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私の王子様
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ハドルはいったい、どうしたのかしら……何故、あんなひどい言い方をしたのかしら……?
主人と使用人という関係でありながら幼なじみのような存在でもあるハドルは、私にとって一番身近な人物でもあります。
辛辣で遠慮のない彼の物言いに憤慨することもあるけれど、それは私を案じてくれる彼の優しさに根付いているものなのだと分かっているから、私はこれまで、彼の言葉で心の底から傷付いたことはありませんでした。
さっきの言い方、ハドルらしくなかったわ……それに、どちらかといえば言ったハドルの方が痛そうな表情をしていた……。
きっと、あの時の私の言葉がいけなかったのね……ひどく、彼の矜持を傷付けてしまったのだわ。
料理長のリッテが腕を振るってくれた晩餐が始まりましたが、私は先程のハドルとのやり取りが胸に引っ掛かっていて、それと彼の言葉で気付かされてしまった初めての失恋のこともあり、気がそぞろになって、せっかくのお料理の味がよく分かりませんでした。
「エリス、どうかしたのか?」
夕食後、そんな私の様子に気が付いたフレイアさんがためらいがちに声を掛けてきました。初めての様々な気持ちでいっぱいいっぱいになっていた私は、彼女の前で思わず潤んでしまったのです。
「少し風に当たる? それともエリスの部屋まで行こうか?」
そう気遣ってくれた彼女の厚意に甘えて、私は自室でお話を聞いてもらうことにしました。
ドルクさんの想い人である彼女にこんなことを相談するのは本当は間違っているのでしょうが、色々な感情が溢れ出て、混乱して、自分でももうどうしていいのか分からなかったのです。
「王子様? ドルクが?」
私の話を聞いたフレイアさんは当然ながら困惑した顔になりました。
「颯爽と危機を救ってくれたあの方が、そんなふうに思えたんです。……あ、でも、ドルクさんがフレイアさんをお好きなのは分かっていますから。あの、その辺りは気になさらないで下さい。憧れのような気持ちを抱いたという意味合いです」
「え……ええっ、何で、ああ、うん……」
フレイアさんは頬を赤らめてひと通り視線を彷徨わせた後、一人納得するように黙り込みました。
このご様子、フレイアさんはドルクさんの気持ちをご存じなのね……もしかしたらお二人は既に恋仲なのかしら。
私の彼に対する気持ちは本当は初恋だったと思うのだけれど、ここでそれを言う意味はないものね……。
「でも……何気なくそれを言ったら、ハドルが先程申し上げたような感じになってしまって……私、どうしていいのか分からなくて」
「うーん……流れから察するに、多分ハドルは自分がエリスを護りたかったんじゃないかと思うんだけど。それが出来なかったジレンマに苛まれたんじゃないかな」
「仕事に関しては彼は真面目ですから、そうなのかもしれません。なのに私、そんなつもりはなかったのですが、使用人としての彼の矜持をひどく傷付けてしまったみたいで……彼にその責任はないのに、気付かれないように屋敷を抜け出したのは私なのに」
先程のハドルの表情を思い出して涙ぐんでいると、フレイアさんは励ますようにそっと私の手を握りました。
「エリス、落ち着いて。お互いの認識にずれがあるのかもしれないよ。参考までに聞きたいんだけど、エリスが一人で町へ行って買いたかったものってなんだったの?」
「……。実は……ハドルの誕生日がもうすぐで。彼が欲しがっていた馬具を求めたかったんです。常日頃私を世間知らずのお嬢様と言って憚らない彼に、私だって一人でもお買い物くらい出来るところを見せたい気持ちもあって」
「そうなんだ……ハドルの奴、自分で自分の首を絞めている感があるなぁ」
どういう意味でしょうか? フレイアさんを見上げると、彼女は小さく笑いました。
「わたしから言えることは、ハドルとよく話し合ってってことかな。答えは多分、単純だよ。今わたしに話してくれたことを素直に彼に話してごらん。今エリスの胸にあるもやもやがきっと全部晴れると思うよ」
「そう……でしょうか……?」
「うん。そのもやもやが全部晴れたらもしかしたら、エリスの本当の王子様が現れるかもしれないな。全部、エリス次第だけどね」
「え? え? それはどういう……?」
まるで謎かけのようなフレイアさんの言葉―――私の、本当の王子様? どういうことでしょうか?
