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「俺はこのまま国を出て、母国に向かうつもりだ。このあとお姉さんはどうするの? この荷馬車は国境に行く前、いくつか街に立ち寄るみたいだけど、行く当てはある?」
「……」

 ノルティマはぎゅっとスカートを握り締める。
 人通りのある街に行って、ひとたび姿を見られようものなら、すぐに失踪した王太女だと正体を見破られ、王宮に連れ戻されてしまうだろう。

 彼は異国人だから、ノルティマの名前を聞いてもぴんと来ていないようだが、ベルナール王国の民は、次期女王の顔を知っている者も多いのだ。

 でももう……王宮には帰りたくない。

「行く当ては……ないわ。家出をしてきたの」

 年下の少年に助けを求めるように、情けなく眉をひそめ、しおらしげに打ち明けると、彼は笑顔を浮かべて言った。

「――なら、俺と一緒に来る?」
「え……?」

 予想外の少年の提案に、目を瞬かせる。
 彼は飄々とした様子で続けた。エルゼはこのベルナール王国のふたつ国を越えた先にある大国――シャルディア王国出身だという。シャルディア王国はベルナール王国よりもずっと豊かで、国力が大きいという印象がある。

「シャルディア王国は移民の受け入れに寛大で、異国人の働き先も見つかりやすい。治安も安定しているから、お姉さんも安心して生活していけるはずだよ」

 どうせ、この国にいることはできない。奴隷のように酷使される日々に戻るくらいならいっそ、あのまま王太女は湖で死んだことにでもして、一からやり直してみたい。

「行きたい……! 私もシャルディア王国へ行くわ……!」
「ふ。分かった、いいよ。あなたがいてくれたら、長い旅でも退屈しなそうだ」

 エルゼこちらに手を差し伸べて、口の端を持ち上げる。

「それじゃあ、よろしくね。お姉さん」
「ええ。こちらこそ」

 これまでエスターや女王から、姉として扱われることに辟易してきたが、彼に『お姉さん』と呼ばれるのは不思議と嫌ではなかった。
 きっとこれも、何かの縁なのだろう。そしてふたりは、握手を交わし笑い合った。
 手紙を残して消えた王女と、謎の少年の不思議な旅が今始まる……。

(生きていたらまたどこかで、助けてくれたあの方にも会えるわよね。きっと)

 どこからともなく颯爽と現れて、水底に沈んでいくノルティマを救い上げてくれた男性は、ノルティマを岸辺に運んだきり去ってしまったのだろうか。

 ノルティマに息吹を吹き込んでくれた、唇の感触がまだ残っている。肌とも粘膜とも違う、温かな感触が確かにノルティマの唇に降ってきたのだった。
 あのときは生きるか死ぬかの瀬戸際で何も考えられなかったけれど、救命措置とはいえ――初めての口付けだった。

(私の……ファーストキス)

 耳の先まで熱がのぼっていくのを感じながら、唇に手を伸ばしていると、エルゼが荷台の外に少し身を乗り出しながら、服をぎゅっと絞り始めた。ぽたぽたと水が地面に落ちていくのを眺めながら、小首を傾げる。
 
(あら……?)

 倒れていたノルティマを運んだだけなら、彼までずぶ濡れになることはない。それなのになぜか、湖に落ちた自分だけではなく、エルゼの服も同じくらいに濡れていた。

「どうして濡れているの?」
「うーん、そうだね。……さっき、通り雨が降ったんだよ」

 ほんの少し視線を泳がせたあとで、掴みどころのない笑顔を浮かべて答えたエルゼ。けれど、地面が湿っていたような形跡もなく、ノルティマは頭に疑問符を浮かべるのだった。
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