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私の王子様
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招かれざる客の突然の来訪があったのは、そろそろお茶が終わりになろうかという頃合いでした。
来客中です、とカーロスが制止する声を振り切って乱暴に客間のドアが開け放たれ、叔父のチャドが姿を見せたのです。
「叔父様……」
「やあエリス、ご機嫌よう。可愛い姪の姿が急に見たくなってね」
父の弟である叔父のチャドは昔から素行が悪かったそうで、私が生まれる以前に当時の家長だった祖父から勘当され、長らく音信不通になっていた人物でした。幼い頃、何度か父にお金を無心に来た姿を見たことがあるだけで、彼との思い出は何もありません。
その叔父が突然姿を見せたのが、三か月前。半年前に私の父が急逝したという噂をどこからか聞きつけてやってきたようなのです。それからというもの、度々屋敷を訪れるようになり、私達は正直困っていました。
それというのも、どうやら叔父は私の後見人になりたがっているようなのです。私は満18歳に達しており、後見人は必要ないのだと説明をしても、私一人では心配だから、心許ないから、と言って聞き入れません。これまで屋敷を守ってきてくれたカーロスやハドル、みんながいるから大丈夫なのだと伝えても、使用人は所詮他人だと、血の繋がりこそが何よりの絆なのだと頑なに拒みます。
カーロスやハドル達はそんな叔父の狙いが見え透いていると警戒をしています。彼の狙いは明らかにこの屋敷と父が遺した遺産であると。悲しいことですが、それは私も感じています。
けれど、幼い頃に母を亡くし、半年前に父を亡くし、祖父母もとうに他界していて―――私の肉親は、もうこの叔父だけなのです。出来れば互いに理解し合い、真っ当な叔父と姪の関係でありたい。そんな思いが捨てきれず、今日に至ってしまっているのです―――。
「叔父様、お客様がいらしているのに無作法ですよ」
出来るだけ毅然とした表情を作って苦言を呈した私に叔父は無遠慮に歩み寄り、いなすように肩を叩きました。
「そう怖い顔をしないでくれよ、せっかくの可愛い顔が台無しだ。……こちらの方達は? 初めて見る顔だね?」
「……私がお世話になった方達です」
「へえ? ……立派な剣をお持ちの方達だね。まさかとは思うけど、僕をどうにかする為にこの人達を雇ったわけじゃないだろうね?」
「違います。やめて下さい、お客様の前で」
ドルクさんもフレイアさんも、この屋敷の事情など何も知らないのに。私の恩人達に、嫌な思いをさせてしまいたくない。
そんな私の心の機微を感じ取ったカーロスが叔父を止めに入ってくれました。
「チャド様、エリス様のお心を察して、どうか今日はもうお引き取り下さい」
それでも聞こえぬ風情で動かない叔父の肩にカーロスが手を掛けた時のことでした。
「チャド様―――」
「使用人風情が、気安く触るんじゃねぇ!」
大声を上げた叔父に胸の辺りを乱暴に押されたカーロスがよろけて、テーブルにぶつかってしまったのです。茶器や食器が床に転がって派手な物音が立ち、客間は騒然となりました。
「きゃああ! カーロス、大丈夫!?」
驚いて駆け寄り彼の顔を覗き込むと、幸い怪我をした様子は見られなかったけれど―――こんなの、ひどいわ!