「ドルクは確かにああいう容姿で見た目は王子様っぽいかもしれないけど、中身はとんだ黒王子だから。普通の女が付き合ったら、色々な意味でもたないと思うよ」
フレイアさんはそう言って、思わず見とれてしまうような柔らかな微笑を浮かべました。
一人になった部屋の中でしばらく考えた後、私は意を決してハドルの元へ向かうことにしました。
こんな気持ちのままじゃ眠れないわ。とりあえず、フレイアさんが言っていたように彼ともう一度話をしてみよう……。
ハドルの家は屋敷の敷地内の一角にあります。彼はそこで庭師の両親と共に暮らしているのです。
玄関を出ると、綺麗な半月が蒼黒の空に輝いていました。しっとりとした夜の風が私の蜂蜜色の髪を柔らかに揺らしていきます。
「……ぁ……っ……」
その時、夜風に乗って微かに何か聞こえたような気がして、私は足を止めました。
「……っ、ん……」
何かしら……?
気になって耳をそばだてましたが、それっきりその何かは聞こえなくなりました。涼やかな虫の声だけが夜の庭に静かに響いています。
気のせいかしら……?
再び歩き出した私は敷地の奥まったところにあるハドルの家のドアをノックしました。明りが灯っているから、みんなまだ起きているはず……。
「まあ、エリス様。こんな時間にどうされました?」
「ごめんなさいね、夜遅くに。ちょっとハドルに用事があって。いるかしら?」
ドアを開けたハドルの母親にそう尋ねると、先程馬小屋へ馬の様子を見に行ったと伝えられました。
「呼んできましょうか?」
「いえ、いいわ。そちらへ行ってみるから。ありがとう」
お礼を言って足早に馬小屋へと向かいます。ほどなくして、カンテラの灯りがついた馬小屋が見えてきました。馬の背にブラシをかけているハドルの姿が見えると、何とも言えない緊張感に胸が締めつけられました。
彼に声を掛けようとして、二の足を踏むのは初めてです。
そんな自分に戸惑いを覚えながら、私がハドルに声を掛けようと覚悟を決め口を開きかけた、その時でした。
暗がりから突如躍り出た何者かが、鈍器のようなもので彼の後頭部を打ち据えたのです! 鈍い音が響き、くぐもった声を上げてハドルが崩れ落ちます。馬が驚いていななき、私は青ざめて彼に駆け寄りました。
「ハドルッ!!」
「―――お嬢!? バカ、こっち来んなッ……!」
後頭部を押さえてこちらを見上げるハドルの頭部に、暗がりから再び襲撃者の鈍器が振り下ろされます。恐ろしい音がしてハドルの呻きが聞こえ、私は悲鳴を上げました。
「きゃああああぁッ! だ、誰か―――ッ!!」
「……っ、逃げ、ろ、お嬢さん! 後ろを振り返らず、行けッ!!」
頭部からの出血で顔面血まみれになったハドルが叫びます。いつも口酸っぱく言い聞かされていた彼の言葉に、私は息を飲みました。
『少しでも変だと感じたら急いで逃げろ。後ろを振り返らず、全力で。いいな』
私はガチガチと歯を鳴らしながら、涙で歪む視界の中、地に倒れ伏す彼を見つめました。
―――だって、ハドルは!? あんなにたくさん、血が出ているのに! 死―――……。
自分の連想に、心臓が凍りつくような錯覚を覚えます。
死ぬの? ハドルが? お父様のように―――私の傍から、このまま、いなくなってしまうの!?
こんな形で!?
