魔眼

藤原 秋

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情動

04

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 クラウスの手当のおかげで、わたしの足の傷は日が沈む頃にはほとんど痛まなくなっていた。日常動作的にはもう問題ないと言っていい。

 彼の所見では明日にはほぼ痛みなく歩けるようになるだろうとのことだったけど、わたしは他の人に比べて回復力が高いのか、この分だと明日には完治しそうな勢いだった。

 あれから宿に戻った後、ドルクが傷の治療を申し出てくれたけど、わたしはそれを丁重に断った。だって場所が場所だし、それに―――彼にまた触れられると、制御の利かない衝動に押し流されてしまいそうで怖かったんだ。

 ダハールは観光地ということもあり街中を循環している馬車があって、幸いなことに宿泊している宿の近くに停留所があったから、あまり歩かずにクラウスの救護所があるビーチまで向かうことが出来た。ただ、ビーチから救護所までの距離が結構あるのと、その間が砂浜で足場が悪いこともあり、わたしはそこだけドルクに背負ってもらうことになった。

 実は、昼間一度宿へ戻った時もその間を彼に背負ってもらったんだ。初めはわたしを背負おうとするドルクの手を拒んでいたんだけど、

「せっかく手当してもらった傷が悪化したらどうするんですか。あなたを歩かせていくのでは時間もかかりますし、あなたも痛い思いをする、それを見ているオレも辛い。いいことがひとつもないんですよ。どうしても歩いていくというなら治療させて下さい。背負われるか、治療して歩いて行くか。この二択です」

 それ以外は頑として受け付けないという彼の姿勢に負けて、わたしは背負われる方を選んだのだった。

 だって、どう考えてもドルクの言っていることの方が正論だもんな。敵わない。

 彼に背負われてほのかに夕焼けの色彩が残る水平線を望みながら、静かに響く潮騒の音に耳を傾ける。昼間とは景色を変えた蒼闇の海も綺麗だと思った。海風が吹き抜けて、日中太陽に照りつけられた全てのものの熱を優しく取り除くようになでていく。

 ドルクが歩く度に伝わってくる規則的な振動が心地いい。目の前にある彼の後頭部を見つめながら、わたしは一人高鳴る胸の鼓動を覚え、頬を染めた。

 こんなふうにドルクに背負われるのはラナウイ以来だ。あの頃から大きく変化した自分の気持ちが、今のこの状況をあの時とは全く別のものに変えている。

 わたしのものより広い肩幅。頑強な骨組み。ドルクとわたしは同じくらいの身長だけど、筋肉の質も骨格も違って、その硬い質感が、男としての彼を意識させる。

 昼間目にしたドルクの半裸が脳裏にちらついて、とくとくとくとく、心臓が落ち着かなくなった。

 ああ、ヤバいなぁ……わたし、今、スゴく女の子の顔をしている。

 強烈に、そう意識した。

 それは、いつもの日常とかけ離れた環境のせいなのか。

 彼の体温を間近に感じる、この状況のせいなのか。

 人と会う前だというのに、感情が溢れてきて、胸が熱くなる。彼に気持ちを伝えたくてたまらない衝動に駆られた。

 今なら、言えるかな。

 この首に腕を回して、さらりとしたこげ茶色の髪に頬を押し付けて、「好きだ」って―――。

 そう、言えるかな。

 今なら―――わたしは、ドルクのことが好きだって―――。

 告白するのって、多分勢いも大事なんじゃないかな。

 それに彼の顔が見えない今の方が気持ちを伝えやすいかもしれないと思えた。

 よ、よし! 言うぞ……今度こそっ……!

 唐突にそう決意を固めたわたしはごくりと息を飲んで―――ドルクの方に少し身を乗り出すようにしながら腕を伸ばし、彼の首元に自分のそれを緩く巻きつけるようにした。

 ―――うわっ……や、やってしまった! もう後戻り出来ないぞっ……!

 心臓の拍動がものすごいことになる。こんな緊張感を味わうのは初めてだった。

「……?」

 不自然なわたしの動きに何事かとこちらを振り返ろうとするドルクの側頭部に頬を押し付けるようにしてその動きを止め、わたしは緊張で震える唇を開いた。

「ドルク……」
「フレイア?」
「ドルク……あのっ、あのなっ……!」

 自分の鼓動の音が、ひどくうるさい。まるで全身が心臓になってしまったかのように、どくどくどくどく、もの凄い音を立てて響く。

 ―――言うんだ! 伝えるんだ!

 頑張れ、わたし!