私はきっと叔父をにらみ上げ、抑えきれぬ怒りを胸に彼に詰め寄りました。
「カーロスに謝って下さい! そしてしばらくここへ来ないで! 乱暴な人は嫌いです!!」
「おいおい、そう怒らないでくれよ……悪かったよ、ついカッとなって。せっかく会いに来たってのに、お前らがみんなで僕を追い返そうとするからさ……」
その時この騒ぎを聞きつけたハドルがやってきて、客間の惨状に目を剥きました。
「このバカ叔父貴、やらかしやがったな! てめぇはもう出禁だ!」
「何だとっ、馬番風情が何て口の利き方だ! お前みたいな奴がいるからエリスを放っておけないんだ!」
「これまで散々放っておいて、今更都合よく叔父貴面すんじゃねぇよ!」
互いの胸倉を掴み合い、今にも殴り合いに突入しそうな二人の雰囲気に私が青ざめたその時です。ドルクさんが叔父を、フレイアさんがハドルを後ろから羽交い絞めにするようにして引き離してくれました。
「第三者から見て、一番の無作法者はあんただと思うが」
「何も知らない小僧がッ、離せぇぇ!」
ドルクさんに冷静な声で指摘された叔父は激昂して彼を振り返りましたが、どうしたことでしょうか、彼のこげ茶色の双眸に見据えられると一転して黙り込み、大人しくなりました。
「……ふ、ふん! まあ今日は僕も大人げなかった……カーロスには悪いことをしたし、出直すよ。分かったら、さっさと離せ!」
ドルクさんから解放された叔父は、大げさに襟元を正すと私達を威嚇をするように足音高く帰っていきました。
叔父の背中が見えなくなったことに、とりあえずホッとします。胸をなで下ろしながら振り返ると、無残な有様になった客間が目に入り、どうしようもなく心が沈んでいくのを覚えました。
「あんた、スゴい力ですね? 本当に女?」
羽交い絞めを解かれたハドルがフレイアさんに失礼な物言いをするのを耳にしながら、改めてカーロスに怪我がないか尋ねると、彼は私を安心させるように柔らかく微笑みました。
「大丈夫ですよ、エリス様」
「でも……」
カーロスは年配だもの。見えないところを痛めていないか心配だわ。
「どこか痛むようなところがあったら、いつでもいいから言ってね。絶対よ」
「分かりました」
とりあえずは彼に怪我がないと分かり、ひと安心。小さく吐息をついた私は、改めてドルクさんとフレイアさんにお詫びとお礼を申し上げ、恥ずかしながらこちらの事情をお話ししたのです。
「みんながエリスのことを『主人』って呼んでいるから、違和感は持っていたんだ。でも人様の事情に首を突っ込むこともないなと思って、敢えて尋ねなかったんだけれど」
そう言ったフレイアさんの白いシャツがお茶の染みでひどく汚れてしまっていることに、この時私は気が付きました。
「あっ……も、申し訳ありません! さっき、茶器が落ちた時ですね!? 叔父のせいで、お召し物が―――」
「え? ああ、仕方がないよ。気にしないで」
フレイアさんはそう言ってくれましたが、それでは私の気が収まりません。
ドルクさんに暴漢から救っていただき、お二人にこの屋敷までご足労かけ、身体を張って叔父の暴挙を止めていただき、なのに、お召し物を汚した状態でお帰ししてしまうなど―――!
「洗わせていただきますから、お脱ぎになって下さい!」
「え? でも―――」
フレイアさんが困惑した様子で窓の外を見やりました。夕刻が近付き、赤みを増した空が目に映ります。
今日中に乾かしてお返しするのは、とても無理ね。
「今夜はぜひ、私共の屋敷にお泊まり下さい! 明日、綺麗に仕上げてお召し物をお返ししますから!」
「ええ!? いいよ、そんな!」
「世話係のマリーはとても洗濯が上手なんですよ! どんな染みでも綺麗に落として御覧にいれますから!」
「いや、でも」
「大丈夫です! これまで私のどんな粗相も、マリーの洗濯技術の前には綺麗さっぱり、消え去りましたからっ!」
私達のやり取りを聞いていたドルクさんが頬を緩めて、フレイアさんを促してくれました。
「ここまで言ってくれてますから、そうしてもらったらどうですか?」
「うーん……あんたがそう言うんなら……。じゃあエリス、悪いけどお願いしていいかな」
お二人の承諾が得られて、私は自分の顔が喜色に輝くのを覚えました。
良かったわ! このままお帰ししたのでは申し訳なさすぎますもの!
