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しおりを挟む昼食には、野菜のスープと肉料理、白パン、デザートのタルトを食べた。午後は、音楽部屋でピアノを弾いた。大きな窓の奥にバルコニーが広がる音楽部屋は、背の高い棚にぎっしりと楽譜が収納されており、壁には防音が施されている。ピアノの譜面台に置かれた楽譜には、私の筆跡で書き込みがあった。
(ピアノの弾き方も、楽譜の読み方も一応覚えているみたいね)
ピアノの椅子に腰を下ろし、大窓の外を眺めると、広々とした庭園が見えた。緑が茂り、色調豊かな花々が凛と咲いている。練習曲を数曲弾き込んでいる内に、夕暮れの気配が漂い始めた。
すると、後ろから低く爽やかな声が聞こえた。
「――相変わらず、楽曲に忠実で緻密な演奏だね。音の粒が完璧に揃っていて、けれど一音一音が表情豊かだ。……ずっと聴いていたいくらい、いい演奏だ」
「ユハル様……お帰りなさいませ」
「ただいま。帰ったら君のピアノの音が聞こえたから寄ってみたんだ。迷惑でないかい?」
「はい、もちろん」
私は、仕事帰りの夫に、他人行儀の会釈をした。
「お褒めに預かり、恐縮です。あの、この設備が整ったお部屋は……?」
「私のために作った部屋だよ」
「そうなのですね。ユハル様もピアノを嗜まれるのですか?」
「――少しね」
音楽部屋には、大きなグランドピアノが二台並んでいる。彼いわく、昔はよく二人で連弾したらしい。
(一緒にピアノを弾くだなんて、契約夫婦にしては仲が良かったみたいね……?)
ユハルは、もう一台のピアノの椅子を引いて座った。彼のしなやかな指が、鍵盤に触れる。
(この曲は……連弾用の練習曲、"さざ波")
決して技術が優れている訳ではない。むしろ稚拙な演奏だが、優しい気持ちになる音だった。ユハルの主旋律に合わせて、私が下のパートを重ねる。せせらぐ海の雫が跳ねてまた水面に落ち、波紋が広がるような、波の優雅なうねりを脳裏に思い浮かべた。
一応、社交辞令としておべっかを言う。
「お上手ですね」
「はは、世辞はいいよ。やっぱり僕は、弾くより君の素晴らしい演奏を聴く方が好きだ」
なぜか手放しで絶賛してくれるユハル。私は褒めてくれたことが嬉しいのと同時に、その期待に応えたいと思った。
「ふふ、あなたがお望みでしたら、何度でも弾いて差し上げます」
「やっと笑ってくれた」
「え……」
ユハルは柔らかな眼差しをこちらに向け、ふっと口角を上げた。
「今日は初めて、笑顔を見せてくれた。僕は君の笑顔を見ているときが一番幸せな気持ちになるよ。物凄く可愛いな」
「……か、可愛い?」
(……この方、私のことを愛していないのよね?? どう見ても溺愛する妻への態度なんだけれど)
「契約結婚で、君のことは愛していない」とはっきり告げられたのが嘘のように、ユハルは甘い言葉を囁き、甘い顔をする。私が怪しむように見ていると、彼ははっとして、取ってつけたように加えた。
「あっいや、その……君の造形的な美しさは魅力的に思うけど、他意はない。ほら、小動物を慈しむのと同じようなものさ」
「はぁ……」
「僕は君に特別な情はないから、誤解はしないでほしい。一応……言っておく」
「……分かりました」
聞いてもいないのに、言い訳まがいなことを言うので、ますます妙だと思った。
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