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第1章 悪役令嬢とやんごとなき使用人
01 悪役令嬢の特別な使用人
しおりを挟む「お嬢様、お目覚めのお時間です」
「ん……? もう……すこし」
低く爽やかな声が鼓膜を震わせる。ジェナーは眠気半分でその呼びかけに答え、再び心地の良いまどろみに沈んでいった。
「本日は10時よりバイオリンのレッスンがあるのでしょう。早くお支度をなさらないと、ミシェル先生が到着してしまわれますよ」
「……あと、5分」
そんな予定もあったような、なかったような――。意識は半分眠りの中で、話しかけられていることが、まるで夢の中のことのように遠くに感じられた。
その時、ジェナーのベッドの傍らで小さなため息が聞こえる。
「当家のお嬢様は本当に困ったお方だ。……そんな無防備なお姿のままでいては――俺にいたずらされてしまいますよ?」
「…………?」
誰かの気配が顔の付近に接近するのを感じ、はっと目を覚ます。すると、視線の先、もう少し近づいたら顔のどこかが触れてしまいそうな距離にギルフォードの顔があった。彼はどこか、愉快そうに口角を上げている。
「き、きゃぁああああ…………っ!」
ジェナーは寝起きとは思えないほど大きな悲鳴をあげて、勢いよく半身を起こす。勢い余って、こちらの顔を覗き込んでいたギルフォードの額に、頭を思い切りぶつけた。
――ゴツン。
鈍い音が部屋に響き、ギルフォードは額を抑えながら怪訝そうに顔をしかめた。
「全く。お嬢様は相変わらず朝から元気ですね」
「元気ですね――じゃないでしょう。何涼しい顔をして勝手に私の部屋に入ってきているのよ」
本来であれば、毎朝ジェナーを起こしに来るのは専属侍女レディースメイドのアンナの仕事であるはず。ギルフォードも、このエイデン伯爵家の使用人の1人であるとはいえ、許可なく娘の寝室に入るとは何事か。それに、ジェナーは伯爵令嬢である以前に年頃の娘だ。年若い娘の部屋に、それも眠っている無防備なところに訪ねてくるなんて、あまりに非常識ではないか。
「お嬢様が何度起こしてもお目覚めにならないから代わりに起こしてほしい――とアンナさんから頼まれたんです」
「アンナったら、また勝手なことを……」
「悪いのはなかなか起きられなかったお嬢様の方かと」
「…………」
ジェナーはめっぽう朝が弱いのだ。ギルフォードの指摘にぐうの音も出ない。ジェナー自身も、毎朝付き合わせてしまっているアンナには申し訳ないと思っている。ちなみに彼女の方は、寝起きの悪い主人にいささか愛想を尽かしている。
「仕方がないわね。ギルが勝手に部屋に入ってきたことは不問にしてあげる。……忙しいのに、手間を取らせてしまってごめんなさいね」
ギルフォードにも、彼のための仕事が与えられている。そんな中で寝覚めが悪いジェナーのために時間を取ってしまったことに謝罪しつつ、ぐっと伸びをして欠伸あくびをした。
「ん……眠い……」
ジェナーが重い瞼を擦っていると、ギルフォードは面白そうにくすくすと笑った。――そしてふいに、ジェナーの片手をそっと手に取り、じっとこちらの目を見つめた。
ただの一使用人と思えないような、優美で洗練された所作。艶のある銀色の髪の毛と、彫刻のような彫りの深い端正な顔立ち。そして、見慣れているジェナーでさえも思わずうっとりしてしまいそうな、美しいライトブルーの瞳には、銀糸のまつ毛が影を落としている。
「あなたに割くための時間が惜しいとは全く思いません。俺がお仕えすべき相手は、お嬢様だけなんですから。――このブローチをあなたから賜たまわったあの日から」
「……まずはその手を離しなさい」
「申し訳ございません。つい」
ギルフォードはいかにも名残惜しそうに手を離し――懐からエメラルドが埋め込まれたブローチを取り出して見せてきた。
精巧せいこうな装飾が施された高価なブローチは、7年前にジェナーがギルフォードにあげたもの――らしい。らしい、というのは、現在のジェナーは当時のことを全く覚えていないからだ。
「別に、そのくらい些細なものだわ。……あなたがそこまで恩に感じる程の事では――」
ジェナーが言いかけたところで、ギルフォードが遮る。