「あ……ああ……」
立ち尽くしたその場から、逃げることもこれ以上彼に近付くこともかなわず、ただ無力に震える私の前に、暗がりから襲撃者が姿を見せました。
「どうしてこんな時間に外へ出ているんだい? エリス……もしや、この若造と逢引の約束でもしていたのかな?」
私は愕然として、目の前のその人物を見つめました。
「お……叔父様……」
「困ったなぁ……可愛い姪をどうこうする気は、なかったのに……。見ちゃったよなぁ、お前? 見ちゃった以上、もう僕のこと、許さないよなぁ?」
ろれつの怪しくなった口調でそう嘯く叔父は、だいぶ酔っているように見えました。
「仕方がないなぁ……」
ハドルの血でぬらりと濡れそぼる鈍器を振りかざし、常軌を逸した表情になった叔父―――絶句する私へと向かって一歩踏み出す彼の足に、ハドルがしがみつきます。
「逃げ、ろっ……頼むから、逃げてくれっ……! 早、くっ!!」
「この死に損ないが……! てめえのせいで、可愛い姪を殺らなきゃいけなくなっちまっただろうがッ」
必死で食らいつくハドルの身体に、叔父の蹴りが、振り下ろされる鈍器が、容赦なく降り注ぎます。
「やめて、やめて、やめてぇぇぇッ! ハドルが死んでしまう―――ッ!!」
為す術もなく絶叫する私の脇を黒い疾風が駆け抜けたのは、その瞬間でした。次の刹那、ハドルを蹂躙していた叔父が吹き飛び、馬小屋の壁を突き抜けていったのです。まさに一瞬の出来事でした。
何が起こったのか掴めぬまま、私は震える身体を引きずるようにしてハドルの元へ走りました。血溜まりの中に横たわる彼の身体を抱き起こし、必死で呼びかけます。
「ハドル……ハドルッ!」
「お嬢……あ、あいつ……は……」
切れ切れの息の下から尋ねてくるハドルの問いに答えようと辺りを見渡した私は、大きな穴の開いた壁の向こう側で叔父の襟首を掴み上げるドルクさんの姿に気が付きました。彼の背中からは燃え滾る怒りのオーラが見えるようです。
「クズが……。いいところを邪魔されて、オレは今、最高に機嫌が悪い……このまま縊り殺してやろうか……?」
「ひ、ひいぃぃぃぃ……!」
ドルクさんに押し殺した声で何事か囁かれ、叔父が悲鳴を上げているのが聞こえます。
「大丈夫よ、ドルクさんが助けに来てくれたわ……!」
「……。ホント、王子様みたい……っすね……」
「何を言っているの……!」
辛そうに目をつぶってそんなことを口にしたハドルに私が泣き笑いを返したその時、ドルクさんが馬用の縄で手足を縛り上げた叔父を、私達の傍らへ叩きつけるようにして転がしました。
「だいぶやられたな……」
そう言ってハドルを覗き込んだドルクさんの瞳がこげ茶色から、にわかに燃え立つような金色へと変わるのを目にし、私達は驚きました。そんな私達の前で、ドルクさんはおもむろにハドルへと手をかざすと、不思議な力を放ったのです。
それは、どのくらいの時間だったのでしょうか。
私には一瞬にも、ひどく長い時間のようにも感じられました。
そして―――……。
「え……え……!?」
目を白黒させながら血まみれのハドルが起き上がり、私は息を飲みました。
「ハドル!?」
「……。何か、傷が治ってるみたい……なんですけど……。痛く、ねぇ……」
ええ!? そんなことが……!
言葉を失う私達の前で、拘束された叔父が這うようにして後退りながら、慄きの声を上げました。
「ひ、ひいいいっ! き、貴様、ま、魔眼だったのか……!」
魔眼?
聞き慣れないワードに首を傾げた私でしたが、ハドルはどうやらそれを知っていたようです。
「魔眼!? 魔眼って、あの……!」
ドルクさんは私達に初めて見せる、どこか酷薄な笑みをうっすらとを湛えながら、震えあがる叔父へこう宣告しました。
「よく聞け。この屋敷の人間に今後何かがあった場合、オレはそれをお前の仕業だと断じ、地の底まで追いかけて必ず殺す。もっとも無残な方法でな……」
闇夜に輝く魔的な金色の双眸に見据えられ、叔父は白目を剥いてしまいました。
「こいつの処遇はあんた達に任せるが……厳しく処することを勧めておく。あれだけ脅かしておけばこの屋敷の人間にはもう手を出さないだろうが、世の中にはどんなに心を砕いてもそれが伝わらない、本当にどうしようもない種類の人間がいるんだ……やりきれない話だがな」
ドルクさんの言葉に私は口元を引き結び、頷きました。
出来れば真っ当な叔父と姪の関係でありたい―――そう願い続けた肉親としての情が、私のある種のエゴが、皮肉にもこうした結果に結びついてしまったこと―――父亡き後のこの屋敷の主人として私が取るべき道というものをいたく考えさせられました。
