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 精霊の慰霊碑はエスターによって破壊され、無惨な姿になっていた。硬い鈍器か何かで何度も叩きつけたようで、ぼろぼろに崩れ落ちている。

(礼拝を捧げている訳でもないのに……ここに来た途端、身体が四方から締め付けられるように痛い。まるで、精霊たちの怒りが伝わってくるよう)

 隣に立っているエルゼが石の欠片を拾い上げ、険しい表情をしながらそれを見下ろしていた。

「精霊さんたちは、まだここに留まっているの? アントワール王家はもう滅びるのに?」
「……ああ、長い間憎しみに染まっていたため、手放し方も分からなくなっているのだろう」
「…………」

 慰霊碑を破壊した無礼きわまりないエスターへの恨みはともかくとして、もうアントワール王家は終焉を迎える。彼らがこのような場所に留まる理由はないというのに。

(いつまでもこんな場所に留まっていたって仕方がないわ。精霊たちももう自由になっていいはず)

 ノルティマはぎゅっと固く拳を握り締める。

「精霊さんたちにお伝えしたいことがあります」

 慰霊碑の残骸へゆっくりと歩み寄り、口を開く。

「私はこれまで……先祖の報いを十分受けて参りました。あなた方も苦しむだけ苦しんだと思います。今のあなた方はただ、過去に囚われているだけ。もっと、自由になっては? 誰かを呪っても決して――幸せにはなれないのだから」

 ノルティマがそう告げた直後、全身に激しい痛みが走る。
 拳を握る力を強めながら痛みに耐え、エルゼに問いかけた。

「精霊たちはなんと?」
「……お前に何が分かる、と」
「はっ、何も分からないわ。苦しくたって奥歯を噛み締めて耐え忍び、自分の力で乗り越えるしかないんです。人に八つ当たりしたところで解決はしません」

 挑発するような口ぶりに精霊たちが反感を抱いているのか、身体の痛みはますます強くなっていった。

「私の命を奪いたいなら、奪ってみなさい。そんなことをしたって、あなた方は幸せにはなれない。虚しさしか……残らないわ」

 ノルティマは自分の意思で崖から落ちたが、冷たい湖の中に救いなどなかった。あったのは、焦燥と孤独くらい。

 あのときはたまたまエルゼが現れたが、彼が来なければ自分は死んだあとも空っぽのまま、永遠に暗い湖の底をさまよっていただろう。
 幸せになりたければ、一心に願い続けながら生きていくしかないのだ。

 強い苦痛からくらくらと目眩がして、よろめく。

「ノルティマっ!」
「――邪魔しないで!」

 支えようと差し伸べられたエルゼの手を、ぱしんと振り払う。
 普段は穏やかなノルティマの形相に、エルゼは圧倒された。全身の張り裂けそうな痛みを抱えたまま、弱い身体を鼓舞してそこに立っている。

「それ以上減らず口を聞けばお前の命はないと言っている。だからやめろ、ノルティマ」
「そんな風に脅したって何も怖くないわ。怖くない。何も、怖くない――っく」

 指先はかたかたと小刻みに震えているし、喉もからからに乾いている。本当はすごく怖いけれど、それでも臆しはしない。
 この小さな石に閉じこもっているかわいそうな精霊たちを解放するために、母親が子どもを説教するように必死に訴えた。

 苦痛という言葉が生易しいほどの苦痛。息も絶え絶えで、意識も朦朧とする。時折視界が真っ白に塗り潰された。

(私はこんな痛みごときに、こんな不条理に屈したりはしない……)

「はっ……はぁ……、憎しみを抱き締めていても仕方ないの。あなたたちが憎んだアントワール王家はもう滅びたのよ。悲しみも痛みも全部手放して、光へ還りなさい! あなたたちにこんな穢れた場所はふさわしくないわ……!」

 王宮に囚われていたころの自分は知らなかった。世界にはエルゼのような優しい人がいて、生きるに値する幸せなことが満ち溢れていると。
 何もかも諦めてしまう必要など全くないのだ。

「私もあなたも、みんな――自由なのよ!」

 それは、ノルティマの願いだった。涙ながらに叫んだ刹那、ぶわっと辺りに光が離散した。
 あまりの眩しさに思わず目を眇める。

「精霊たちが……泣いている。王朝が終焉を迎えた今、本当はここに留まるのは無意味だと分かっていたと。あなたの言葉が精霊たちをつき動かした。自ら怒りを手放して、消えていく……」
「よかっ……た……」