「好―――」

 ぎゅっと目をつぶってなけなしの勇気を振り絞り、わたしが核心部分を伝えようとした、その時だった。

「あっ! ごめんなさーいっ」

 甲高い謝罪の声と共に、とんっと軽い衝撃が伝わった。

 こんな時間、こんな場所で、いったい何を急いでいたんだろうか。薄闇の中、後ろから走ってきた女の子が背負った大きなカゴがわたし達にぶつかってしまったのだ。

 ドルクがそれでよろけるようなことはなかったけれど、いっぱいいっぱいだったわたしの気力を削ぐには充分な衝撃だった。

 ―――ああ、もう、何でこのタイミング……。

 走り去る女の子の背を見送りながら人知れず溜め息をついたわたしを振り返り、ドルクが話の続きを促した。

「フレイア? 何ですか?」

 うう―――もう今更、言えない。溜め込んだ気力を全部使い果たしてしまった。

「……いや。……つ、疲れたら言ってねって言おうと思っただけ」

 苦し紛れに取り繕うわたしを彼は微妙な表情で見やった。

「……。あなた一人を背負うくらいで疲れませんよ」

 日頃から鍛え上げている彼のことだ、それはそうだろうな。ごまかし方としては苦しかったか。でも言ってしまった以上、それで通すしかない。

「今日は世話になりっ放しだから、ちょっと気を遣ったんだよ……」

 瞳を逸らしてごにょごにょ言ってるわたしをドルクはしばらく無言で見つめていたけれど、ややして前に向き直ると再び先を歩き始めた。

「そんな気は遣わなくていいですから。もう少し甘えて下さい」
「え?」
「今日はずっと何を言い淀んでいるのか分かりませんけど……そんなに言いにくいことなんですか?」

 うっ―――バレてた!

 見透かされていたことに思わず動揺してしまったけれど、考えてみれば勘のいいドルクがわたしの不自然な態度に気が付かないわけがないか。さっきのごまかし方は自分でも無理があると思ったし……。

 そう納得しつつ、どう声を返したらいいものかと答えに窮するわたしに彼はこう続けた。

「あなたの準備が整うまで待ちますけど……近いうちにちゃんと言って下さいね。この状態のままで放っておかれるのは、オレとしても落ち着かないので」

 うう……それはそうですよね、ゴメンナサイ。

「分かった……ゴメン。ちゃんと、近いうちに言うから……」

 うつむいてそう答えるにとどめたわたしは背負われた状態ということもあり、前方の薄闇を見つめるドルクの口元が少しだけほころんだことに気が付くことがなかった。







 日が落ちた海水浴場は昼間の賑わいが嘘のように閑散として、寄せては返す波の音だけが夜の砂浜に静かに響いている。

 暗闇の中ポツンと明りの灯るクラウスの救護所へ着くと、中には彼と一人の少女がいた。

 あっ!? この……!?

 現れたわたし達を見やり、少女の方も驚いたように大きな瞳を丸くした。

「えっ!? 先生が言ってたのって、この人達!?」

 そう、その少女はついさっき、わたし達にぶつかったあの女の子だったのだ。

「二人を知っているのかい? アデラ」

 クラウスの問いかけにアデラと呼ばれた少女が小さく頷く。

「さっきここへ来る途中、この人達にぶつかっちゃったの。まさか先生が言ってた人達だとは思わなかった……あの、さっきはごめんなさい、ここへ来るのに急いでて。あたし、アデライーデ。先生にはアデラって呼ばれています」

 そう自己紹介してくれたアデライーデは艶やかな黒髪を頭の上でひとつのお団子にまとめた利発そうな少女だった。健康的な小麦色の肌をして、大きな紫色の瞳が意志の強そうな輝きを宿しキラキラしている。彼女は裾にフリルがあしらわれた水色のノースリーブのワンピースに腰巻のケースを着けていて、そこからはロッドらしきものが覗いていた。

 え? この術士メイジなのか?

 わたし達の視線を察したようにアデライーデは微笑んで、こう説明をしてくれた。

「あたし、術士メイジの卵なんです。今はまだ14歳で加入資格を満たさないけど、将来はギルドに志願して傭兵になるつもり」

 へえ……二年後には同業者になっているかもしれないのか。そんながクラウスとはどういう関係なんだろう?

