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第1章 悪役令嬢とやんごとなき使用人
03 複雑な気持ち (1)
しおりを挟むバイオリンのレッスンから始まり、淑女としての作法や振る舞いの指導、教養に関する勉強と、朝から忙しなく組み込まれた1日の予定を終え、ジェナーはやっと自室でひと息ついた。
「ん……温かい。いつもありがとう、ギル」
「とんでもありません。お嬢様に誠心誠意お仕えするのが俺の仕事ですから。お嬢様の方も、本日も1日お疲れ様でした」
ギルフォードが淹れてくれた蜂蜜入りのホットミルクを1口飲み、カップをテーブルに置いた。
こうして一日の終わりに、ギルフォードに紅茶やミルクを用意してもらうのは習慣だ。
「……ところで、お嬢様のバイオリンの音色は、何と言うか、いつ聞いても前衛的ですね。お側で聞いておりましたが、楽器……というより、馬の鳴き声、あるいは猿の断末魔かと」
「ちょっと。その言い方、馬鹿にしてるの? ……ていうか、猿の断末魔って何……?」
「いえいえまさか。お嬢様にしか出せない味があって良いんじゃないですか」
「全く。嫌味な人ね」
ジェナーは少々、手先が不器用だ。『少々』というのはジェナーの自己評価であり、屋敷の者たちは、ジェナーは比類なく救いようがないほどに不器用だとまことしやかに囁いているとかいないとか。
バイオリンにおいても、レッスンを初めて数年たっても素人同然の金切り音しか出せない。例えるならばそう、ーー馬の鳴き声みたいな音、だ。素質がないのだと分かってはいても、両親に教養として身につけろと言われるのでいたし方なくレッスンを続けている。
「馬鹿にするならあなた、自分で試しに弾いてみたらいいんじゃない? 思ったより難しいんだから」
「目をつぶってもお嬢様よりはマシな音が出せるかと」
「…………」
つくづく嫌味ったらしいが、ギルフォードが挑発に乗ってきたので、すかさず言い返した。
「言ったわね?」
ジェナーはギルフォードを不満げに睨みつけ、ソファーの横に置いておいたバイオリンのケースを渡した。今日はジェナーが使っていたので、調律は整っている。
ギルフォードはバイオリンを箱から出して、首に添えた。姿勢も良く、伏し目がちな表情はどこか艶やかで、佇まいだけならどこかの貴公子といっても良いくらいだ。
(……見た目だけは、様になってるけど)
しかし、驚いたのは今日ジェナーが弾いていた曲を完璧にギルフォードが弾いてみせた事だった。少しのぎこちなさもなく、繊細で柔らかな音が奏でられる。
「な、なんで弾けるの……?」
「お嬢様の稽古の様子をずっと横で拝見しておりましたので」
「……」
そう言って涼しい顔をしているギルフォードに、無性に腹が立った。……悔しい。やはりゲームの攻略対象ともなると潜在的能力が常人とは違うらしい。
ジェナーは、ギルフォードから返却されたバイオリンを再びソファーの横に置いた。
しかし、ジェナーにとって、ギルフォードと軽口を言い合う関係はとても心地が良かった。庶民として彼が育ってきたからか、それとも生来の彼の性質からなのか、ギルフォードはざっくばらんで気さくだった。エイデン家の皆も彼を慕っており、ジェナーも彼の親しみやすい性格を好ましく思っていた。
「もう、ギルがここにきて2年になるのね。何だかあっという間に感じるわ」
「はい。俺にとっては身に余るほど、幸福な日々でした」
「身に余るほどの幸福? そういう割に随分主人に対して生意気で無礼なことばかり言うじゃない?」
「愛情表現ですよ」
「ほら、生意気」
2年という時間は、ジェナーがギルフォードという人間を知るには十分過ぎる時間であった。その逆も然りだろう。
意地悪を言うこともあったが、それでもジェナーが辛い時1番親身になり寄り添ってくれたのは彼で、ジェナーが嬉しい時、1番喜んでくれたのもまた彼だった。
「でもね、私も、ギルがエイデン家に来てくれて本当に良かったと思っているわ。あなたのおかげで毎日がとても楽しかった」