「お任せ下さい、今宵はゆっくりとお休みいただけるように努めさせていただきますね!」
フレイアさんのお着替えを用立てる為、彼女を自室へと案内した私は、彼女のシャツばかりかインナーのタンクトップ、果てはボトムまでもが濡れてしまっている状況に改めて謝罪しました。
「本当に本当に申し訳ありません、叔父が乱暴を働いたせいで……」
「いいって、エリス達のせいじゃないんだから」
フレイアさんは苦笑しながら室内をひと通り眺め、こう言って下さいました。
「素敵な部屋だね。エリスらしい品のいい調度品―――それに可愛い雑貨がいっぱい」
一緒に私の部屋へ来ていた世話係のマリーがフレイアさんを見上げ、恰幅のいい身体を気持ち反らしながら自分の胸を拳で叩きました。
「わたしが責任をもって洗わせていただきますからね! それにしてもフレイア様は背がお高いですねぇ、エリス様のお召し物では間に合いませんね。来客用のクローゼットからいくつか見繕ってきましょう」
「来客用のクローゼットなんてあるの? スゴいね」
「突然のお客様に備えて、ある程度の用意があるんです。そんなに大したものではないんですが」
マリーはいくつかの衣装を手にすぐに戻ってきてくれました。
「これとこれと、これなんていかがでしょう!?」
広げられた衣装を目にして、フレイアさんがややたじろいた様子を見せます。お気に召さなかったのでしょうか?
「いや、わたし、結構筋肉がついているからさ……こういう女の子らしいもの、厳しいんじゃないかと思って」
「どれどれ、ちょっと失礼いたしますよ」
それを聞いたマリーが衣服の上からフレイアさんの腕や肩に触れて彼女の体格を確かめ、ひとつの衣装をお勧めしました。
「これならどうです? パフスリーブで袖口が緩やかに広がったフリルになっていますから、たくましい二の腕も可憐にカバーしてくれますよ!」
まあ、マリーったらたくましいだなんて!
でもその衣装、フレイアさんに似合いそうだと私も思いました。
綺麗な橙色をした五分袖のロングワンピース。襟ぐりが広めに開いていて、ところどころに上品な刺繍やフリルが施されたちょっと大人な感じのデザインです。フレイアさんの赤い髪と色味も合いますし、背の高い彼女が身に着けたら、きっと着映えすることでしょう。
そして実際に試着をしたフレイアさんを見て、私とマリーは溜め息をこぼしました。
「素敵! とってもお似合いです!」
「え? 本当に……?」
どことなく不安顔の彼女に私達は太鼓判を押しました。
「本当に良くお似合いです、これに決まりです!」
「欲を言えば胸の辺りにもう少しボリュームが欲しいところなんですけどねぇ、フレイア様は女性の必需品、贅肉というものをお持ちでありませんから。別のところからお肉を持ってきて寄せるということが出来ませんので仕方ありませんねぇ」
そ、そうなのですね!? うらやましい!