「フレイア、ドルク君、来てくれてありがとう。どうぞ二人共座って。怪我をしているのにこちらのわがままを聞いてもらってすまないね。アデラ、この二人は君の先輩にあたるフレイアとドルク君。フレイアは僕と旧知の仲で、ドルク君はフレイアのパートナーだそうだ」

 わたし達に椅子を勧めるクラウスを仰ぎ、アデライーデは瞳を瞬かせた。

「あたしの先輩、って―――この人達はギルドの傭兵ってこと?」
「そうだよ。フレイアは剣士、腰の剣を見る限りはドルク君も剣士かな?」
「ええ……そうです」

 クラウスの言葉を肯定するドルクとその隣のわたしを見やり、アデライーデは戸惑った表情を浮かべクラウスの白衣をつんつんと引っ張った。

「ねぇ先生、ギルドの傭兵の人達なのに、大丈夫なの?」

 近い将来ギルドの傭兵になりたいと言っていたのに、ギルドの傭兵を目の前にして大丈夫なのかと尋ねる理由は何なんだろう?

 顔を見合わせるわたし達の前でクラウスはひとつ苦笑してアデライーデを言い含めた。

「彼女達はダハタに拠点を置いていないし、フレイアは真っ直ぐで不正を許さないひとだよ。僕は彼女のことをよく知っているからそこは保証出来るし、そんな彼女が信頼して組んでいるドルク君も信用に足る人物なんだろうと思う。大丈夫だよ」
「うーん、先生がそこまで言うんなら……」

 アデライーデはわたし達に視線を戻し、それから覚悟を決めたように一歩進み出ると、折り目正しく礼を取った。

「失礼な態度を取ってごめんなさい。それからどうか、あたしの話を聞いて下さい」
「僕からも頼むよ」

 どうやらクラウスの言っていた相談というのはアデライーデのものらしい。

 そしてその内容は、意外なものだった。







 クラウスは数年前からアデライーデの家の近くに診療所を構えており、そこに通う患者と医師として二人は知り合ったのだという。

 わたしはてっきりこの救護所がクラウスのものなのかと思っていたんだけど、それは違って、ここはダハールの公共の施設なんだそうだ。海水浴客の安全を守る為に街の医師達が当番制で務める決まりになっていて、今日がたまたまクラウスの番だったらしい。それを考えるとスゴい確率での再会だったんだなぁと思う。

 面倒見の良いクラウスは診療の休みの合間に近所の子供達に読み書きを教えていて、アデライーデもその中の一人だった。

 クラウスらしいな。

 昔のことを思い出してわたしの口元は少しほころんだ。

 わたし達が知り合った診療所でも、彼は度々近所の子供達に読み書きを教えていたっけ……。

 勉強熱心なアデライーデはめきめきと頭角を現し、あっという間に他の子供達とは教授レベルが合わなくなってしまった。そこでクラウスはアデライーデに個別の時間を取って勉強を教えるようになったのだが、そんな彼女から数日前、とある相談を受けたのだという。

 アデライーデ曰く、それは数日前の夜、就寝時刻を迎えた彼女が自室の窓を閉めようとした時のことだった。

 キュイイ……キュイイ―――。

 これまでに聞いたことのない、どこか物悲しい音が夜の闇を微かに震わせていることに気が付いた彼女は、一度はベッドに入ったものの、なかなか鳴り止まないそれがどうしても気にかかり、そっと家を抜け出してその音源へと向かったのだという。

 歩きながらしばらくそれを聞いているうちに、アデライーデはどうやらその音が何かの生き物の鳴き声らしいと悟った。

 今にも消えてしまいそうな心許こころもとない声。悲しげに、助けを求めるかのような声―――……。

 声を頼りに音源へとたどり着くと、そこには見たことのない生物がいた。身体中に傷を負い、今にも息絶えてしまいそうな生物が―――……。

 その場を取って返したアデライーデはクラウスの診療所のドアを叩き、彼に事情を説明してそこへ連れて行くと、その生物の応急手当てをしてもらった。

「僕も初めて見た生物だし、人間用の薬が効くのか分からなかったけどね。何らかの手当てをしないと死んでしまうのは確実だと思えたから、ダメ元で試してみたんだ。そうしたらどうにか、一命を取り留めるのには成功してね。ただ、回復になかなか時間がかかっていて―――」
「その生物っていうのは、魔物?」
「カテゴリー的にはそうだね。地域によっては神格化しているところもあるらしいけど―――調べたらカールマーンという魔物だった」

 カールマーンは海洋に生息する大型の魔物で、鼻の先に突き出た長い一本角が特徴的だ。魚ではなく哺乳類で、薄緑がかったつるんとした体躯をしており、背びれは持たず、水を掻くのに特化した胸びれのような前足と中央に切れ込みのある扇型の大きな尾びれを持つ。性格は比較的穏やかとされ、滅多に人間を襲うことはないと言われている。

