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しおりを挟む「――遅かったな」
「あなたは……――変態さん!」
「そんな呼び方はやめろ。俺はジョシュア・ダニエルソンだ。王国騎士団第一師団で師団長をしている」
「しだんちょう……」
彼は、夜会の広間で突然腕を掴んで話しかけてきた男だった。
ダニエルソンという姓は、7年間世間から隔絶されていたルセーネですら知っている。広大な領地を治める公爵家で、ノーマイゼ王国でも有数の上流貴族だ。そして、ジョシュアは若くして公爵家の当主になり、聖騎士としての才能にも恵まれている。
そんな格上の相手の急所を蹴り上げ、失神させてしまったという訳だ。不敬罪で訴えられて、断頭台送りになってもおかしくはない。悪い想像が脳内を駆け巡り、喉の奥からひゅっと音が漏れる。
「な、なんですか……。私のことを引っ捕まえて自警団に連れて行こうとでも……?」
最初に蹴られる原因を作ったのはジョシュアの方なのに、こんなところで待ち構えたりして粘着質な人だと内心で抗議する。
ルセーネが警戒しながら、一歩二歩と後ずさると、彼は深く頭を下げた。
「――すまなかった」
「え……」
「動揺していたとはいえ、女性に勝手に触れたのは礼儀に欠いていた。無礼を働いたこと、許してほしい。反省している」
2人には相当な身分差があり、少なくとも彼はルセーネに許しを乞い頭を下げるようなことをする地位ではない。それにも関わらず、ジョシュアはこちらに誠心誠意謝罪している。
まさか頭を下げられるとは思っておらず、当惑するルセーネ。
「あ、あの……っ、どうぞ顔を上げてください。私こそ、気絶させておいて逃げ出してりしてすみませんでした」
「いや、君が謝る必要はない」
大勢の人の前で失神させられて恥をかいたのにも関わらず、彼は自分に非があったの一点張りだ。ルセーネはその謝罪を受け入れることにした。わざわざ謝るために外で待っていたらしい。
「体調というか……気分はいかがですか?」
じいっとジョシュアの股間の辺りを凝視しながら聞くと、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「どこを見ているんだ」
「わっ、すすすすすみません!」
慌てて後退し、謝罪を口にする。ルセーネの頬が赤くなっているのを見て、彼は小さくため息を吐いた。
「まぁいい。それより君はどうしてずぶ濡れなんだ? 屋敷で何があった?」
指摘された通り、ルセーネは全身びしょ濡れだった。貧乏なルセーネがなけなしのお金で買った一張羅なのに。
退魔師の仕事をしたらこの屋敷の夫人の不興を買ったのだと彼に説明する。
「あと少しで呪いを焼き切ることができたかもしれないんです。それなのにこの仕打ち、ひどいと思いませんか?」
「君、呪いを小さくことが……できるのか!?」
「え……まぁ、はい」
話を聞いたジョシュアは、ルセーネが水をかけられ追い出されたことよりも、黒い痣を焼いて小さくしたことに驚愕していて。
「君はどこの所属の退魔師だ?」
「無所属です」
「それはよくないな」
この世界には魔物を退治する退魔師という職業がある。更にその中でも優秀な者は聖騎士となる。聖騎士は危険が伴うものの花形の職業と認識されている。
王家直属の王国騎士団第一師団は選りすぐりのエリートだが、その他にも民営の退魔師組織がいくつか存在する。
しかしルセーネはどこにも所属せずに、塔の中にいたころ、他にやることもなくたまたま磨き上げた神力の炎の技術だけで、退魔師の個人依頼を受けていたのだった。
「いいか? この国には、呪いを焼き切ることができるような退魔師は一人として存在しないんだ。君の力は強大で……とても危険なものだ」
彼はルセーネの両肩に手を置き、切羽詰まったような表情で迫った。
「そこで、王国騎士団で君をぜひ雇いたい。俺には第一師団の人事権があるから、君のことも受け入れよう」
「え、ええっ!? こんな、剣も握れないど素人が聖騎士に!?」
「君が操っていた緑色の炎……あれが何か、何も知らないのか?」
ルセーネは知らないと首を横に振る。
「君の力はそもそも、神力ではなく――魔力という。あれは魔炎と言って、魔力によって生み出されるもの。魔物を倒す際、退魔師も聖騎士も神力をまとわせた剣を使う。だが、魔力を持つ者は――魔術師と呼ばれる。魔術師は数百年前に滅びてけら、100年に一度しか現れない伝説上の存在と言われている。恐らく君は、100年ぶりに誕生した魔術師だ」
「100年ぶり!?」
「退魔業界からしたら君は金の成る木。喉から手が出るくらいに欲しい力だろう。今のところ君の力の価値に気づいている者がいないのは幸いだった。ここまで誰にも攫われずに平和に生きて来られたのは奇跡のみたいなものだ」
「…………」
今まで誰にも攫われずに……というが、ルセーネは7年間俗世間から隔絶されており、その間に魔炎の技術を叩き上げた。
そこで納得した。ルセーネが塔から出たときに龍が強大化していたのは、魔物の養分となる魔力を、注ぎ続けていたからなのだと。最後に見た緑色の炎はまさに、ルセーネの魔力の証しだ。