「充分お綺麗ですよ! ね、マリー」
「お綺麗なのは間違いないので、こうなるとクオリティーを高めたくなってきますね、エリス様」
「まあ! 私もそう思っていたのよ、マリー」
「え? な、何……?」
私達の会話の雲行きに不安そうな表情を見せるフレイアさんを、私達は化粧台の前までお連れしました。
「今、すっぴんですよね? せっかくですからフルメイクを施しましょう!」
「爪も整えましょうね。せっかく綺麗な女爪をしていらっしゃるんですから、お手入れしないともったいないですよ」
「首飾りはどれがいいかしら、マリー?」
「こちらはどうでしょう?」
「髪飾りは? これだと少しやり過ぎかしら?」
「あまり大仰なものでなく、上品な感じのものがよろしいと思いますよ」
「香水はこれがいいわね!」
素材がいいから、手を加えれば加えるだけ輝きが増していきます。マリーと二人でフレイアさんを綺麗にしていくのはとても楽しくて、お茶の席を叔父に台無しにされてしまった陰鬱な気分を忘れ去るほどでした。
当初は「わっ」「うっ」と抵抗を見せていたフレイアさんも私達の盛り上がりように次第に諦めの境地に至ったようで、最後は私達に全て任せて下さいました。
時間を忘れるほど、楽しいひと時でした。
「フレイアさんのお着替えが済みましたよ」
夕食までの時間を客間でくつろいでいた男性陣(と言ってもフレイアさんのお着替えが済むまでの間ドルクさんのお相手をカーロスとハドルにお願いしていた状況なのですが)にそう声をかけると、彼らの視線が一斉にこちらへと集まりました。
「や、やっぱり柄じゃないし何か恥ずかしいよ」
「わたし達の自信作です、大丈夫ですよ」
ドアの影でためらうフレイアさんの背中をマリーがポンと押して、若干たたらを踏む感じで姿を現した彼女を見て、男性陣がざわつきました。
「えっ……本当に、さっきの怪力の人?」
「よくお似合いですよ、素敵ですね」
言うまでもなく、失礼な方がハドル、穏やかな物言いの方がカーロスです。
ドルクさんは―――言葉を失った様子で、フレイアさんを見つめていました。
そんな彼の表情を見て、何故か―――私は自分の胸が締めつけられるような錯覚に囚われました。
どうしてでしょう。フレイアさんを美しく着飾れてとても楽しかったし、嬉しかったのに。それをこうしてお披露目して、その手応えを感じることが出来て、満たされるはずなのに。どうして。
フレイアさんを見つめるドルクさんの瞳が、言葉にならない熱い想いを内包しているのが分かりました。彼が彼女に仕事のパートナー以上の特別な感情を抱いているのがその瞬間に伝わって、何だか―――自分でもよく分からない感情が胸の中に渦巻いて、溢れ出そうになって―――困りました。
「―――へ、変じゃない?」
ためらいがちにそう尋ねたフレイアさんに、ドルクさんが我に返った様子でこう答えました―――春の陽だまりを思わせるような、とても優しい、温かな表情で―――愛おしさの込められた、柔らかな声で。
「……綺麗ですよ。とても」
その光景を直視出来なくて、何ともいたたまれない気持ちになった私は、そっと客間を離れました。
「エリス様?」
「ちょっと、お手洗いに―――」
ドアの傍らに控えていたマリーにそう言い置いて、足早に、行きたいわけではないお手洗いへと向かいます。向かいながら、ひとりでに涙がぽろぽろとこぼれ落ちて頬を濡らしていきました。
―――いやだわ。何、これっ……。
「お嬢さん」
「きゃっ!?」
その時、かけられると思っていなかった声を後ろからかけられて、私はびくっと肩をすくませました。振り返るとそこにはハドルが立っていて、精悍な顔をしかめながら私を見つめています。
