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 僕は、食堂を出てから扉にもたれて、ため息をついた。

(やっぱりソフィーは手強いな。どんなに取り繕っても、僕の嘘に気づく)

 本当は、契約結婚も、彼女を愛していないという言葉も――全て嘘だ。

 僕とソフィアは少年少女の時代に運命的な出会いを果たし、恋に落ちた。家格の不釣り合いも、一度の喧嘩も、なんの障害もなしに、ソフィアの成人を待って婚姻を結んだ。
 結婚してからも、ただただ甘く幸せな毎日で、それが永遠に続くのだと思っていた――。


 ◇◇◇


 これは、本当の二人の過去の記憶。
 結婚して半年経ったころのこと。

「――へたくそ」

 音楽部屋でピアノを弾いていると、頭上からからかう声がした。ピアノの上に頬杖をついて、口角を上げたソフィアがこちらを見下ろしている。

「一生懸命練習している相手に、へたくそとは酷い言い草じゃないかい?」
「ふふ、ごめんなさい。でも私、あなたの拙い音も結構好きよ」
「つくづく失礼な人だ」

 幼いころから、教養の一つとしてピアノとバイオリンを学んでいたが、特に芽が出ることはなかった。手先が不器用で、楽器を演奏するのに向いていないという自覚はある。一方、同じようにピアノを学んできたソフィアは、元の素質が素晴らしく、めきめきと実力を伸ばした。結婚当初は音楽大学でピアノ科を専攻しており、演奏会や、資産家のサロンコンサートに引っ張りだこだった。そんな名誉も、記憶障害を患ったことにより全て忘れてしまうのだが。

「そこ。一音目は十六分音符だから、タータタじゃなくて、タタータよ」
「本当だ。ご指摘どうも」
「先生と呼んでくれてもいいのよ?」
「はいはい。ソフィア先生」

 僕とソフィアは、軽口を言って笑いあった。すると、ピアノの横にもたれていた彼女が、僕の膝に座った。肩に顎を乗せて、ぎゅっと抱き締められる。僕もごく自然な動作で、彼女の艶やかな銀髪を撫でた。

「ソフィーは甘えたがりだね」
「ユハルに抱き締めてもらうと、とても安心して心地がいいの。ずっとこうしていたいくらい。……ユハルは、私が甘えるのは嫌?」

 身体を少しだけ離して、彼女が小首を傾げる。僕が嫌と思っていないことなんて、分かりきっているくせに。僕はそんな小悪魔な彼女に、振り回されるのが好きだった。

「まさか。大歓迎だよ。僕は君を甘やかしたくて仕方がないんだから」
「まぁ、それじゃあ私たちは相性ぴったりね。結婚したら、お似合いの夫婦になれるかしら」
「――もうしてるだろう?」

 いたずらに微笑むソフィアの頬に手を添え、僕は唇を寄せる。けれど今日は、僕の唇に手を当てて口付けを拒んだ。

「ごめんなさい、風邪気味なの。あなたに移ったら大変だわ」

 ソフィアの体内のウイルスなら、移ったとしてもそれはそれで本望だ。……というのは、さすがに気持ち悪がられそうなので黙っておく。

「一週間前からだよね?   心配だな。大学の課題、頑張りすぎたんじゃないかい?」
「そうね。サロンコンサートと重なって、徹夜続きだったから」

 彼女は努力家だった。音楽活動をしながら、大学でも優秀な成績を修めていた。今回の課題は作曲で、夜分遅くまで音楽部屋に籠っていた。

「なんだか今朝からは熱っぽいのよね。でも、少し寝たらすぐ良くなるわ。私、体だけは丈夫だから。あ……義姉さんに最近勧めてもらった漢方、飲んでおかなくちゃ」

 屈託なく笑ったソフィアだったが、彼女はこの風邪を拗らせ、生死の境を彷徨った。ちょうど医師免許を取った彼女の義姉ステファニーが公爵邸に泊まっており、献身的に世話をしてくれた。そのおかげで体調は回復したが、重篤な記憶障害が残った。

「……あなたは――どなた?」

 目覚めた妻にそう告げられたとき、全身の血の気が引いて、身体中の感覚が無くなった。人生で初めて味わう、本当の"絶望"だった。自分のことや、家族のことはぼんやりと覚えていたが、子どものころから姉のように慕っていたメイドのハンナや、僕のことは記憶から抜け落ちていた。

「私とユハル様が……夫婦?   ごめんなさい、何も思い出せないのです。本当にごめんなさい……」

 あんなに仲が良かったのに、他人行儀になってしまったソフィア。目の前の妻が、別の誰かになってしまったようで、寂しくて、苦しかった。忘れられてしまっただけに留まらず、更に彼女は毎日記憶がリセットされる特異体質になっていた。

(なぜ、ソフィーがこんな目に遭わなければならないんだ?)

 よりにもよって、なぜ妻が。清廉潔白で、何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに過酷な病気になってしまったのだろうか。僕は彼女が哀れで、心を砕く毎日を送った。
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