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「あーっ、もう、良い姉のフリするのはうんざり。どーせ、明日には全部忘れるんだし、今日くらい好きにしたっていいわよね」

 彼女の強気なもの言いに、喉の奥がごくんと鳴った。今のステファニーこそ、私がよく知る姉の姿だ。彼女は眉間に皺を深く刻んで、こちらを睨みつけている。

「ユハル様に庇ってもらっちゃって、いい気になってるかもしれないけど、彼が気の毒だと思わないの?   本当、繊細そうな見た目して図太いわよね、あんたって。あの人のことを本当に愛してるなら、早く離婚してやりなさい」

 どうやら、先程ユハルが私を庇ったのを引き金に、彼女の化けの皮が剥がれたようだ。 

「義姉さんは、ユハル様のことがお好きなのね。……ずっと、優しい姉のフリをして、ユハル様に取り入ろうと考えていたの?」
「……」

 スカーレットは拳をぎゅっと握った。

「そうよ、悪い?   ユハル様は……大学の女学生の中で、憧れの的だったの。あんたが婚約者として家に連れてきたときの屈辱は……一生忘れない」

 ユハルとスカーレットは同じ年だ。恐らく学部は違っただろうが、他学部にも認知されているということは、ユハルは相当人気があったのだろう。

「あの人は……あんたが記憶喪失になってもまだ、あんたに執着してる……。さっさと、捨てればいいのに」
「……」
「それで?   いい加減別れるの?   はっきりしなさいよ」
「別れたく、ない」
「はぁ?   あんたって子はどこまで――」
「でももし、ユハル様が別れを望むなら、実家に帰るわ」

 私の胸の奥に、ずしんと重い自責の念がのしかかった。


 ◇◇◇


 スカーレットは、夕食まで公爵家に居座った。そしてなぜか、私に薬を飲めとやたらと催促した。

「ほら、早く飲みなさい。お薬は継続しなきゃ効果がないんだから」

 彼女は粉末の入った包みを開き、強引に私の口元にあてがおうとした。先程馬脚をあらわした義姉を見た手前、この行動を不審に思う。

「義姉さん。何をそんなに焦っていらっしゃるの?」
「……な、によ」

 私は薬を拒み、ユハルにしおらしげに言った。

「ユハル様。義姉さんにお帰りいただいてください。……なんだか私、体調が優れなくて」
「それはいけない。すまないね、気づいてやれなくて。スカーレットさん、悪いが今日は帰ってくれるかい?」

 すると、スカーレットはみるみる青ざめて、私に迫った。

「駄目!   今日だけは、このまま帰れないわ。その薬、早く飲んで。四年間継続してきた努力を無にするつもり?   あんたのことを心配して出してやってるのに……っ」

 スカーレットは包みを強引に私の唇に押し付けた。あまりの剣幕に、ユハルが彼女を制した。

「スカーレットさん。妻に乱暴をしないでくれ」
「離して!」
「それはできない。ソフィア。君は部屋に帰りなさい」

 取り乱すスカーレットを抑え、ユハルが促す。スカーレットは暴れて抵抗したが、ユハルの力には抗えなかった。


 ◇◇◇


 自室に戻ってから小一時間して、扉がノックされた。扉を開けると、頬に引っかき傷を作ったユハルがいた。スカーレットは「ソフィアのためなのに」と叫びながら暴れ続け、ついに衛兵に引きずられながら帰っていったという。私は彼の頬の傷に手を伸ばした。

「ユハル様。お怪我を――」
「大丈夫。大した傷ではないから。それより、彼女のあの様子は一体……」
「分かりません、私にも」

 二人はテーブルを挟んで座り、スカーレットについて思案した。

「僕が何か、彼女の気に触るようなことを言ってしまったかな」
「……」  

 否定はできない。スカーレットは、ユハルが私を深く愛していることを改めて思い知らされ、心を乱したのだから。

(ユハル様は、鈍い)

 私は小さくため息をついた。

「義姉はあなたに好意を寄せていたようです。ですので、ユハル様が私への愛情を語ったことが、不本意だったのかと」
「……そうなのか。全く分からなかった」
「そのようですね」
「今までスカーレットさんは、あんな風に取り乱すことはなかった。優しく、聡明な人だったのに、なぜ今日は……」
「些細なことが、綻びを生むこともあるのですよ」