「答えはすぐでなくていい。だから、じっくり考えておいてくれ」
「分かり……ました」
ジョシュアはルセーネに名刺を握らせると、今度はハンカチを取り出した。
「わっ……」
「濡れたままにしておくと、風邪引くぞ」
優しい手つきで濡れた髪を拭いてくれる彼。誰かに髪を拭いてもらうなんて、小さな子どものとき祖父にしてもらった以来。
(どきどきする……なんだろう、この気持ち)
胸の奥がこそばゆくて、気恥しい。こんな気持ちは初めてだった。
「君はなぜ魔物を倒す仕事をしている?」
「誰かのお役に立ちたくて……。私、沢山の人と関わって、必要とされたいんです……!」
ひとりぼっちは、とても寂しいから。という言葉は喉元で留める。
暗闇にいた7年間、誰と関わる訳でもなく、自分の目の前には孤独だけが横たわっていた。寂しくて、悲しくて、空っぽだった。ルセーネは空っぽだった心を満たすために、何かしたかったのだ。
そして、生きていていいんだよという肯定が欲しい。
「君は……」
ルセーネが力強く伝えると、ジョシュアは瞳の奥を揺らした。
(それに沢山の人と関わる仕事をしていたら、あの人にも会えるかもしれないから)
かつて鳥籠から放ってくれた外套の男を思い出す。顔も知らない、黒色の髪をはためかせた恩人のことを。
ルセーネの物憂げな様子を見た彼は、ぽんと頭を撫でた。
「君の力は、多くの人の役に立つ」
「本当……?」
「本当だ」
ジョシュアは表情がほとんど動かない人だったが、そのときは少しだけ目元が和らいだように見えた。そして彼の長い黒色の髪が、月明かりに照らされて繊細な輝きを放つ。
(あの人と同じ……長い黒髪と、優しい声……)
子ども扱いされているが、頭を撫でる手は暖かくて心地よかった。
濡れた髪や身体は乾いたが、身体が冷えてしまったのか鼻がむずむずする。
「――くしゅんっ」
うう、と身震いした拍子に、ルセーネのポケットからブレスレットが落ちる。
ルセーネがブレスレットを拾い上げるよりも先に、ジョシュアが見つけて言った。
「そのブレスレットはどうした?」
「これはその……拾ったもので」
「そうか。それは俺の持ち物だ。随分前にどこかで落として、見つからないと諦めていたんだが、お前が拾ってくれたんだな。一体どこで?」
「!?!?」
大きく目を見開くルセーネ。
(嘘っ、てことは、あのとき私を塔から助けてくれたのは……この人!?)
塔にいたときのルセーネはかなり痩せて薄汚れていたから、こうして再会しても彼は気づけないのだろう。
ルセーネの場合は、彼がフードを深く被っていたのでそもそも顔がよく見えていなかった。
しかし、自分が生贄だと打ち明ける勇気はすぐには出ず、動揺したままブレスレットを返すことしかできなかった。
「あの……私、王国騎士団に入ります!」
「そ、そんなにすぐ決めていいのか? もっとじっくり考えた方が……」
「いいえ! ぜひ入りたいですお願いします! 私はジョシュア様と一緒に働きたいです――へくしっ!」
「身体が冷えたんだな。分かったからとりあえず今日は早く帰って休むといい。歩いて帰るのか? 家は?」
「ふたつ隣の街です」
「遠いな。ひとりでは危ない。送っていく」
結局ルセーネは、ジョシュアの言葉に甘えて馬車で家まで送ってもらった。
冷えないように上着まで貸してくれて、最初の印象とは違ってとにかく紳士的な男だった。
――ずっと、誰かに必要とされたかった。何者かになりたかった。その願いようやく今、動き出そうとしている。
(私……剣は握れなくても、沢山の人に必要とされるような聖騎士になるんだ……!)
そしてここに、前代未聞の剣を扱えない聖騎士が誕生したのである。
◇◇◇
ルセーネを家まで送ったあとの帰り道。ジョシュアはおもむろに夜の空を見上げた。小さな星々が瞬いている。
(生きていたんだな。ルセーネという名前だったのか、君は)
2年前、辺境の村で生贄として捕らえられていた少女を気まぐれに助けたことはよく覚えている。彼女の顔も。
生贄を捧げて魔物を鎮める風習は、特に田舎の集落などでは未だに強く根付いている。孤児や罪人が選ばれることが多く、塔から逃げ出しても彼女が生き続けられる保証はなかった。
だが、なんと逞しく、しなやかなことか。
ルセーネは気の毒な少女だったが、ひたむきに生きようとしていた。誰かのために役に立とうと、前に進もうとしている。
公爵家の嫡男として生まれ、容姿にも能力にも恵まれて、何不自由なく生きてきたジョシュアだが、ただ毎日を淡々と無難に過ごすだけで、希望を抱いたりはしなかった。
何も持たないいたいけなルセーネが、ジョシュアにはとても眩しく見えた。
(なんだ、この気持ちは……)
胸がざわめき、暖かい感覚が広がる。今まで自分から何かを強く望んだことなどなかったのに、ルセーネの力になりたいと思う自分がいた。
塔の上の歌声を聞いたときから、なぜか彼女のことを放っておけない。これはきっと、不思議な縁の巡り合わせなのだろう。
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