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しおりを挟む「レイモンド。夕食を持って来たよ」
オリアーナは夕食が載ったワゴンを押して、レイモンドの部屋に入った。
「ありがとうございます、姉さん」
そう言ってレイモンドは、身を起こした。寝癖がついた長い髪を手で梳く彼。
「あのさ、レイモンド。明後日会ってほしい人がいるんだけど」
「誰でしょうか」
「学校で……魔法医学を研究されているエトヴィン先生」
「エトヴィン・ジール教授……。魔力核の専門家ですね」
「知っていたんだね。そうだよ。とても優秀な方だなら、きっと君の力に――」
「結構です」
「え……」
「視ていただかなくていいとお伝えください」
せっかくの提案をぴしゃりと撥ね除けられ、オリアーナはぎゅっと拳を握り締めた。
「もう全部、分かってるんだよ。レイモンドの具合が悪くなったのは……お母様のお腹の中で、私と君の魔力核が結合して君の方に入ったからだって」
「…………」
「だから、隠しているんでしょ。私がお母様たちに責められないように……。負い目を感じないように」
レイモンドはスプーンを皿の上に置いて、冷静に言った。
「……気づいて、しまったんですね。僕の推測でしかありませんが――恐らく。ですが姉さん。もし仮に僕が助からなかったとしても、自分を責めないですください。姉さんは何も悪くありませんから」
オリアーナはレイモンドを包み込むように抱き締めて、肩に顔を埋めた。泣きそうになるのを、下唇を噛んで堪える。
(ごめんね。不甲斐ない姉さんで、ごめん……。レイモンドの気持ちを少しも分かってあげられなかった。一人で抱えさせて、ごめん)
けれど、謝罪の言葉を口にすることはできない。レイモンドが自分を責めてほしくないというなら、そういう素振りを見せたくない。
「大丈夫。きっとよくなるから。レイモンドは助かるって……姉さんはそう信じてる」
「…………」
オリアーナの腕の中で、彼は言った。
「そうですね。……きっと」
そっと彼から身体を離した。レイモンドの金色の瞳も涙で濡れている。彼が泣いているのを見るのは、何年ぶりだろうか。いつも冷静沈着で、クールで、滅多に泣かない彼が。
レイモンド・アーネル。始祖五家アーネル公爵家の子息であり、アーネル家始まって以来の逸材といわれる彼。
生きてさえいれば、多くの民を救う素晴らしい魔法士になっていたはずだった。どうしてよりによって彼が、こんな目に遭わなければならないのだろう。
「私が代われたら……どんなにいいかな。私なんかより、レイモンドの方がずっと価値のある人生を送れたはずなのに……いや、違うよね。そういうことじゃないよね」
彼はオリアーナの涙を親指の腹で拭い、真剣な面持ちで言った。
「姉さんの自己肯定感が低いのは、僕たち家族のせいです。姉さんは誰よりも魅力的で、自慢の姉さんです。もっと自信を持って。自分を大切にしてあげてください」
「…………」
ずっとレイモンドと比較され、出来損ないと言われて、愛されずに育った。無意識に誰に対してもいい顔をしてしまうし、頼まれたことは拒めない。それらは自己肯定感の低さから来るものだ。
だから、レックスに理不尽に婚約破棄されても、弟の身代わりを押し付けられても、怒ることができなかった。どんなに辛いことも、甘んじて受け入れてきた。
「姉さん。ガードル夫妻の養子になる気はありませんか?」
「え……?」
突然の提案に、目をしばたかせる。ガードル侯爵夫妻は、アーネル公爵家の遠縁で、オリアーナとレイモンドが小さいころからとても可愛がってくれていた。
彼らには跡継ぎがおらず、昔から冗談混じりにオリアーナを養子にしたいと言っていた。彼らはオリアーナの両親がオリアーナに冷たく当たることを知っている上で、逃げ道を作ろうとしてくれていたのだ。この国の制度では、養子縁組を組むと、肉親との関係を法的に断絶することができる。
「姉さんは、両親と縁を切るべきだと思います。あの人たちと一緒にいたら、姉さんは本来の姉さんらしくいられません。姉さんのいいところも、あの人たちに潰されてしまう」
「…………」
「両親のことは、僕に任せてください。二度とあの人たちに振り回されることがないように、僕がなんとかします。だから、養子の件、考えてみてください」
一体、レイモンドは何を考えているのだろう。その鋭い眼差しの奥に、どんな考えがあるのか測れなかった。
するとレイモンドは、おもむろに袖を捲った。彼の手首には、当主の証である十字の紋章がうっすらと浮かびかけていた。
始祖五家の爵位継承には、変わったルールがある。純血かどうかや生まれた順番は重視されず、手首に十字の紋章を持つ人が、当主を務めるという……。十字の紋章を持つ始祖五家当主は、聖女に忠誠を誓って生きるのだ。
「生きていられたら僕が必ず、父を当主の座から引きずり下ろします。家督を継げばあの両親と完全に縁を切ることはできませんが、姉さんは違います。完全に縁を断つべきです」