「……何て顔をしてるんですか、あんた」
「ハドル!? あ、あ―――これ、は―――」
思いがけない彼の登場と泣き顔を見られたことにパニックになって慌てて手の甲で涙を拭っていると、無造作にハンカチを手渡されました。
「様子が変だったから、追ってきたんですよ」
意外な彼の気遣いに、私は思わず涙に濡れた瞳を瞬かせました。
予想もしなかった展開だわ。あのぞんざいなハドルから、ハンカチが出て来るなんて。
「……。ハドルって、ハンカチを持っているのね」
「何ですか、その言い方! いらないなら返して下さい」
「そうは言っていないじゃない……ありがたくお借りするわ」
彼のハンカチで遠慮なく涙を拭きついでに鼻をかんでやると、「うわっ、きったね!」とのけ反られてしまいました。
「ちゃんと洗ってから返すわよ……」
「マリーがね」
「い、いくらなんでもこんなのマリーにお願いしません! ちゃんと自分で洗うわ」
「洗えるんですか?」
「またそうやって私を蔑んで……私だって、やれば出来ることはたくさんあるんです」
「今日のお忍びみたいに失敗しないようにお願いしますよ」
うう……相変わらず嫌なところを突いてくるわね。
「ドルクっていうお客人に聞きましたよ。危ない目に遭ったそうじゃないですか」
ハドルの口からこぼれたドルクさんの名前に心臓が反応して、引っ込んでいた涙が再びじわっと滲んできてしまいました。そんな私を見やりながらハドルが尋ねます。
「……。ケガはなかったんですか」
「ええ……ドルクさんに助けていただいたから……」
「次からは控えて下さいよ。買い物に行きたければオレがお供しますから。……いったい、何がそんなに買いたかったんですか」
それは口が裂けても言えない理由でした。ハドルには。
彼の問いかけをはぐらかしたくて、私は深く考えずに思いつくまま口を開いたのです。
「ハドル、人が吹き飛ぶのって見たことある? 私、今日初めて見たの。ドルクさん、とても強かったのよ。刃物を持って襲いかかってきた相手を、こう、拳で―――圧巻だったわ。危機に陥った私を颯爽と現れて救ってくれた彼を見て、昔童話で読んだ王子様を思い出したの。まるで王子様がそのまま絵本から抜け出てきて、私を救ってくれたみたいって―――子供みたいに、そんなことを思ってしまったのよ」
「……。王子様、ねぇ―――だとしたらオレはさしずめ、間抜けな家臣ってトコですね。主がこっそり出掛けたことにも気が付かず、屋敷でのほほんと仕事に従事してた」
彼の声に強い自嘲が滲んだことに私は驚いて、慌てて言い募りました。
「そういう意味で言ったわけじゃないのよ、気付かれないように行動したのは私なんだし、ハドルのせいじゃ」
「だが、結果的にあんたは危険な目に遭った! 気付かなきゃいけなかったんだ」
いつになく強い口調で言葉を遮られ、私は息を飲みました。ハドルの亜麻色の瞳が苦い光に揺れているのが分かります。
ハドル?
「お嬢さん、あんた、自分がどうして泣いちまったのか分かってる?」
「え?」
「気付いたからだろう? あの男が自分の王子様じゃないって。彼が護りたい女は別にいるんだって」
「えっ……」
私は絶句して目の前のハドルを見つめました。
彼の言葉がまるで抜け落ちていたピースのように自分の中でカチリとはまって、これまでの感情に答えを見出させたからです。
いやだ、私―――私、ドルクさんをそういう目で……。
真っ赤になって両手で口元を覆う私をどこか傷付いたような眼差しで見やり、ハドルは吐き出すようにして言いました。