 カールマーンを象徴する一本角には古くから強力な解毒作用があると言われ、また規則的な螺旋状の溝を持つその角は美術品としての価値も高く、近年は乱獲によってその個体数が激減したと言われていた。現在はカールマーンの捕獲を禁じている地方が多いが、一方で需要は高まっており、一攫千金を狙った密猟者が後を絶たないのが実情だった。

「僕達の相談というのは、傷付いたカールマーンが回復して海に戻れるまで、君達にその護衛を頼めないかということなんだ」
「ということは―――傷付いたカールマーンを狙っている奴がいるってこと?」
「それが誰という確証はないんだけど、カールマーンが負った傷は人為的なものだ。もりのような武器と電撃系の魔法による熱傷を負っている」

 そう話すクラウスの隣でアデライーデが訴えた。

「あたし、見たんです。深夜、怪しい小型船が何かを探してこの辺りをうろついているの。何人か乗ってて、そのうちの一人の顔が船の上の灯りで見えたの。ギルドで何度か見かけたことのある術士メイジの顔だった」

 そこで先程の彼女の言葉に合点がいった。だから、「ギルドの傭兵の人達なのに大丈夫なの?」となったのか。

「さっきも言ったけど、あたし、将来はギルドの傭兵になりたいんです。だから好奇心もあってダハールの支部の辺りはよくうろついていて……ギルドに出入りする術士メイジ達を憧れの目で見ていたから、何度か見たことのある人達の顔は覚えているんです。間違いありません」
「本当? その術士メイジの名前は分かる?」
「名前までは……でも、顔を見れば分かります。中年の男の人でした」

 うーん、それじゃあなぁ……。それにその術士メイジがカールマーンを攻撃したという証拠があるわけじゃないし。

 名前でも分かればまだ調べようもあるんだけど。

「傷付いたカールマーンがいるという以外、具体的なことは何も分かっていないわけか……」

 そう呟いたわたしにクラウスが頷いた。

「そういうことなんだ。でも、僕とこのはせっかく一命を取り留めたカールマーンを無事に海へ帰してやりたい。だが、少々きな臭い雰囲気が漂っているのも事実でね……僕もアデラとは別に怪しい船を見たんだ。普段は見ない船で、漁船という感じじゃなかった。その船が傷付いたカールマーンを探しているという確証はない。けれど何かが起こってしまった時に、僕はともかく彼女の身に何かあっては取り返しがつかないし……実力が確かな信頼出来る人間にお願い出来たらありがたいと思って―――それで、君達にここへ来てもらったんだ」
「お願いします、フレイアさん、ドルクさん。どうか、力を貸して下さい」

 二人にそう頼まれて、わたしとドルクは視線を交わし合った。目を見て、彼がわたしと同じことを考えているのが分かった。

「今聞いた話だけだと今ひとつ具体性に欠けるから―――とりあえず、カールマーンの状態を見せてくれないかな? 返事はそれからでもいい?」
「いいよ。ただ、カールマーンがいる場所はここから少し離れたところにあってね。とある入り江から続いている洞窟の中なんだ。今のフレイアがそこへ行くのは無理があるから、ドルク君に行ってもらって状況を見て判断してもらう、ということでどうだろう?」
「分かった。そうしよう。ドルク、悪いけど……」

 隣を見ると彼はひとつ頷いて椅子から立ち上がった。

「分かりました。行ってきます」
「じゃあ案内はあたしが! ちょうどカールマーンにご飯をあげないといけないし」

 アデライーデがそう言って救護所の片隅に置かれていた大きなカゴを背負った。

 ずいぶん大きなカゴだな、もしかしてカールマーンのご飯とやらが入っているのか?

「先生が市場で買ってくれたお魚をあたしの魔法で凍らせたものが入っているんです。弱っている子に傷んだものを食べさせられないものね」

 アデライーデは水系の魔法が使えるのか……。

「オレが持とう」

 ドルクが彼女の背負ったカゴを受け取って自らの背に背負い直し、わたしとクラウスを振り返った。

「じゃあ行ってきます」
「頼んだ」

 頷くわたしの後ろからクラウスがドルクに声をかけた。

「ドルク君、申し訳ないがアデラをどうか頼みます」
「分かりました。そちらも彼女をお願いします」

 彼女って、わたしのことか。

 普段お願いされる立場のわたしはこんなふうに逆にお願いされることがないから、何となく気恥ずかしい気分になった。

 そして、ドルクとアデライーデを見送った救護所の中には、わたしとクラウスだけが残された。 
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