フレイアさんを先頭に、騒ぎに気が付いた屋敷のみんなが心配そうにこちらへ集まってきます。それを見やりながら自戒の念を胸に刻む私の傍らに、そっとハドルが寄り添って肩を支えてくれました。
主人と使用人という関係でありながら幼なじみのような存在でもあるハドルは、私にとって一番身近な人物でもあります。
辛辣で遠慮のない彼の物言いに憤慨することもあるけれど、それは私を案じてくれる彼の優しさに根付いているものなのだと分かっているから、私はこれまで、彼の言葉で心の底から傷付いたことはありませんでした。
さっきの言い方、ハドルらしくなかったわ……それに、どちらかといえば言ったハドルの方が痛そうな表情をしていた……。
きっと、あの時の私の言葉がいけなかったのね……ひどく、彼の矜持を傷付けてしまったのだわ。
料理長のリッテが腕を振るってくれた晩餐が始まりましたが、私は先程のハドルとのやり取りが胸に引っ掛かっていて、それと彼の言葉で気付かされてしまった初めての失恋のこともあり、気がそぞろになって、せっかくのお料理の味がよく分かりませんでした。
「エリス、どうかしたのか?」
夕食後、そんな私の様子に気が付いたフレイアさんがためらいがちに声を掛けてきました。初めての様々な気持ちでいっぱいいっぱいになっていた私は、彼女の前で思わず潤んでしまったのです。
「少し風に当たる? それともエリスの部屋まで行こうか?」
そう気遣ってくれた彼女の厚意に甘えて、私は自室でお話を聞いてもらうことにしました。
ドルクさんの想い人である彼女にこんなことを相談するのは本当は間違っているのでしょうが、色々な感情が溢れ出て、混乱して、自分でももうどうしていいのか分からなかったのです。
「王子様? ドルクが?」
私の話を聞いたフレイアさんは当然ながら困惑した顔になりました。
「颯爽と危機を救ってくれたあの方が、そんなふうに思えたんです。……あ、でも、ドルクさんがフレイアさんをお好きなのは分かっていますから。あの、その辺りは気になさらないで下さい。憧れのような気持ちを抱いたという意味合いです」
「え……ええっ、何で、ああ、うん……」
フレイアさんは頬を赤らめてひと通り視線を彷徨わせた後、一人納得するように黙り込みました。
このご様子、フレイアさんはドルクさんの気持ちをご存じなのね……もしかしたらお二人は既に恋仲なのかしら。
私の彼に対する気持ちは本当は初恋だったと思うのだけれど、ここでそれを言う意味はないものね……。
「でも……何気なくそれを言ったら、ハドルが先程申し上げたような感じになってしまって……私、どうしていいのか分からなくて」
「うーん……流れから察するに、多分ハドルは自分がエリスを護りたかったんじゃないかと思うんだけど。それが出来なかったジレンマに苛まれたんじゃないかな」
「仕事に関しては彼は真面目ですから、そうなのかもしれません。なのに私、そんなつもりはなかったのですが、使用人としての彼の矜持をひどく傷付けてしまったみたいで……彼にその責任はないのに、気付かれないように屋敷を抜け出したのは私なのに」
先程のハドルの表情を思い出して涙ぐんでいると、フレイアさんは励ますようにそっと私の手を握りました。
「エリス、落ち着いて。お互いの認識にずれがあるのかもしれないよ。参考までに聞きたいんだけど、エリスが一人で町へ行って買いたかったものってなんだったの?」
「……。実は……ハドルの誕生日がもうすぐで。彼が欲しがっていた馬具を求めたかったんです。常日頃私を世間知らずのお嬢様と言って憚らない彼に、私だって一人でもお買い物くらい出来るところを見せたい気持ちもあって」
「そうなんだ……ハドルの奴、自分で自分の首を絞めている感があるなぁ」
どういう意味でしょうか? フレイアさんを見上げると、彼女は小さく笑いました。
「わたしから言えることは、ハドルとよく話し合ってってことかな。答えは多分、単純だよ。今わたしに話してくれたことを素直に彼に話してごらん。今エリスの胸にあるもやもやがきっと全部晴れると思うよ」
「そう……でしょうか……?」
「うん。そのもやもやが全部晴れたらもしかしたら、エリスの本当の王子様が現れるかもしれないな。全部、エリス次第だけどね」
「え? え? それはどういう……?」
まるで謎かけのようなフレイアさんの言葉―――私の、本当の王子様? どういうことでしょうか?