「危ないところをカッコいい男に助けられりゃ、あんたみたいな世間知らずのお嬢は一発で惚れちまうよな。ありがちな話だよ。初恋が実らなくて、残念だったな」
どうしてでしょう。ひどいことを言われたのに、そう言い放った彼の方が何故だかひどく傷付いているように見えて、私は何も言い返せませんでした。
ぎゅっと唇を結び、立ち去っていくハドルの後ろ姿を見送りながら私の胸に去来したのは怒りではなく、戸惑いと、大きな後悔の念でした。
来客中です、とカーロスが制止する声を振り切って乱暴に客間のドアが開け放たれ、叔父のチャドが姿を見せたのです。
「叔父様……」
「やあエリス、ご機嫌よう。可愛い姪の姿が急に見たくなってね」
父の弟である叔父のチャドは昔から素行が悪かったそうで、私が生まれる以前に当時の家長だった祖父から勘当され、長らく音信不通になっていた人物でした。幼い頃、何度か父にお金を無心に来た姿を見たことがあるだけで、彼との思い出は何もありません。
その叔父が突然姿を見せたのが、三か月前。半年前に私の父が急逝したという噂をどこからか聞きつけてやってきたようなのです。それからというもの、度々屋敷を訪れるようになり、私達は正直困っていました。
それというのも、どうやら叔父は私の後見人になりたがっているようなのです。私は満18歳に達しており、後見人は必要ないのだと説明をしても、私一人では心配だから、心許ないから、と言って聞き入れません。これまで屋敷を守ってきてくれたカーロスやハドル、みんながいるから大丈夫なのだと伝えても、使用人は所詮他人だと、血の繋がりこそが何よりの絆なのだと頑なに拒みます。
カーロスやハドル達はそんな叔父の狙いが見え透いていると警戒をしています。彼の狙いは明らかにこの屋敷と父が遺した遺産であると。悲しいことですが、それは私も感じています。
けれど、幼い頃に母を亡くし、半年前に父を亡くし、祖父母もとうに他界していて―――私の肉親は、もうこの叔父だけなのです。出来れば互いに理解し合い、真っ当な叔父と姪の関係でありたい。そんな思いが捨てきれず、今日に至ってしまっているのです―――。
「叔父様、お客様がいらしているのに無作法ですよ」
出来るだけ毅然とした表情を作って苦言を呈した私に叔父は無遠慮に歩み寄り、いなすように肩を叩きました。
「そう怖い顔をしないでくれよ、せっかくの可愛い顔が台無しだ。……こちらの方達は? 初めて見る顔だね?」
「……私がお世話になった方達です」
「へえ? ……立派な剣をお持ちの方達だね。まさかとは思うけど、僕をどうにかする為にこの人達を雇ったわけじゃないだろうね?」
「違います。やめて下さい、お客様の前で」
ドルクさんもフレイアさんも、この屋敷の事情など何も知らないのに。私の恩人達に、嫌な思いをさせてしまいたくない。
そんな私の心の機微を感じ取ったカーロスが叔父を止めに入ってくれました。
「チャド様、エリス様のお心を察して、どうか今日はもうお引き取り下さい」
それでも聞こえぬ風情で動かない叔父の肩にカーロスが手を掛けた時のことでした。
「チャド様―――」
「使用人風情が、気安く触るんじゃねぇ!」
大声を上げた叔父に胸の辺りを乱暴に押されたカーロスがよろけて、テーブルにぶつかってしまったのです。茶器や食器が床に転がって派手な物音が立ち、客間は騒然となりました。
「きゃああ! カーロス、大丈夫!?」
驚いて駆け寄り彼の顔を覗き込むと、幸い怪我をした様子は見られなかったけれど―――こんなの、ひどいわ!
