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しおりを挟む窓の外では雨が激しく降り、雷鳴が轟いていた。
そして、レストナ王国の十七歳のうら若き女王、エトワール・フェレメレンの怒号が、謁見の間中に響き渡る。
「どうして民間人を見捨てて戻ってきたの!? 私はルニス王国軍に即座に攻撃せよと命じたはずよ!」
レストナ王国とルニス王国は、土地の支配権を巡って、五十年もの間戦争を続けている。
度重なる失政により『愚王』と呼ばれたフェルメレン王家の先王が病死し、彼のひとり娘エトワールが女王になってまもなく、ルニス王国は軍事侵攻を開始した。
ルニス王国軍はレストナ王国の重要都市アトラスを包囲すべく、北から南に向かって進軍していた。
エトワールはアトラスの防衛のために、二千人の軍を送った。その指揮を執ったのが、エトワールの夫であり王国騎士団団長のイザールである。
エトワールはルニス王国軍と戦い、なんとしてでも都市アトラスを死守せよと命じていた。
しかしイザールは独断で命令に背き、兵を引き連れて、戦うことなく戦地から王宮に帰還した。
「戦う前から白旗を上げて逃げ帰るなんて、どうかしているわ」
アトラスでルニス軍が好き勝手していて、街は破壊され民間人が次々と虐殺されている。
「ルニス王国は三千五百人の軍隊で進軍してきた。明らかに勝てる戦いではない」
「だからって、兵士が民間人を見殺しにするなんてありえないでしょう。このままアトラスが陥落すればどうなるか……あなたが一番よく分かってているはず」
エトワールは一段高い場所に座したまま、肘掛けをぎゅっと握り締める。
すでにレストナ王国は四分の一の国土をルニスに侵略されている。都市アトラスの近くにはこの国の水源である大河が流れており、立地的にこの国の最後の防衛の要でもあった。アトラスが陥落するということは、つまり――レストナ王国の敗北を意味する。
「どうして私の命令に背いたの!? 答えなさい、イザール!」
「どうせ負ける戦いで血を流すのは無意味なこと。俺はただ、部下たちを守るために合理的な判断をしたまでだ。女王陛下こそ、戦のことなど何も知らないくせに、余計な口出しをしないでいただきたい」
「な……んですって?」
王国騎士団を動かす最終的な権利は、この国の最高権力者である女王の手にある。
けれど今、即位したばかりの若い女王より、王国騎士団長の地位にある王配イザールの権力の方が上。誰も彼も、エトワールの命令を聞く気はない。
彼はつかつかとこちらに歩み寄り、エトワールのことを鋭い眼差しで射抜く。エトワールは怯みそうになる心を鼓舞して声を絞り出した。
「さ、さっきから君主に対して随分な態度ね」
「この国にあなたを君主として敬っている者はいない。分からないか? あなたはただの、お飾りの女王ということだ」
彼の言葉に、つきりと胸が痛む。図星だ。何も言い返せない。
エトワールは小さなころから愚王である父親に、『決して目立たず、大人しくしていろ』と教育を施されてきた。だから、何もせずにいることが、敵を作らず安全に国を守っていく方法だと信じて従ってきた。
けれど、何もしなかったせいで、女王になるまで誰からの信頼を得ることもできなかったという訳だ。
一生懸命勉学に励み、礼儀作法を身につけてきたが、それらは宝の持ち腐れ状態。活かす場を与えられないまま、肩書きだけの女王となり、人々には馬鹿にされている。
エトワールの父親の治世は脆弱なもので、国は貧しくなり、ルニス王国との戦争は劣勢一辺倒になっていた。人々のフェレメレン王家への敬意は損なわれていき、王家と人々の支配関係は今や、すっかり覆ってしまったのだ。
(お飾りの女王だなんて……情けなくて笑っちゃうわ)
エトワールが心の中で自嘲したとき、イザールの影に隠れていた女性がおずおずと姿を現す。
「……ポセニア先生」
いぶかしげに眉を寄せ、ポセニアを見下ろす。美しいエトワールの顔に威圧が乗ると迫力が数割増すので、ポセニアは萎縮してイザールの軍服の袖をきゅっと握る。イザールはそんな彼女の肩を抱き寄せ、「大丈夫だ」と宥めた。
イザールは仮にもエトワールの夫なのに、彼女といかにも親しげな様子だ。
「俺は彼女を愛している。彼女は――俺の子を身篭った」
「……っ!」
そのとき、がつん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。
「彼女がいなければ、俺はここにいなかっただろう」
「わたくしは何もしておりませんわ。戦場を生き延びて来られたのは、紛れもなくイザール様や軍の皆様が頑張ったおかげですもの……」
ポセニアは、まるで小鳥がさえずるような愛らしい声で、イザールを擁護した。
ポセニア・ビレッタは今この国で、『聖女』と呼ばれ、もてはやされている。
彼女は類まれな治癒魔法の使い手として、王国騎士団の医療奉仕部隊の一員として長らく戦地に随行してきた。
欠損した手足を修復し、死にかけた者を蘇生させるほどの治癒力を行使できるのは、彼女をおいて他にいない。
そしてポセニアは、エトワールが幼いころから家庭教師をしていた。エトワールは優しい彼女のことが大好きだったし、尊敬していた。
「王宮で快適に暮らしてこられた女王陛下は戦場の凄惨さを知らないだろう。だが、ポセニアはほとばしる血を浴びながら、傷ついた兵士たちを癒し続けた。彼女は聡明で勇敢だ。それに引き換え――あなたはどうだ?」
どこから噂が広まったのかは知らないが、エトワールは世間で、愚かで怠け者で臆病者だと揶揄されている。そして、家庭教師である聖女ポセニアと、何かと比較されてきた。
「どんなに非難を受けても、玉座に座り続けるとは、その図太さにいっそ感心するがな」
「私には……守るべきものがあるだけよ」
先祖たちが必死に守ってきた王位とこの国を守ること。それがエトワールの使命だ。
そしてイザールは、甲斐甲斐しく尽くされるうちに、ポセニアのことを愛するようになったのだという。話を聞くと、五年以上前からふたりは男女の仲だったらしい。
「もともとあなたとの結婚は、先王の命によるものだった。先王が崩御した今、この婚姻関係を維持する理由はない」
そう冷たく言ったイザールは、離婚届をこちらに差し出す。エトワールが震える手でそれを受け取れば、彼は謁見の間を出て行った。
そして、イザールの後ろを付いていくポセニアが去り際に、耳元でそっと囁く。
「イザール様を手に入れましたし、いいことを教えて差し上げますわ。エトワール様が愚かで怠け者で臆病者だと噂を流したのはわたくしですの。今まで先生の引き立て役、ご苦労様でした。――なんてね」
彼らが出ていった扉を見つめながら、茫然自失となる。イザールとの婚約が決まった五年前から、彼を一途に慕い続けていた。彼の妻、そして次期女王にふさわしくあろうと必死に足掻いてきた。
そんな健気な思いや努力は、一瞬にして踏みにじられたのである。
「…………っ」
エトワールのグレーの瞳から、堪えていた涙が伝う。レストナ王国のたった十七歳の新女王はその日――最愛の夫と信頼していた家庭教師に裏切られたのだった。
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