「俺にとっては、とても大切なものです。お嬢様と俺を繋げてくれたきっかけですから。だからどうか――些細な、などとおっしゃらないでください」
「…………」
ギルフォードがあまりに切なげな顔をするので、悪い事をしたようないたたまれない気分になる。しかし、当時のジェナーも恩を着せたくて譲った訳ではないはずだ。
それよりも、たかだかブローチ1つのために、彼がジェナーに対して過大な恩を感じて、エイデン伯爵家の使用人でい続けることに固執こしゅうされては敵わない。
なぜなら――このギルフォードという青年は、たかが中流貴族家の使用人に収まるような器の人物でないのだから。
「分かった。……もう、言わないから。ほらギル、私ちゃんと起きられたんだし、アンナを呼んできてくれる?」
「別に、俺がこのままお手伝いして差し上げてもよろしいのですよ。――ご命令とあらば、着替えなどもお手伝いして……」
「もう。馬鹿な冗談言ってないで、速やかに出ていってちょうだい」
悪戯に口角を上げて冗談じみたことを言うギルフォード。そんな彼の背をぐいと押して、半ば強引に部屋から追い出した。
ジェナーはその足で大きな鏡台の前の椅子に腰を下ろし、鏡面に映る自分の顔を眺めた。プラチナブロンドの胸元まで伸びた髪に、陶器のような滑らかな白い肌。そして、切れ長で柔らかな雰囲気のエメラルド色の瞳――。
「……ジェナー・エイデン……か」
ブラシで長い髪をとかしつつ、ポツリと自分の名を口にしてみた。
自分の名前なのに、どこか他人のような、そんな違和感がある。違和感を感じているのは、ジェナーの中に――日本で暮らしていた前世の記憶が蘇ったせいだ。
ここは乙女ゲーム『運命の紋章』の世界。
クレイン王国の第一王女シャーロット・テナントをヒロインとし、5人の攻略対象の誰かとの恋を楽しむ恋愛シュミレーションゲームだ。
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ギルフォードも、『運命の紋章』の中の攻略対象のひとりだ。作中でも攻略難度の高いキャラクターとされており、彼の攻略には、悪役令嬢、ジェナー・エイデンにひたすら話しかけて親しくなっておくというのが必須条件だった。というのも、ゲーム本編でもジェナーはギルフォードを使用人として常に傍においており、彼に心酔していたからだ。つまり、現在彼がジェナーに仕えている状況も――シナリオの筋立て通りなのである。
ジェナー・エイデンは、悪役令嬢だった。彼女は、皆に好かれる愛らしいシャーロットに嫉妬し、彼女の恋の邪魔や嫌がらせを度々行う。結果として自らの評判を悪くして、社交界から追放されるのである。
ジェナーに前世の記憶が蘇り始めたのは、ずっと昔のことだった。断片的に、まるで忘れ物を思い出すように日本人としての日々が想起されることがあった。しかし、それが前世の記憶であり、この世界がゲームの世界だと確信したのはギルフォードをエイデン家に連れてきた後のこと。
前世の記憶といっても、全てを思い出しているわけではない。今でもたまにふとした瞬間に新しい記憶が蘇ることもあり、ゲームの内容も不確かな部分が多い。
(何か、とても大切なことを忘れてしまっている気がするのに……思い出せない。運命の紋章にまつわる、重大な事実を見落としているような……)
無理に記憶を引き出そうとすると、頭に圧痛がして思考が阻まれる。ジェナーは額に手を当てて、嘆息した。
「駄目ね……。やっぱり自然に思い出すのを待つしかない――か」
とはいえ、未完成の記憶ではあるものの、前世の記憶はこれからの行動の手がかりになる。悪役令嬢としてのジェナーが犯した失態は繰り返さず、家族にも、ギルフォードにも迷惑はかけたくない。
ジェナーが孤児だったギルフォードを使用人として引き取ることにしたのは、街で不良に絡まれていたときに助けてもらったことがきっかけだ。これもまた――ゲームのシナリオ通りの展開。
――しかし。
ギルフォード曰く、それよりも昔に2人は出会っていたという。もっとも、彼にブローチを譲ったことは、悪役令嬢としての現在のジェナーも、前世の自分も――全く記憶になかった。
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