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 王宮を発つ前、最後に立ち寄ったのは、敷地の中央に佇む精霊の慰霊碑だった。慰霊碑は、日干しれんがを積み上げた分厚い壁で何重にも覆い隠されている。

 アントワール王家は五百年前、王都にあるリノール湖の下に広がる、『水の精霊国』と呼ばれる国を滅ぼした。

 現代もベルナール王国以外の国では精霊信仰があり、精霊には不思議な力で、病を治し、乾いた土地を潤し、濁水を清め、災いを浄化すると言われている。 精霊たちを畏れ敬うことで、人々はその恩恵を享受し、豊かな生活を送ってきた。

 かつてのアントワール王家は、精霊たちの神秘的な力を我がものにしようと画策し、暴力で支配しようとしたものの、自由を望む精霊たちは懸命に抵抗した。そして王家は、思い通りにならなかった報復として、湖を埋め立て、国そのものを滅ぼしたのである。
 住処を失った精霊たちの大半が滅び、生き残りはどこかへ移り住んでいったという。

 精霊たちにはすっかり愛想を尽かされた今、世界の中でこの国にのみ、精霊が存在していない。

 ノルティマは石造りの慰霊碑の前で腰を下ろし、手を組んで、ゆっくりと唇を開く。

「精霊さんたち……申し訳ございません、我が一族が本当に悪いことをしました。心からお詫び申し上げます。ですからどうか、お怒りを鎮めてくださ――っく」

 精霊の国を滅ぼしたのと同時期に、アントワール王家には一切王子が生まれなくなった。そのことを他国から、『精霊の呪い』と呼ばれていることで有名だが、実際には呪いではなく、近親婚による弊害だった。
 そして、長らく秘密のベールに覆われてきた呪いが――別にあった。

「うっ……ぁ……ぁあっ――」

 祈りを捧げていたノルティマは突然、苦しみ出す。

 その苦しみ方は並々ならないもので、芝生の上に両手をつき、額に脂汗を滲ませ、くぐもった呻き声や悲鳴を漏らす。
 全身に四方から引き裂かれるような痛みが襲い、息をすることさえままならない。

(どうか怒りをお収めください。私の先祖がひどいことをして、申し訳ございません。お願い、許して……)

 とうとう声を出すこともできなくなり、心の中で謝罪と懇願の言葉を唱え続け、七転八倒の苦痛に苛まれること三十分。
 ようやく身体の痛みが引いていき、疲弊しきったまま芝生の上にくたりと倒れ込み、はぁと息を吐く。

 故郷を奪われた精霊たちは、よほど王家の者が憎いのだろう。

 毎日欠かさず王家の純粋な血を引く女が、祈りを捧げなければ、ベルナール王国には雨が降らない。そして――アントワール王家が王位を維持する限り続く。それこそが、精霊たちの報復だった。

「はぁっ……はっ……」

 喉の奥を震わせながら俯いているいたいけな娘の肩ひとつに、このベルナール王国の命運が委ねられているということだ。彼女が祈りをやめれば、この国に雨は降らなくなり、大地は枯れていく。

 礼拝を始めたのは物心がついてまもないころで、女王アナスタシアはノルティマに言い聞かせた。

『いい? 本当の精霊の呪いのことは決して誰にも知られてはならないわよ。この呪いはアントワール王家の弱点。知られたら、足をすくわれることになるの』
『痛いっ、痛いわ、お母様……っ。耐えられない……っ』
『逃げてはだめよ! ノルティマ! 王権を維持していくために、雨を絶やしてはならないわ……!』

 ノルティマに引き継ぐ前までアナスタシアが礼拝をしてきたのだが、彼女も先代たちから、王家の権力を守るためには祈りを捧げもなくてはならない、と刷り込まれてきたのである。

 アナスタシアは自分の立場を失うことをひどく恐れるきらいがあった。

『ノルティマ! 立ちなさい、まだ礼拝は終わっていないわ。あなたが王家直系の女である限り、この使命からは逃れられないのよ!』
『は、い……お母様』

 少女だったノルティマの中にも、この不条理な祈りの重要性が刷り込れていく。

 昔は精霊術師なる存在がいて精霊たちと意思疎通を図ることができたが、呪いのことを暴かれないようにするために王家が精霊術師を弾圧してきた。

 今は精霊に精通する者などおらず、精霊たちが何を思っているのか分からないまま、一心に祈りを捧げることしかできなくなった。

 この呪いのことを知っているのは王族のごく一部の者だけで、公にはされていない。エスターは、精神的な不安が体調に影響を与えるかもしれないという理由で、知らされていない。

 そして、毎日の祈りを祈りの義務を貸せられるのは、代々王太女の役割として決まっている。

 呪いの効果で、祈りを捧げている間、肉体にのたうち回るような苦痛が現れる。だから、女王で政務に支障が出るため、王太女が代わりにその責任を果たす慣わしであった。もっともアナスタシアは、呪いの辛さを分かっていながら政務さえノルティマに押し付けてきたのだけれど。

 ノルティがいなくなればその役割はおのずとエスターに移ることになる。今の代で、アントワール王家に王女はふたりしかいないから。

 これまで、本当の精霊の呪いを一族以外に知られないために、近親婚が繰り返され、女しか生まれなくなった。エスターが生まれながら病弱だったのも、この近親婚による弊害であり、アントワール王家にはよくあることだ。

 痛めつけられていた身体でよろよろと立ち上がり、慰霊碑を見据えた。

「私がここで祈りを捧げるのは今日で――最後です。明日からはきっと、妹のここに来るでしょう」

(この祈りの時間は、とても辛いものだったけど、もう今日でおしまい。国の水源と王権を守るために私ひとりが犠牲になるなんて……もううんざりよ。もしもエスターがこの礼拝を拒めば……この国はどうなるのかしらね)

 ノルティマはフードを深く被り、そのまま王宮を後にした。
 こうして、王宮から王太女が忽然と姿を消したのである。
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