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第3章 悪役令嬢と運命の紋章
43 波乱の夜会 (3)
しおりを挟む「その傷の具合では、跡が残りますわよ」
医務室に着き、気の良さそうな中年の宮廷医に手当を受けていたジェナーにヒルデが言った。
「もう起こってしまったことですから、仕方ありません」
危険を顧みず、女性に話しかけたのは自分だ。今更言っても後の祭りである。ヒルデは厳しい口調で言った。
「社交界は足の引っ張り合いの場ですわ。皆、互いに粗を探し合うもの。――目に見える傷は、好奇に晒されますわよ」
「……」
婦人に話しかけたことに後悔はしていなかった。しかし、今もなお彼女のことが気がかりでならない。ジェナーの心は彼女への憐憫に揺れていた。
ヒルデは、ジェナーの沈黙に対し、ショックを受けているのだと受け取ったらしく、加えて言った。
「……ですが。きちんと適切な治療をしておけば、そう目立たないかもしれませんし……。落ち込んでいるところに脅すような言い方をしたことは謝罪いたしますわ」
「ふふ、ヒルデ様はお優しいですね」
「……!」
ヒルデは虚をつかれたような顔をした。
ヒルデは、一見冷たく感じるが、実際はそうではない。入学式典後の夜会で「ギルフォードから身を引いた方がいい」と忠告してきた彼女。棘のある言い方ではあったが、シャーロットの派閥の令嬢のひとりとして、彼女の恋の障害を排除してやろうという気ではなく、ただ王女に敵対することの不利益をジェナーに説いてくれたものだった。
ヒルデは、ドール公爵家の令嬢であり、シャーロットの取り巻きの中では彼女に次いで高貴な令嬢だ。しかし、シャーロットの友人たちがいくらジェナーに対して軽蔑や揶揄を向けても、彼女だけはそこに便乗しようとしなかった。ヒルデは、淑女としての慎み深さと矜恃のある女性だ。
「全く……。あなたには言われたくありませんわ」
「…………?」
ヒルデはやれやれという顔で肩を竦めた。
傷の手当が終わり、二の腕から手首にかけて巻かれた包帯。ヒルデはまた大きなため息をついた。
「その姿で夜会にでるつもりですの?」
「……残念ですけど、これでは出席は難しいですね」
せっかくジェラルドが与えてくれた機会ではあるが、怪我をした姿で人の目に晒されて、悪目立ちするわけにもいかない。
ジェナーは痛む手を抑えて苦笑した。
「これをお使いなさい」
ヒルデは自分が着けていた厚手の黒いロンググローブを取ってジェナーに渡した。
「……! ありがとうございます、ヒルデ様」
ジェナーは彼女から受け取ったロンググローブを身につけて微笑んだ。本当に親切な人だ。
(……あのご婦人、大丈夫だったかしら? それに、ヒルデ様が『陛下』と呼んでいたけれど……)
正装をして王城にいるということは、本日の夜会の参加者だろうと予想する。
そして彼女はギルフォードと同じ――ライトブルーの瞳と艶やかな銀髪をしていた。銀髪というのは非常に珍しい。子供の頃銀髪や金髪だった子どもは、大抵の場合成長すると色が濃くなって茶髪などになる。年老いて白髪が出てきた銀髪ではなく、絹糸のように艶やかで純粋な銀髪というのは、ある家系に限定して生まれる。
「ヒルデ様。……先程の女性は、もしかしてオリヴィア・ラヴィルニー皇后陛下でしょうか」
「……ええ。そうよ」
オリヴィア・ラヴィルニー。彼女は皇家の分家であるオールディス家の出身なので、皇族と同じ瞳と髪色をしていてもおかしくはない。
まさかとは思ったが、ヒルデの返答に全てが腑に落ちた。
オリヴィアが「あの人」と呼んで憎しみを向けていたのは、いずれ現皇太子ジーファに代わって皇位を継ぐであろうギルフォードで、「あの子」と呼び哀れみを向けていたのは息子のジーファだ。
母親が子を思う気持ちは身分に関係なく同じだ。病で身体が衰えていくジーファに心を病んでしまったのだろう。オリヴィアには悪い噂が絶えないが、周りから異常に見えるほどに精神的に不安定なのだと思えた。
気の毒な人だと思い、先程のオリヴィアの痩せた姿を脳裏に思い浮かべたときだった。
(あ……れ…………?)
突然、目眩がジェナーを襲い、咄嗟に額を抑えた。まるで忘れ物を思い出すように、あたかも初めからそこにあったかのように、知らない経験と知識が頭の中に流れていく。
この感覚を、ジェナーはよく知っている。
前世の記憶が戻るとき、何かをきっかけにしてこんな風に目眩が起こり、知らない情報で頭の中が埋め尽くされていくのだ。
「…………うっ」
「エイデン嬢!? しっかりなさって! 頭が痛むの?」
痛みはないが、意識が混濁してヒルデに返答ができない。
徐々に現実に意識が戻ってゆき、ジェナーは呟いた。
「……思い、出した…………」
オリヴィアとの接触を引き金に思い出したのは、ゲーム『運命の紋章』における、この夜会でのストーリーの内容だ。
ジェナーは険しい表情でため息をついた。
ゲームのシナリオでは、皇子お披露目のこの夜会で、ギルフォードはシャーロットをパートナーとして参加していた。シャーロットは評判も地位も素晴らしく、両陛下に挨拶をすることが許された。ギルフォード直々の紹介を受けるということは、その瞬間からシャーロットは婚約者候補として名前が挙げられることになるのだ。そして、彼女が両陛下に挨拶するとき――事件は起こる。
突然オリヴィアが癇癪を起こし、シャーロットに掴みかかるのだ。シャーロットに怪我はなかったものの、オリヴィアは気のおかしい狂人として世間に揶揄されるようになる。
幸いなことに、シャーロット・テナントは聡く慈悲深いヒロインだった。
クレイン王国の象徴ともいえる王女に危害を加えようとした皇后については、下手をすれば国同士の関係を悪化させうる事件に発展しえたが、シャーロットはオリヴィアの罪を全て許し、怒るクレイン王国を諌めて、この件を不問にするよう説得した。シャーロットの立ち回りにテーレの皇帝は感心し、彼女は婚約者候補として順調な踏み出しを切ることになった。
そして今夜。ギルフォードのパートナーとして夜会に出席するのは――ジェナーだ。
オリヴィアの精神が大変不安定であることは先程の様子を見て理解している。
(……参ったわ。私ならともかく、ギルが怪我でもしたら大変)
もしオリヴィアが癇癪を起こしたとき、守れるのは事前にそれを知っている自分だけだ。
ジェナーがぼんやり考え込んでいると、ヒルデに肩を揺すられていることに気がついた。
「どうしたのよ? しっかりなさって、エイデン嬢……!」
「あ、ごめんなさい……。軽い目眩が起きたのですが、もう治まりました。ご心配をおかけしてすみません」
「もう、額を抑えたまま黙ってしまったから、びっくりしましたのよ?」
はぁ、と息を吐いて安堵を滲ませたヒルデを横目に、ジェナーはロンググローブがずれ落ちて、包帯がわずかにあらわになっていることに気づく。
(……私がしっかりしてギルを守らなくちゃ。……なんだか今日は大変なことばかりね)
ジェナーはそっと、ロンググローブの端を摘んで上まで引き上げた。
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