私はきっと叔父をにらみ上げ、抑えきれぬ怒りを胸に彼に詰め寄りました。
「カーロスに謝って下さい! そしてしばらくここへ来ないで! 乱暴な人は嫌いです!!」
「おいおい、そう怒らないでくれよ……悪かったよ、ついカッとなって。せっかく会いに来たってのに、お前らがみんなで僕を追い返そうとするからさ……」
その時この騒ぎを聞きつけたハドルがやってきて、客間の惨状に目を剥きました。
「このバカ叔父貴、やらかしやがったな! てめぇはもう出禁だ!」
「何だとっ、馬番風情が何て口の利き方だ! お前みたいな奴がいるからエリスを放っておけないんだ!」
「これまで散々放っておいて、今更都合よく叔父貴面すんじゃねぇよ!」
互いの胸倉を掴み合い、今にも殴り合いに突入しそうな二人の雰囲気に私が青ざめたその時です。ドルクさんが叔父を、フレイアさんがハドルを後ろから羽交い絞めにするようにして引き離してくれました。
「第三者から見て、一番の無作法者はあんただと思うが」
「何も知らない小僧がッ、離せぇぇ!」
ドルクさんに冷静な声で指摘された叔父は激昂して彼を振り返りましたが、どうしたことでしょうか、彼のこげ茶色の双眸に見据えられると一転して黙り込み、大人しくなりました。
「……ふ、ふん! まあ今日は僕も大人げなかった……カーロスには悪いことをしたし、出直すよ。分かったら、さっさと離せ!」
ドルクさんから解放された叔父は、大げさに襟元を正すと私達を威嚇をするように足音高く帰っていきました。
叔父の背中が見えなくなったことに、とりあえずホッとします。胸をなで下ろしながら振り返ると、無残な有様になった客間が目に入り、どうしようもなく心が沈んでいくのを覚えました。
「あんた、スゴい力ですね? 本当に女?」
羽交い絞めを解かれたハドルがフレイアさんに失礼な物言いをするのを耳にしながら、改めてカーロスに怪我がないか尋ねると、彼は私を安心させるように柔らかく微笑みました。
「大丈夫ですよ、エリス様」
「でも……」
カーロスは年配だもの。見えないところを痛めていないか心配だわ。
「どこか痛むようなところがあったら、いつでもいいから言ってね。絶対よ」
「分かりました」
とりあえずは彼に怪我がないと分かり、ひと安心。小さく吐息をついた私は、改めてドルクさんとフレイアさんにお詫びとお礼を申し上げ、恥ずかしながらこちらの事情をお話ししたのです。
「みんながエリスのことを『主人』って呼んでいるから、違和感は持っていたんだ。でも人様の事情に首を突っ込むこともないなと思って、敢えて尋ねなかったんだけれど」
そう言ったフレイアさんの白いシャツがお茶の染みでひどく汚れてしまっていることに、この時私は気が付きました。
「あっ……も、申し訳ありません! さっき、茶器が落ちた時ですね!? 叔父のせいで、お召し物が―――」
「え? ああ、仕方がないよ。気にしないで」
フレイアさんはそう言ってくれましたが、それでは私の気が収まりません。
ドルクさんに暴漢から救っていただき、お二人にこの屋敷までご足労かけ、身体を張って叔父の暴挙を止めていただき、なのに、お召し物を汚した状態でお帰ししてしまうなど―――!
「洗わせていただきますから、お脱ぎになって下さい!」
「え? でも―――」
フレイアさんが困惑した様子で窓の外を見やりました。夕刻が近付き、赤みを増した空が目に映ります。
今日中に乾かしてお返しするのは、とても無理ね。
「今夜はぜひ、私共の屋敷にお泊まり下さい! 明日、綺麗に仕上げてお召し物をお返ししますから!」
「ええ!? いいよ、そんな!」
「世話係のマリーはとても洗濯が上手なんですよ! どんな染みでも綺麗に落として御覧にいれますから!」
「いや、でも」
「大丈夫です! これまで私のどんな粗相も、マリーの洗濯技術の前には綺麗さっぱり、消え去りましたからっ!」
私達のやり取りを聞いていたドルクさんが頬を緩めて、フレイアさんを促してくれました。
「ここまで言ってくれてますから、そうしてもらったらどうですか?」
「うーん……あんたがそう言うんなら……。じゃあエリス、悪いけどお願いしていいかな」
お二人の承諾が得られて、私は自分の顔が喜色に輝くのを覚えました。
良かったわ! このままお帰ししたのでは申し訳なさすぎますもの!
