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 孫雁の執務室から内之宮に戻り、浴場で身を清めるらんか。宮には皇后のための浴室があり、大きな丸い木の桶が備えてある。ここに湯を張って、日本と同じように浸かるのだ。

 本物の樹蘭は、入浴を複数の女官に手伝わせていた。彼女はただ、湯の中でじっとしているだけ。
 ひとりが念入りに髪を洗い、また別のひとりは肌を洗う。樹蘭のふりをして過ごしているらんかも、本来ならそのようにするべきだが、素肌を見られた場合、正体を知られてしまう可能性がある。
 樹蘭は絞殺されたときの首の痣と、胸に七箇所の傷痕がなければならないから。

 だから今は、傷跡を誰にも見られたくないという口実で、凛凛のみに手伝ってもらっている。

「髪くらい、自分で洗えるわよ?」
「そういう訳には参りません。らんか様は今、皇后陛下なのです。樹蘭様はご自分で髪を洗うようなことはなさいませんでした。どうぞ私にお任せください」

 桶の中に浸かるらんかの髪を、凛凛は慣れた手つきで洗う。頭皮の方まで揉みほぐされて気持ちがいい。

「悪いわね。あなたにばっかり大変なことをさせて」
「いえ。らんか様は樹蘭様のために身代わりとなってくださっているんです。このくらいのこと、当然です。なんの負担でもございません」
「そう……」

 らんかは小さく息を吐き、目を伏せた。
 お湯には薔薇の花弁が浮かんでいて、お湯と一緒に手ですくうと、かすかに甘い香りがする。
 手持ち無沙汰に花弁を弄べば、ちゃぽんとお湯が跳ねる音が室内に響いた。

 凛凛は真面目で、口数も少なく、少し気難しい性格をしている。だが、樹蘭への忠誠心は強いものだった。

(悪女として嫌われていたのに、どうして凛凛さんだけは樹蘭様を慕っていたのかな)

 樹蘭を想って泣いていた彼女のことを思い出して、らんかは不思議に思った。

「凛凛さんはどうして、樹蘭様のことを慕っているの? 後宮にいる人たちの多くが、彼女のことを嫌っていたわ。横暴で、意地悪な人だった……と」

 すると、凛凛はらんかの髪を洗う手を止めた。

「樹蘭は……本当はお優しい方なのですよ」

 彼女は寂しそうに呟き、それ以上は何も言わなかった。
 肌着を着て素肌を隠したあと、他の侍女たちも招き、着替えを手伝わせる。
 浴室を出たのち、凛凛を含めた複数の侍女を付き従え、寝所へ向かった。

 だだっ広い回廊を歩いていると、途中で下女が床に這いつくばっているのを見かけた。

「あの、大丈夫で――」

 咄嗟に、大丈夫ですか、と声をかけそうになったが、口を噤む。

(いけない、気を抜くとすぐにらんかに戻っちゃうんだから。今の私は――悪女樹蘭でしょ)

 気持ちを切り替え、冷たい表情で下女を見下ろす。

「邪魔だ。そのような場所で何をしている」
「こ、皇后陛下……っ!?」

 らんかが声をかけると、彼女はびくと大きく肩を跳ねさせ、青白い顔でこちらを振り返った。

「申し訳ございません! 何卒お許しください。どうか、どうか、お許しくださいませ……っ!」

 こちらを見るやいなや、彼女は床に額を擦り付けた。

 彼女の足元には見るも無惨に破損した陶器の壺が転がっていた。
 にんにくの形をした曲線のある壺で、鮮やかな赤と黄の蝶の絵と、金粉をまぶしたような装飾が施さている。
 宮殿にふさわしい、いかにも高級そうな代物だ。

(あちゃ……高そうな壺。これ、いくらするんだろ)

 皇后が居住する宮に飾られるくらいなのだから、もしかしたら目が飛び出でるような金額のものかもしれない。
 すると、らんかの後ろにいた凛凛が、破片のひとつを拾い上げて確かめる。

「この壺、皇后陛下が三年前に異国の商人から購入し、大事になさっていた代物では……」

 さりげなく凛凛が説明してくれた。

(凛凛さん、解説ありがとう……!)

 何やら、樹蘭のお気に入りの壺らしい。樹蘭のお気に入りをらんかが知らない訳にはいかない。
 その事実に、下女の顔色が更に悪くなる。

「私……家族を養わなくてはならないんです。父が足を患って働けなくなってしまった上に、弟もまだ五歳になったばかりで……。どうか、命だけは……っ」

 彼女は悲嘆に暮れ、すっかり狼狽している。らんかはどうしたものかと悩んだ。
 悪女樹蘭なら、簡単に許さないだろう。彼女の生活がどうなろうと、償わせようとしたに違いない。
 けれど、目の前で震えながら詫びを口にする彼女を、これ以上怯えさせるのは、あまりにも心苦しかった。

「――壺ひとつで大袈裟な」
「え……?」
「妾が壺が割れた程度のことで怒るほど、器の小さき人間だと思っているのか?」
「と、とんでもございません……! 皇后陛下のお心は海よりも深く……」
「世辞はよせ。散らばった破片を片付けておけ。それをそなたの罰とする」
「…………!」

