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 エルゼが自身の正体を精霊だと認めた瞬間、辺りは再びどよめく。ざわめきが空気を揺らして、ノルティマの肌まで伝わってきた。
 五百年前に王家が水の精霊国を滅ぼしてから、ベルナール王国にはめっきり精霊がいなくなってしまったはずだった。それが、人の形を成せるほどの偉大な精霊が目の前に現れ、人々は困惑を隠せずにいる。

「待て……。あのお姿は、シャルディア王国の国王陛下じゃないか……!?」
「う、嘘……シャルディア国王は、人ではなかったということ……?」

 貴族の中には、シャルディア王国の国王を見たことがある者もいた。元精霊王とシャルディア王国の国王が結びついたことで、驚愕に驚愕が重なっていく。

 彼はアナスタシアのことを冷めた目で見据えて言った。

「お前がアントワール王家――最後の女王か。しかとその顔、覚えておこう」
「最後……ですって?」

 エルゼはアナスタシアの問いかけを無視して、ヴィンスのもとにつかつかと歩み寄った。圧倒的な力を目の当たりにした彼はすっかり萎縮しており、後ずさっていく。

「ひっ……」

 だがエルゼはそんな彼を逃さず、片手で顎を掴んで、身体ごと軽々と持ち上げた。

「ぁがっ……離せ――」
「なんと浅ましい男か。王太女の失踪理由によって醜聞が広がることを恐れ、無実の少年に全ての罪を着せるとは。それがアントワール王家のやり方か? 昔から卑怯で汚いところは何も変わっていないらしいな」
「く、苦しい……、息が……っ」
「お前たちのせいで、ノルティマがどれだけ苦しんできたか分からないのか? なぜひとりの女性に敬意を払うことができない? なおも彼女を酷使し、また同じことを繰り返す気か……!?」
「ぅ……ぐ、……頼む……離して、くれ……」

 ヴィンスはエルゼに片手で持ち上げられたまま、ばたばたと足を動かしている。その腕からどうにか解放されようと、エルゼの節ばった手に爪を食い込ませた。手に血が滲み、腕を伝ってぽたぽたと床に落ちていくが、エルゼは痛みなど全くお構いなしの様子で。

 彼は眉間に縦じわを刻み、怒りをむき出しにしている。突然の流血沙汰に、どこかから女性の悲鳴が漏れ聞こえた。

(だめ……このままではヴィンス様を殺してしまう……)

 手の力がどんどん強まっていき、ヴィンスの顔が青くなっているのを見て、ノルティマをとうとう止めに入った。

 エルゼの腰にぎゅっと後ろから抱きついて、諭すように告げる。

「――その人が死んでしまうわ。離して差し上げて」
「この男はあなたをあの冷たい湖に追い詰めた。その罪を償わせてやる」
「私は平気よ。もういいの、だから落ち着いて」
「…………」

 怒りで我を忘れて興奮しているのか、触れ合う肌が小刻みに震えていた。けれどノルティマが抱き締めたことで彼の身体からゆっくりと力が抜けていく。

「……あなたがそう言うのなら」

 ノルティマの説得で毒気が抜けたように穏やかになり、乱暴に手を離す。
 床に崩れ落ちたヴィンスは、激しく咳き込みながらこちらを見上げた。

「げほっ、ごほごほ……っ。ありがとう、俺のことを助けてくれたんだな」
「勘違いしないで。このお方の手を汚したくなかっただけ」

 元婚約者からの謝辞を冷たく跳ね除ける。
 そして、ノルティマはエルゼに対して、深々と頭を下げた。

「我が一族のこれまでの非礼の数々、アントワール家を代表して心よりお詫び申し上げます。シャルディア王国が国王陛下――リュシアン・エルゼ・レイナード様」
「あなたが詫びることなど何もない。顔を上げて、ノルティマ」
「寛大なご厚意、ありがたく受け取らせていただきます」

 エルゼがシャルディア王国の国王だと明かされた刹那、広間の観衆の中に紛れていたレディスと、シャルディア王国から連れてきた騎士たちが、エルゼの後ろに恭しく付き従う。

 困惑する人々に対して、ノルティマは玲瓏とした声で言った。

「これより私から、失踪に関する全ての真相をご説明いたします。……恥を忍んで、正直に。私は誰かに誘拐されて消えたのではなく、自身の意思で王宮を出ました。王宮の暮らしに耐えられなくなり――リノール湖に崖の上から身を投げたのです」
「「……!」」

 人々のどよめきを四方から受けながら、ノルティマは淡々と続ける。
 
「私は長きに渡り、政務のほとんどを女王陛下や婚約者から押し付けられ、心身をすり減らして参りました。王配殿下や廷臣たちも私が理不尽を強いられていることを知っていながら、助けてはくれませんでした。私は王太女でありながら王宮内で誰にも尊重されない――奴隷のような存在だったのです」

 ノルティマは続ける。ヴィンスと妹の不貞を知り、ついに我慢ならなくなって手紙を残して王宮を出た。そして、リノール湖に沈んで死にかけていたところをエルゼに助けられたのだ――と。

 今でも湖の凍えるような冷たさが身体に焼き付いていた。
 けれど、湖の中にエルゼが現れ、焦がれ続けていた人の温もりを唇や肌で受け止めたことも、鮮明に覚えている。

「リュシアン陛下が罪人? まさか。私はこのお方に命を救われただけではなく、心身が回復するまで保護していただいたのです」

 そして、ヴィンスを見据える。

「それなのに、あろうことかリュシアン陛下のお話を聞くこともせずに拘束、拷問……濡れ衣を着せて処刑とは……。大それたことをしでかしてくれたわね」
「違う、俺は、何も知らなかっただけだ……!」
「知らなかったでは済まされないわ。そこに至る経緯がどうであれ、ひどい仕打ちをしたのは純然たる事実。シャルディア王国が我が国に攻め入る――大義名分を与えたのよ」
「…………っ」

 シャルディア王国は、軍部もきわめて優秀で、度重なる侵略戦争で領土を拡大し、繁栄を築いてきた。現在は領土拡大政策が行われておらず平和な時代が続いているが、それでもシャルディア王国が周辺国にとって脅威であることに変わりはなかった。

 ここでエルゼがアナスタシアに対して宣戦布告したなら、戦が始まる。その事実に、辺りに今日一番の緊張した空気が走り、全員がエルゼの次の発言に注目している。

 エルゼはゆっくりと、薄く形の整った唇を開く。

「そう怯えなくてもいい。こちらのふたつの条件に従うのなら、今回の件は全て――水に流してやろう」
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