「ドルクは確かにああいう容姿で見た目は王子様っぽいかもしれないけど、中身はとんだ黒王子だから。普通の女が付き合ったら、色々な意味でもたないと思うよ」
フレイアさんはそう言って、思わず見とれてしまうような柔らかな微笑を浮かべました。
一人になった部屋の中でしばらく考えた後、私は意を決してハドルの元へ向かうことにしました。
こんな気持ちのままじゃ眠れないわ。とりあえず、フレイアさんが言っていたように彼ともう一度話をしてみよう……。
ハドルの家は屋敷の敷地内の一角にあります。彼はそこで庭師の両親と共に暮らしているのです。
玄関を出ると、綺麗な半月が蒼黒の空に輝いていました。しっとりとした夜の風が私の蜂蜜色の髪を柔らかに揺らしていきます。
「……ぁ……っ……」
その時、夜風に乗って微かに何か聞こえたような気がして、私は足を止めました。
「……っ、ん……」
何かしら……?
気になって耳をそばだてましたが、それっきりその何かは聞こえなくなりました。涼やかな虫の声だけが夜の庭に静かに響いています。
気のせいかしら……?
再び歩き出した私は敷地の奥まったところにあるハドルの家のドアをノックしました。明りが灯っているから、みんなまだ起きているはず……。
「まあ、エリス様。こんな時間にどうされました?」
「ごめんなさいね、夜遅くに。ちょっとハドルに用事があって。いるかしら?」
ドアを開けたハドルの母親にそう尋ねると、先程馬小屋へ馬の様子を見に行ったと伝えられました。
「呼んできましょうか?」
「いえ、いいわ。そちらへ行ってみるから。ありがとう」
お礼を言って足早に馬小屋へと向かいます。ほどなくして、カンテラの灯りがついた馬小屋が見えてきました。馬の背にブラシをかけているハドルの姿が見えると、何とも言えない緊張感に胸が締めつけられました。
彼に声を掛けようとして、二の足を踏むのは初めてです。
そんな自分に戸惑いを覚えながら、私がハドルに声を掛けようと覚悟を決め口を開きかけた、その時でした。
暗がりから突如躍り出た何者かが、鈍器のようなもので彼の後頭部を打ち据えたのです! 鈍い音が響き、くぐもった声を上げてハドルが崩れ落ちます。馬が驚いていななき、私は青ざめて彼に駆け寄りました。
「ハドルッ!!」
「―――お嬢!? バカ、こっち来んなッ……!」
後頭部を押さえてこちらを見上げるハドルの頭部に、暗がりから再び襲撃者の鈍器が振り下ろされます。恐ろしい音がしてハドルの呻きが聞こえ、私は悲鳴を上げました。
「きゃああああぁッ! だ、誰か―――ッ!!」
「……っ、逃げ、ろ、お嬢さん! 後ろを振り返らず、行けッ!!」
頭部からの出血で顔面血まみれになったハドルが叫びます。いつも口酸っぱく言い聞かされていた彼の言葉に、私は息を飲みました。
『少しでも変だと感じたら急いで逃げろ。後ろを振り返らず、全力で。いいな』
私はガチガチと歯を鳴らしながら、涙で歪む視界の中、地に倒れ伏す彼を見つめました。
―――だって、ハドルは!? あんなにたくさん、血が出ているのに! 死―――……。
自分の連想に、心臓が凍りつくような錯覚を覚えます。
死ぬの? ハドルが? お父様のように―――私の傍から、このまま、いなくなってしまうの!?
こんな形で!?