「それは光栄の至りです」
ジェナーが微笑むと、ギルフォードも釣られるように目を細めた。
孤児としてクロムの街でジェナーが拾った彼には誠の名がある。――ギルフォード・ラヴィルニー。世間から存在が隠された、帝国テーレ皇帝の庶子だ。
テーレには現在、ギルフォードより4つ年上の皇太子ジーファがいる。彼の母である皇帝の正妃オリヴィアは帝国内でも有力な貴族家出身で、何の後ろ盾も無かったギルフォードの母親とギルフォードは国を追われる。
一方で、ジーファは身体が弱かった。これから大病を患い、あと数年で夭折するのだが、彼の死により、テーレは現在の皇帝の純粋な血筋の皇位継承者を失うことになる。実質的に唯一の皇位継承者となったギルフォードは、国に呼び戻されるのだ。
(本人の意思には関係なく……ギルフォードはいつか、立派な統治者にならなければならない人)
彼の出生は覆りようがない。いずれ自国に戻り、大国テーレを治めていく彼に必要なのは、正当な教育機関で教育を受けることだ。
ゲーム『運命の紋章』のシナリオにおいても、ギルフォードは自分の立場を理解していた。母を切り捨てた国へ恨む気持ちはあっても、自ら学院に入ることを決意する。
ギルフォードはエイデン家にやって来て2年経った現在、王立学院に入学出来る年齢になった。どうせなら、彼の未来のために、ジェナーは自分からも後押ししたいと思っていた。
(学院に入学したらどうか、私から聞いてみようかな。……きっともう本人は考えているのでしょうけど)
「あの、お嬢様にお話したいことがあるんです」
「……どうしたの?」
「俺、春から学校に通おうと思っています。一応お嬢様に許可をと思いまして」
「…………!」
まさか、こんなにぴったりのタイミングで彼自身の口から学校に通う意志を打ち明けられるとは思っておらず、意表を突かれて目を見開いた。
「ああ、学費のことは心配なさらないでください。貯えはそれなりにありますし、特待生は免除と給付金があるので」
まだ入学が確定した訳でもないというのに、涼しい顔で自分があたかも特待生かのように話すギルフォードに、ジェナーは言った。
「まだ試験を受けてもいないのに、凄い自信ね」
「学力には問題ありませんから」
「…………」
彼は、でまかせで言っている訳ではない。やはり、未経験のバイオリンをその場で弾いてのけたことといい、攻略対象キャラクターはポテンシャルの高さが凄まじい。いつのまに勉強をしていたのだろうか。
「受けてみたらいいんじゃない? 私はあなたのやりたいことに反対はしないわ」
「ありがとうございます」
ジェナーには、彼の意志を反対するつもりは毛頭ない。ゲームのジェナーも、ギルフォードの入学に反対はしなかった。もっとも、悪役令嬢としてのジェナーは、その後自分が入学してから、ギルフォードを常につき従えて他の令嬢たちにひけらかしたいという密かな目論みがあって承諾したのだが。
「俺が気がかりなのは、入学したら、寄宿舎に入らなければならない点なんです」
「……つまり、ここを出ていくことになるのね」
「そうなります」
ギルフォードの声はどこか頼りなく寂しさを感じさせる。
また、ゲームにおいてギルフォードは王立学院を卒業するとクレイン王国からも離れていく。
テーレの皇太子が病弱という話は、クレインでももっぱらの噂で、ギルフォードも彼なりに国へ呼び戻される可能性は理解しているだろう。
「……ギルに会えなくなるのは寂しいわ。……凄く」
「…………!」
ギルフォードはジェナーがこうも素直に言葉にするとは思っていなかったらしく、拍子抜けした様子で口元に手を当ててポツリと呟いた。
「……や、やややはり、行くのは辞めましょうか……」
「ふ。いちいち狼狽えないでよ」
ギルフォードが真剣に考えを改める素振りを見せ始めたので、すかさずツッコミを入れる。
「私、ギルが決めたことなら、何でも応援するわ。あなたのやりたいようにやりなさい」
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