 幸せだった日常が、手のひらからこぼれ落ちる砂のように、一瞬にして消えるのと同じだ。それにしても、私に薬を強要したときの態度は、ただならないものだった。まるで、私が薬を飲まなければ、スカーレットに不都合が起こるような……。

「あのお薬はなんの効果があるのですか?   どういった経緯で飲み始めたのでしょう」
「記憶機能を回復させるために、彼女が調合したものだ。スカーレットさんは人の脳の仕組みにも精通しているから、任せていた。他に君の症状を診てくれる医者がいなかったから、藁にもすがる思いだったんだ。……そういえば、記憶喪失になる少し前にも、君はスカーレットさんの漢方を飲んでいたな」

 他に診てくれる医者がいないということは、現代の医学では手が施せない領域ということだ。それなのになぜ、スカーレットは問題にアプローチする薬を用意できたのか。

 ユハルへの執着。
 傲慢で利己的な性格。そして、良心的な義姉を装った三年間の振る舞い……。そこから導いた推測に、ぞくりと背中に悪寒がする。

「義姉さんの薬を、すぐに成分調査に出してください」
「ま、まさか、彼女が妹に悪いものを飲ませていたっていうのかい?   さすがにそれは……」

 普通の人ならば、ありえないだろう。私とて、スカーレットが優しい義姉を演じ続けていたら、疑いもせずに薬を飲み続けていたかもしれない。

「いや、分かった。君はしばらく薬を飲むのを辞めよう」
「はい」

 薬についてはユハルに任せ、私はもう一つの気がかりを打ち明けた。

「ユハル様は、私と離縁したいとは思わないのですか。正直におっしゃっていただけたら、実家に帰るなり施設に入るなりして、ここを出ます」
「……!」

 ユハルは瑠璃色の瞳を見開いた。私は切なさを堪えきれず、目に涙が滲んだ。彼の言葉を待って俯いていると、弱々しい声が聞こえた。

「一度だって、離婚を考えたことはないよ。君を手放してやることは……できない」
「……ユハル様」
「スカーレットさんに何か吹き込まれたのかい?   それとも、僕が君を愛していないと言ったから不安になったのかい?」
「……」
「契約結婚なんて嘘だ。僕は君を誰より愛してる。だから、……冗談でも出ていくなんて言わないでくれ」

 彼の目は潤んでいた。彼の口から語られるひたむきな思いに、胸の奥が締め付けられる。私も気がつくと泣いていた。

「知っていました。ユハル様が、私に負い目を感じさせないように、嘘をついておられることを」
「え……」

 引き出しの中から、ここ二週間の私が残してきた記録を出して見せた。毎日記憶がリセットされながらも、夫婦の暮らしが少しでも良くなるようにと書き溜めた、沢山の案が羅列している。

「一体、いつから気づいていたんだい?」
「二週間前です。ハンナさんにも協力していただいて、毎朝本当の過去の記録を確認しています」
「昔つけていた日記まであるじゃないか。これを読んでも、動揺せずに過ごせているのかい?」
「はい。ユハル様がこの三年間で心境が変わったように、私も変わってきているようです」
「……そう」

 彼はまだ、信じられないといった様子だ。私はユハルの隣に座り、その手を握った。

「これからは、ご飯もきちんと食べます。思い悩んで心配をかけることもいたしません。だから、明日からはユハル様の口から本当の過去を教えてくださいませんか?   私、何も知らされないままは、もう嫌なんです」
「……っ」

 気がつくと、彼の胸の中にいた。ほのかに麝香の香りがする、大きな胸の中。私も彼の背に手を回した。耳元で彼が囁く。

「分かった。明日の君には嘘をつかないと約束するよ。君のことをめいいっぱい甘やかすから」
「……もう十分すぎるくらい、甘やかしていただいてますよ」

 私が身体を離そうとすると、彼が抱く力を強めて拒んだ。私の肩に顔を埋めて甘く懇願される。

「……もう少しだけ、このまま」
「はい。……ユハル様」

 幸せな約束を交し、穏やかなひと時を過ごした私は、その日はぐっすり眠れた。
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