「あ……ああ……」
立ち尽くしたその場から、逃げることもこれ以上彼に近付くこともかなわず、ただ無力に震える私の前に、暗がりから襲撃者が姿を見せました。
「どうしてこんな時間に外へ出ているんだい? エリス……もしや、この若造と逢引の約束でもしていたのかな?」
私は愕然として、目の前のその人物を見つめました。
「お……叔父様……」
「困ったなぁ……可愛い姪をどうこうする気は、なかったのに……。見ちゃったよなぁ、お前? 見ちゃった以上、もう僕のこと、許さないよなぁ?」
ろれつの怪しくなった口調でそう嘯く叔父は、だいぶ酔っているように見えました。
「仕方がないなぁ……」
ハドルの血でぬらりと濡れそぼる鈍器を振りかざし、常軌を逸した表情になった叔父―――絶句する私へと向かって一歩踏み出す彼の足に、ハドルがしがみつきます。
「逃げ、ろっ……頼むから、逃げてくれっ……! 早、くっ!!」
「この死に損ないが……! てめえのせいで、可愛い姪を殺らなきゃいけなくなっちまっただろうがッ」
必死で食らいつくハドルの身体に、叔父の蹴りが、振り下ろされる鈍器が、容赦なく降り注ぎます。
「やめて、やめて、やめてぇぇぇッ! ハドルが死んでしまう―――ッ!!」
為す術もなく絶叫する私の脇を黒い疾風が駆け抜けたのは、その瞬間でした。次の刹那、ハドルを蹂躙していた叔父が吹き飛び、馬小屋の壁を突き抜けていったのです。まさに一瞬の出来事でした。
何が起こったのか掴めぬまま、私は震える身体を引きずるようにしてハドルの元へ走りました。血溜まりの中に横たわる彼の身体を抱き起こし、必死で呼びかけます。
「ハドル……ハドルッ!」
「お嬢……あ、あいつ……は……」
切れ切れの息の下から尋ねてくるハドルの問いに答えようと辺りを見渡した私は、大きな穴の開いた壁の向こう側で叔父の襟首を掴み上げるドルクさんの姿に気が付きました。彼の背中からは燃え滾る怒りのオーラが見えるようです。
「クズが……。いいところを邪魔されて、オレは今、最高に機嫌が悪い……このまま縊り殺してやろうか……?」
「ひ、ひいぃぃぃぃ……!」
ドルクさんに押し殺した声で何事か囁かれ、叔父が悲鳴を上げているのが聞こえます。
「大丈夫よ、ドルクさんが助けに来てくれたわ……!」
「……。ホント、王子様みたい……っすね……」
「何を言っているの……!」
辛そうに目をつぶってそんなことを口にしたハドルに私が泣き笑いを返したその時、ドルクさんが馬用の縄で手足を縛り上げた叔父を、私達の傍らへ叩きつけるようにして転がしました。
「だいぶやられたな……」
そう言ってハドルを覗き込んだドルクさんの瞳がこげ茶色から、にわかに燃え立つような金色へと変わるのを目にし、私達は驚きました。そんな私達の前で、ドルクさんはおもむろにハドルへと手をかざすと、不思議な力を放ったのです。
それは、どのくらいの時間だったのでしょうか。
私には一瞬にも、ひどく長い時間のようにも感じられました。
そして―――……。
「え……え……!?」
目を白黒させながら血まみれのハドルが起き上がり、私は息を飲みました。
「ハドル!?」
「……。何か、傷が治ってるみたい……なんですけど……。痛く、ねぇ……」
ええ!? そんなことが……!
言葉を失う私達の前で、拘束された叔父が這うようにして後退りながら、慄きの声を上げました。
「ひ、ひいいいっ! き、貴様、ま、魔眼だったのか……!」
魔眼?
聞き慣れないワードに首を傾げた私でしたが、ハドルはどうやらそれを知っていたようです。
「魔眼!? 魔眼って、あの……!」
ドルクさんは私達に初めて見せる、どこか酷薄な笑みをうっすらとを湛えながら、震えあがる叔父へこう宣告しました。
「よく聞け。この屋敷の人間に今後何かがあった場合、オレはそれをお前の仕業だと断じ、地の底まで追いかけて必ず殺す。もっとも無残な方法でな……」
闇夜に輝く魔的な金色の双眸に見据えられ、叔父は白目を剥いてしまいました。
「こいつの処遇はあんた達に任せるが……厳しく処することを勧めておく。あれだけ脅かしておけばこの屋敷の人間にはもう手を出さないだろうが、世の中にはどんなに心を砕いてもそれが伝わらない、本当にどうしようもない種類の人間がいるんだ……やりきれない話だがな」
ドルクさんの言葉に私は口元を引き結び、頷きました。
出来れば真っ当な叔父と姪の関係でありたい―――そう願い続けた肉親としての情が、私のある種のエゴが、皮肉にもこうした結果に結びついてしまったこと―――父亡き後のこの屋敷の主人として私が取るべき道というものをいたく考えさせられました。
フレイアさんを先頭に、騒ぎに気が付いた屋敷のみんなが心配そうにこちらへ集まってきます。それを見やりながら自戒の念を胸に刻む私の傍らに、そっとハドルが寄り添って肩を支えてくれました。
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