死だった。しかし、母が倒れた父を見つけたとき、苦しもがいた形跡が部屋中に残っていたようだ。顔を引っ掻いた痕、壁を引っ掻いた痕など。
また、樹蘭が死んだときは、時間がかかって窒息したらしいので、余程苦しかったのだと想像できる。
「誰だって、魔が差して消えてしまいたくなる瞬間はあると思います。それに、誰だって、痛いときは痛いし、苦しいときは苦しいですよ。人間なんですから」
自分の手で首を絞めてみたものの、苦し紛れに本能的に手を離してしまい死ねなかった。だから今度は、羽衣を首にくるりと巻いて首を吊った。
ふと我に返ってやはり生きたいと思ったのかもしれない。あるいは、本能的に苦しみから逃れようとしたのかもしれない。
しかし、気道は塞がれ、抵抗すれば抵抗するほど自分の首は締まっていって……。
「でも、分からないことがあるんです。どうして凛凛さんが、大切な主人の身体を傷つけてまで、自死を隠ぺいしようとしたのかが……」
すると孫雁が、眉間の辺りを親指でぎゅっと押し、小さく息を吐いた。
「こと興英国の宗教においては、天に与えられた生を放棄したと取られる自死は――あらゆる罪の中で最も重いとされる」
「そして、死後は浄土にも地獄にも行くことはできず、暗闇を永遠に彷徨い続けると言われております」
孫雁に続いて文英がそう答えた刹那、それまで大人しくしていた凛凛が、わっと泣き始めた。
「違います、違うのです、樹蘭様は、殺されたのです……! 犯人は、樹蘭様を追い詰め、貶し、苦しめた人全員です。樹蘭様は人々の悪意に殺されたのに、どうして樹蘭様が死後の世界でまで罰せられねばならないのでしょうか。このような仕打ち、とても納得できません……!」
らんかの推測通り、樹蘭は縊死だった。凛凛が早朝に寝所を訪ねると、樹蘭は倒れた状態ではなく、箪笥の取っ手にお気に入りの羽衣をかけ、首を括って座った状態で亡くなっていた。
完全に足が浮いた状態ではなかったらため、窒息するまでに時間がかかり、絞殺と同じような死亡状態だったのだ。
凛凛は、その場にあった美帆の簪に目をつけた。宝石をくり抜いて犯人候補を複数になるように仕向けた上で、樹蘭の遺体に七回突き刺し、寝台の下にわざと隠した。
そして、樹蘭の体液がついた羽衣を内之宮の庭園に埋めた。
「樹蘭様は後宮に入ることが決まってから、嫌がらせと誹謗中傷に悩まされておりました。殺害予告がお屋敷に届くのは日常茶飯事。持ち物を隠され、通りを歩けば白い目を向けられ……心が壊れてしまうのも無理のないことです」
それから凛凛は、樹蘭に仕えていた日々のことを語った。樹蘭は後宮に入るまでは、静かに笑っているような控えめで穏やかな淑女だった。それが、皇后候補として後宮入りすることが決まった途端に変わっていった。
権力のために、手段を選ばない周家は、他の家から憎まれていた。汚職にまみれ、詐欺に近いことで財と権力を築いてきから。
後宮入りが決定してから入るまで嫌がらせは増え続け、歩けばひそひそと悪口を言われ、何度も食事の中に毒物が混入し、可愛がっていた猫が殺されたことも。
彼女の両親は、権力欲はあっても樹蘭への愛情はなく、劣悪な状況下でも放任し、守ろうとはしなかった。
次第に樹蘭の心は凍りついていき、笑うこともできなくなっていた。
(誹謗中傷と、周囲からの悪意が……樹蘭様を追い詰めていた)
らんかはぎゅっと拳を握り締める。芸能界で、人目に晒されて生きてきたらんかにとっても、他人事ではない話だと思ったから。現に、誹謗中傷で体調を崩し、休養している知り合いは両手の指で数え切れないくらいにいた。
真相を知った孫雁は悔しげに言った。
「私は何も、樹蘭の苦悩に気づいてやれずに……」
「樹蘭様は、ご自身の状態を皇帝陛下が知って、心を砕かれることを心配なさっておりました。決して、陛下にだけは知られたくないと」
凛凛は赤く腫れた目を伏せながら続ける。
「口癖のようにおっしゃっていました。自分は皇后にはふさわしくないから、悪女として早く廃位されたい、と」
周家が外戚権力に固執している以上、簡単に後宮を出ることなど許されない。だからこそ、彼女は孫雁の意思で追い出されることを願うしかなかったのだろう。
結局樹蘭の心は耐えきれずに、亡くなってしまったのだ。
「本当に悪いことをしてしまった。彼女を皇后に据えることに賛同した私に全てに責任がある。彼女は私を嫌っていたのに」
「それは違います。これだけははっきりと言えます。樹蘭様は、陛下のことを――愛していらっしゃいました」
「そんなはずはない。彼女は私を嫌っていたはずだ」
「自分の存在が陛下の足でまといになるからと、寵愛を拒まれただけです。その証拠に……」
凛凛はそっと立ち上がり、部屋の箪笥から小さな箱を取り出した。
数字盤の鍵がかかっている。それを孫雁に渡して言う。
「陛下の誕生日が、鍵を開ける暗号のはずです」
「…………」
孫雁が数字盤を回転させると、がちゃりと解錠した。その中には、孫雁がかつて与えた髪飾りの、欠けた半分が入っていた。
「その髪飾りを握り締めながら、樹蘭様はよく泣いておられました。自分が陛下にふさわしい皇后で、強い心を持っていたらどんなにか良かったと」
髪飾りを手に取った孫雁は、皇后の秘められた想いを知って、悲痛に顔をしかめる。
すると今度は、凛凛が床に額を擦り付けて懇願した。
「私はどのような罰でも受けます。ですがどうか、樹蘭様の名誉を守って差し上げてください。せめて亡くなられたあとは、誰に辱められることなく、安らかに眠れるように……」
自死だったと知られれば、宗教的に重い罪を犯したとして、揶揄されることになる。それが凛凛は何よりも恐ろしいのだろう。
けれど、樹蘭はもうこの世にはいない。彼女の死を隠し続けることはできない。
孫雁と文英は、どうしようもない現実に顔を見合わせた。
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