 光が収まっていくと同時に、安堵して倒れたところをエルゼが抱き留める。脂汗をかいてべったりと頬に張り付いた髪を、彼がきわめて優しい手つきで退けてくれる。

「なんて無茶を……」
「平気よ。だからそんな心配した顔をしないで?」
「心臓が止まってしまうかと思った。精霊たちは人間とは違う。冷酷な一面も持っているんだ」
「でも……私の言葉はちゃんと届いたわ。王室最後の者としての務めをひとつ……果たせたかしら」

 ノルティマは柔らかな笑みを浮かべたあと、そのまま意識を手放した。

(傷ついてきた精霊たちが、幸せになれますように……)



 ◇◇◇



 ノルティマが次に目を覚ましたのは、翌朝になってからだった。
 目を開くと見慣れた天井が視線の先にあった。そして、近くの椅子に腰掛けたエルゼが、寝台に突っ伏したまま眠っている。

(ずっと私の傍にいてくれたのね)

 彼を起こさないように、ゆっくりと半身を起こす。そっと手を伸ばして、エルゼの長く艶やかな髪をひと束すくった。

 エルゼが治癒を施してくれたのか、昨夜の痛みの名残は全くなく、気分も良い。

「ん……ノルティマ?」
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」

 ノルティマが目覚めた気配に気づいたのか、彼は顔を持ち上げた。
 彼が身じろいだのと同時に、ノルティマの手のひらに収まっていた金の毛束がするりと抜けていく。

 まだ眠そうな表情のまま、どこか気の抜けた微笑みを浮かべる彼。

「それより、気分はどう?」
「とても良いわ。あなたが何かしてくれたの?」
「神力を注いだんだ。少しでも楽になったならよかった」
「そう。ありがとう」

 エルゼによると、慰霊碑からは少しずつ精霊たちが消えていっているという。それでもまだ、完全に怒りを手放せずにいる者も。こればかりは時間が解決するのを待つしかないだろう。

 そして、エスターへの怒りについては、アントワール王家への憎しみとは全くの別問題であるため、精霊たちは依然として彼女に苦痛を与え続けているとか。

 ノルティマは上掛けのシーツを握り締め、おずおずと彼に尋ねる。

「アントワール王家への呪いは、王家の滅びとともに実質的に消えたと言えるわ。……でも、あなたの呪いは、どうしたら消える?」
「え……」
「あなたはこれから先も、沢山の大切な人を看取りながらひとり、生きながらえていくの……っ?」

 泣きそうな顔を浮かべると、エルゼは首を横に振った。

「いいや、俺の呪いも解けている。ノルティマのおかげで。きちんと説明しなかったせいで、不安にさせてしまったね」

 そして、ノルティマの細い手に自身の手を重ねる。ずっしりとした暖かな重みを肌で感じていると、彼は説明した。
 八年前、ノルティマの口付けによって呪いが解かれたのだと。そして彼は、幼い少女だったノルティマに恋に落ちたのだと。

「俺の、初恋だ」
「初恋……」

 ノルティマの顔がかあっと赤く染まっていく。彼の金の瞳に射抜かれ、真剣な思いが伝わってきてどきどきと心臓が加速する。

「俺はノルティマに救われた。だから、あなたの幸せのためになんでもしたいと思っている。あなたはこれから、どうしたい?」

 ノルティマは迷わずに即答した。

「今すぐには無理でも……いつかこの国を出て、あなたと一緒に……シャルディア王国へ行きたい。心のまま自由に生きて――幸せになりたい」
「ああ。あなたの願いは必ず叶う。あなたを苦しめるしがらみはもうないのだから」

 そのとき、口をついたようにこんな言葉が出る。

「…………私、生きていてよかった」
「その言葉が、何よりも嬉しいよ。今まで頑張って生きてきてくれて、ありがとう」

 ノルティマを望んでくれる人がいる。もう自分はひとりではないのだと、これまで抱えてきた孤独が癒されていく。
 過去の苦しみを浄化するように、ノルティマの頬に熱いものが零れた。
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