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 呼吸ごと飲み込むように唇を押し当て、神力を送ることを強く念じる。エルゼの方からは、困惑とともに鼻からくぐもった吐息が漏れた。

(お願い、どうか元の姿に戻って……)

 神力の供給方法は、粘膜同士の接触。

 絵本でそれを見たときは、恥ずかしくて自分にはとてもできないと思ったものだが、それで彼を本来の姿に戻せるというのならやぶさかではない。

 唇に触れる肌とは違う感触に、心臓が早鐘を打つように加速していき、頭の先までのぼせ上がるような心地になる。次第にくらくらと目眩がしてきて、立っているのがやっとだった。

 すると、辺りが光り始め、ノルティマはその眩しさに思わず目をぎゅっと閉じた。
 エルゼは名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、甘ったるい声音で囁く。
 
「ノルティマ。もう眩しくないよ、目を開けてごらん」

 瞼をそっと持ち上げ、はっと息を飲む。

「……!」

 ノルティマの目の前には、これまでの人生で見たことがないほどとりわけ美しい――成人した男の姿があった。
 彫刻のような輪郭に、完璧なまでに整ったパーツがバランスよく配置されている。凛とした眉、切れ長の瞳、筋の通った鼻梁、薄い唇……。
 まるで、絵画の中から飛び出してきたような、精巧で妖艶な男はエルゼの本来の姿である。

 瞳の色と、長い髪の色は、エルゼと同じだ。そして、不敵に口角を持ち上げた掴みどころのない表情も、少年だったころと何も変わらない。

「エルゼ……なの?」
「ああ、そうだよ。――水アクア」

 彼が詠唱すると、貯水池の水がひとりでに宙に浮き、エルゼの両腕を拘束する鎖にまとわりついていく。そして、鎖はばきばきと鈍い音を立てながらちぎれて、エルゼのたくましい腕を自由にした。

「あなたにひどい目に遭わせてごめんなさい。もはや、謝罪のしようもないわ。他国の王族を拷問にかけるなんて……国際問題ね」
「別に俺は、ベルナール王国の支配に興味はない。だがこれで、あなたを自由にするための口実ができた」
「それはどういう――きゃあっ」

 その言葉の意図を聞くよりも先に、彼の腕に軽々と横抱きにされるノルティマ。びっくりして彼の腕の中でじたばたと暴れる。

「お、下ろしてエルゼ。私、重いから……っ」
「羽みたいに軽いよ。これ以上身体を冷やしてほしくないんだ。だから俺に身を委ねていて」
「でも……」
「助けてもらうばかりでは忍びないんだ。あなたを運ぶことを俺に許して?」

 あどけない少年のようにお強請りをしてくる彼。ノルティマは彼の懇願にめっぽう弱い。少年のときはただかわいいだけだったが、大人の姿になるとそこに色気が同居する。

 頑なな意思を感じ取って、ノルティマは大人しくすることにした。

 大人の姿のエルゼは筋肉がしっかりあって、ノルティマを抱え上げるのも余裕だ。彼はそのまま歩いて貯水池から上がり、ゆっくりと床にノルティマを下ろした。

 水に浸かっていたために彼の肌に白のシャツがべったりと張り付いており、透けた生地が鍛え抜かれた筋肉をありありと浮かび上がらせている。

(どうしよう。目のやり場に困るわ……)

 ノルティマの目にはあまりにも刺激的な肉体美だった。どこに視線を置いたらいいか分からなくなり、いたたまれなさから目をあちこちに泳がせる。

「すまない。俺のせいで濡れてしまった」

 エルゼは自分の濡れた長い髪を絞り、こちらを見下ろしながら、申し訳なさそうに詫びる。
 これまでは見下ろす側だったのに、今ではすっかり視点が逆転して、ノルティマが彼のことを見上げる側となった。
 見慣れない美しい男を前に、ノルティマはどぎまぎして目が合わせられなくなる。

「気にしなくていいわ、そんなこと」
「どうして目を逸らすの?」
「それは……」
「もしかして、この見た目が気に入らなかった?」

 違う、むしろその逆だ。こちらの顔を覗き込むようにして、意地悪に口の端を持ち上げる彼。きっとノルティマが照れていることなど分かり切って聞いているのだろう。
 少年だったころと同じで、ノルティマをからかうのが楽しいらしい。

「気に入るとか気に入らないとか、そういう問題ではないでしょう。それよりこれからどうするの? このまま国を出る?」
「いいや、例のパーティーでこのまま参加し、アントワール王家を――断罪する」
「……!」
「長らく続いた精霊の敵である王朝に、この手で終止符を打つ」
「……精霊たちにひどい仕打ちをした王家に責任があるわ。あなたがそうしたいのなら私は止めない。やりたいようにやればいいと思う」
「ああ、そうさせてもらう。それから、ノルティマ」

 名を呼ばれた顔を上げると、真剣な顔したエルゼが視線を絡めてくる。

「物事は表裏一体だ。全てのことに良い面悪い面、同じくらいの大きさで存在するんだ。……呪いもまた、裏を返せば祝福になる」
「祝福……?」

 エルゼはにこりと微笑んで言った。

「アントワール王家の呪いは、新たな王朝の幕開けへの祝福になるということだ。そして、あなたは――自由の身となる。ノルティマ、アントワール家の問題にここで、けりをつけよう」
「……?」
「あなたを追い詰めた王家に――決して容赦はしない。俺を拷問にかけた事実、都合よく利用させてもらうとしよう」

 もしアントワール王家が終焉を迎えれば、新しい王が生まれる。精霊が恨む一族が失脚したなら、女だけではなく、男が王に即位できる国になるはず。この国に再び父権制の王権が誕生するかもしれない。

(自由の身……)

 そしてノルティマは、次期女王というしがらみから解放される――。

「もしかして、王家への交渉材料にするためにわざと捕まったの……?」
「――さぁ、内緒」

 人間離れした美貌を持つ元精霊王は、不敵な笑みを浮かべる。
 アントワール王家の治世が終われば、精霊たちが住まう国になっていくのかもしれない。
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