 下女は涙ぐみながら、何度も何度もらんかに頭を下げた。

「感謝のしようがありません……っ。ありがとうございます、ありがとうございます……。このご慈悲は一生、忘れません」

 そのまま踵を返すらんか。悪女の予想外に寛大なな対応に、その下女や、らんかの侍女たちは当惑して顔を見合わせていた。


 ◇◇◇


「ちょっと、優しくしすぎたなぁ。ねえ、本物の樹蘭様だったらさっきの状況でどうしたと思う?」

 部屋に戻ってから、らんかは凛凛と反省会を行った。
 らんかは樹蘭のふりをして過ごしているが、できるだけ他人を傷つけない形で役をこなしていきたいと思っている。もちろん、正体を悟られない範囲で。

「そうですね……。樹蘭様であれば、割れた壺を見て声を荒らげ、まず叱責ていたと思います」
「――よくも割ってくれたな! みたいな感じ?」
「はい。そうです。ご気分が悪ければ、手が出ることも」
「なるほど」

 らんかは凛凛に指摘された点を紙に書き残していく。
 なりかわりを知られないためには、常に本物の樹蘭に近づいていく努力をしなければ。

「樹蘭様は、壺がお好きだったの?」
「壺だけではございません。掛け軸や他の陶磁器などの骨董品、衣装、宝飾品などあらゆるものを買い集めておられました」
「ああ、それで散財家って言われてたのね」

 樹蘭が悪女として嫌われていた理由のひとつが、散財癖だった。国民の血税を使って豪遊していたそうだから、非難されるのも当然のことだ。

 ふいに、凛凛の指先に傷ができてきて、血が滲んでいることに気づいた。

「凛凛さん、指を怪我してるわ」
「ああ、先ほど割れた陶器の破片で切っただけです。大した怪我ではありませんので、ご心配なく」
「駄目よ、結構深いもの。細菌が入って化膿したりしたら大変。ちゃんと保護しておかなくちゃ」

 らんかは日本から持ってきた小物入れを引き出しから引っ張り出して、その中から絆創膏を取った。凛凛に指を貸すように言って、ぺりりと剥がした絆創膏を巻いていく。

「ありがとう……ございます」

 凛凛は見慣れない絆創膏が巻かれた指を、不思議そうに眺めつつ、おもむろに呟いた。

「私がまだ、周家のお屋敷に仕えていたころ、壺を割ってしまい、樹蘭様に庇っていただいたことがありました」
「へぇ。凛凛さんはしっかりしているように見えるけど、そういう失敗もするのね」
「人並みにはします。旦那様は大変厳しい方で、先ほどの下女のように、私も咎められるのを恐れておりました」

 しかし、樹蘭は『妾が割ったことにすればいい』と庇い、父親に謝ってくれたらしい。そして、貯めていたお小遣いで弁償さえしたのだと。
 その話だけを聞くと、召使いにまで気を遣える良い主人のように思える。

「浴室であなたがさっき言っていた、『樹蘭様は優しい人』っていうのは、そういうところなのね」
「他にも沢山あります。そもそも私は、孤児だったところを樹蘭様に拾っていただき、侍女になりましたので。とにかく、樹蘭様は――昔はとてもお優しい方でした」

 そのとき、翠花から聞いた話を思い出した。樹蘭は昔は優しい人だったのだと。噂話程度に言っていたが、ずっとそばにいた凛凛が言うのなら真実なのだろう。

 そのとき、父のことが脳裏を過ぎった。らんかの父は、らんかが高校生のときにこの世を去ってしまった。

「……私の父もね、子どものころは優しかったけど、あるとき急に変わっていったの。怒鳴ったり、かと思えば気分が落ち込んだり……。ずっと、情緒不安定だった」
「何がきっかけで、お父様は変わってしまわれたのですか?」
「過労……かな。多忙な人だったから、無理が祟ったんだと思う」

 父は仕事で大企業の役職を務めていた。しょっちゅう海外を飛び回り、目の下にくまばかり作っているような人で。らんかは女優の仕事で忙しく、父が悩んでるいることに全く気づけなかった。そのことを今でも悔やんでいる。

「それでお父様は今、どうされているんですか?」
「……亡くなったわ。もう何年も前のことだけど」

 凛凛はなぜか悲しそうな顔をして、目を伏せた。

「そうですか。言いづらいことを聞いてしまって申し訳ございません」
「ううん。気にしないで」

 凛凛が部屋を出て行ったあと、らんかは露台に出て夜空を眺めた。
 暗闇に白い月が煌々と光り、冷たい風が頬を撫でる。
 凛凛と話しながら、父のことを思い出した。父は悪女と呼ばれる樹蘭と似ていた。

(夜中に奇声……朝まで暴れる……。散財に、下女への過度な叱責と恫喝。でも前は優しい人だった。全部お父さんと一緒だ。でもお父さんは、幻覚に幻聴――明らかに病的な症状が出ていたから)
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