現当主の父は、当分子どもたちと代替わりすることはないと高を括っていたが、まさかレイモンドに紋章が発現するとは。
きっとあのていたらくな現当主を、神は不適任と判断したのだろう。
でもどうして、明日の命さえ危ぶまれている状態のレイモンドに紋章が浮かびかけているのだろうか。
「そうだね。考えておくよ」
しかし、レイモンドが家督を継げるのは、もしこの先も生きていられたならの話だ。彼は小さく息を吐いた。
「万が一……僕がいなくなっても、姉さんにはセナがいます。彼ならきっと、姉さんを大切にしてくれるし、守ってくれます」
「どうして急にセナが出てくるの?」
「僕の推しです」
「推し」
なぜセナを勧めてくるのかはよく分からないが彼はきっとこの先も味方でいてくれるだろう。
少し喋ったらレイモンドは疲れてしまい、その日はすぐに寝てしまった。
◇◇◇
すると翌日。オリアーナがいつものように夕食を届けに行くと、レイモンドが寝台の上で苦しそうにしていて。
「レイモンド、どうしたの!? レイモンド……! しっかり……!」
寝台のシーツをぎゅうと握り締め、呻き声を漏らすレイモンド。額に脂汗を滲ませ、悲痛に顔を歪ませている。
「くっ…………う」
「どこが痛いの?」
「胸が、痛いです。内側から何かが爆発するよう……」
レイモンドはオリアーナの手を縋るように握ってきた。その手が小刻みに震えている。
(鎮まれ、鎮まれ、鎮まれ……)
苦しみにあえぐ弟の傍で、オリアーナは何もしてやることができなかった。
「死にたく……ないです、姉さん……」
「うん、そうだよね。大丈夫だから。きっとよくなる。姉さんが傍にいるからね」
大切な人が苦しむ姿を見るのは、胸が張り裂けるように辛い。姉さん、姉さんとうわ言のように名前を呼んでくる彼に「大丈夫だから」だと声をかけて、背中を摩ってやることしかできない。すると、レイモンドがはっとして顔を上げた。
「魔力が暴走して……っ。――姉さん、離れて!」
彼に突き飛ばされた直後、部屋が眩い光に包まれる。床や壁が衝撃に揺れる。
(レイモンド……!)
暴走した魔力が溢れ出して、家具をめちゃくちゃに破壊していく。棚の本や飾りが落下して、ガラスが割れる音がした。飛んで来た何かの破片で頬が切れる。
「どうしたんだ!」
「大変よあなた。レイモンドが苦しそうにしてるわ……!」
揺れを察知して、両親が部屋に駆けつけた。並々ならないレイモンドの様子に、両親は当惑する。
「レイモンド! しっかりしろ! 弱気になるな。早くよくならないと、父さんたちが困るんだぞ!」
「そうやって演技して私たちを困らせようとしているんでしょ!? ねぇそうよね!?」
苦しんでいるレイモンドを怒鳴りつける両親を見て、唖然とする。どうしてレイモンドの心配より、自分達の心配の方が先なのだろう。
「オリアーナ、あなたが何かしたんでしょ!? なんとかしなさいよ! レイモンドに万が一のことがあれば承知しないわよ!」
母の叱責はオリアーナの方にも向いてきた。自分がひどく当たられるだけなら、いくらでも我慢できる。でも今は、大事な弟が苦しんでいる最中だ。オリアーナは両親を睨みつけた。
「出てって……」
「オリアーナ?」
「早くこの部屋から出て行ってください!」
両親を強引に引きずるようにして部屋から追い出し、施錠した。
レイモンドの元に戻って手を握る。
(あんな両親で本当にごめんね。……姉さんが傍にいるからね。……私が代わってあげられたらいいのに……)
レイモンドもオリアーナの手を握る力を強めた。そして、彼の背中を擦りながら呟く。中間試験のときを思い出しながら。
《――聖女の祝福》
――すると。
『もう大丈夫よ。主様。泣くのはお辞めなさい』
「……!」
オリアーナの視線の先で、羽の生えた小さな妖精が浮遊していた。愛らしい妖精は、汗ばんだレイモンドの額にそっと口付けした。
『――お眠り』
妖精がそう告げると、レイモンドの体から力が抜けてよろめく。オリアーナがその体を支えれば、耳元で寝息が聞こえ始めた。そっとレイモンドを寝台に横にして、妖精の方に視線を戻す。
「……あなたは? 妖精……?」
『いいえ。わたくしは主様の願いそのものよ。――誰の心にも宿っている願い。あなたはそれを具現化する聖女の力があるの。……その美しい青年は大丈夫。恐れないで信じ続けなさい。そうすれば、どんな願いだって叶うから』
彼女は諭すようにそう言い残して、光の粒になって消失した。その光の残滓を眺めていたら、自然と涙が流れていた。
(誰でもいい……。どうか、弟のことをお救いください。この国を建国した偉大な始祖五家の先祖様、神々の皆様……。どうか、弟のことを助けてください……。他には何も……望まないから)
寝台の上で眠るレイモンド。タオルで額の汗を拭ってやるが、オリアーナの瞳から落ちる雫で濡らしてしまった。
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