「お任せ下さい、今宵はゆっくりとお休みいただけるように努めさせていただきますね!」
フレイアさんのお着替えを用立てる為、彼女を自室へと案内した私は、彼女のシャツばかりかインナーのタンクトップ、果てはボトムまでもが濡れてしまっている状況に改めて謝罪しました。
「本当に本当に申し訳ありません、叔父が乱暴を働いたせいで……」
「いいって、エリス達のせいじゃないんだから」
フレイアさんは苦笑しながら室内をひと通り眺め、こう言って下さいました。
「素敵な部屋だね。エリスらしい品のいい調度品―――それに可愛い雑貨がいっぱい」
一緒に私の部屋へ来ていた世話係のマリーがフレイアさんを見上げ、恰幅のいい身体を気持ち反らしながら自分の胸を拳で叩きました。
「わたしが責任をもって洗わせていただきますからね! それにしてもフレイア様は背がお高いですねぇ、エリス様のお召し物では間に合いませんね。来客用のクローゼットからいくつか見繕ってきましょう」
「来客用のクローゼットなんてあるの? スゴいね」
「突然のお客様に備えて、ある程度の用意があるんです。そんなに大したものではないんですが」
マリーはいくつかの衣装を手にすぐに戻ってきてくれました。
「これとこれと、これなんていかがでしょう!?」
広げられた衣装を目にして、フレイアさんがややたじろいた様子を見せます。お気に召さなかったのでしょうか?
「いや、わたし、結構筋肉がついているからさ……こういう女の子らしいもの、厳しいんじゃないかと思って」
「どれどれ、ちょっと失礼いたしますよ」
それを聞いたマリーが衣服の上からフレイアさんの腕や肩に触れて彼女の体格を確かめ、ひとつの衣装をお勧めしました。
「これならどうです? パフスリーブで袖口が緩やかに広がったフリルになっていますから、たくましい二の腕も可憐にカバーしてくれますよ!」
まあ、マリーったらたくましいだなんて!
でもその衣装、フレイアさんに似合いそうだと私も思いました。
綺麗な橙色をした五分袖のロングワンピース。襟ぐりが広めに開いていて、ところどころに上品な刺繍やフリルが施されたちょっと大人な感じのデザインです。フレイアさんの赤い髪と色味も合いますし、背の高い彼女が身に着けたら、きっと着映えすることでしょう。
そして実際に試着をしたフレイアさんを見て、私とマリーは溜め息をこぼしました。
「素敵! とってもお似合いです!」
「え? 本当に……?」
どことなく不安顔の彼女に私達は太鼓判を押しました。
「本当に良くお似合いです、これに決まりです!」
「欲を言えば胸の辺りにもう少しボリュームが欲しいところなんですけどねぇ、フレイア様は女性の必需品、贅肉というものをお持ちでありませんから。別のところからお肉を持ってきて寄せるということが出来ませんので仕方ありませんねぇ」
そ、そうなのですね!? うらやましい!
「充分お綺麗ですよ! ね、マリー」
「お綺麗なのは間違いないので、こうなるとクオリティーを高めたくなってきますね、エリス様」
「まあ! 私もそう思っていたのよ、マリー」
「え? な、何……?」
私達の会話の雲行きに不安そうな表情を見せるフレイアさんを、私達は化粧台の前までお連れしました。
「今、すっぴんですよね? せっかくですからフルメイクを施しましょう!」
「爪も整えましょうね。せっかく綺麗な女爪をしていらっしゃるんですから、お手入れしないともったいないですよ」
「首飾りはどれがいいかしら、マリー?」
「こちらはどうでしょう?」
「髪飾りは? これだと少しやり過ぎかしら?」
「あまり大仰なものでなく、上品な感じのものがよろしいと思いますよ」
「香水はこれがいいわね!」
素材がいいから、手を加えれば加えるだけ輝きが増していきます。マリーと二人でフレイアさんを綺麗にしていくのはとても楽しくて、お茶の席を叔父に台無しにされてしまった陰鬱な気分を忘れ去るほどでした。
当初は「わっ」「うっ」と抵抗を見せていたフレイアさんも私達の盛り上がりように次第に諦めの境地に至ったようで、最後は私達に全て任せて下さいました。
時間を忘れるほど、楽しいひと時でした。
「フレイアさんのお着替えが済みましたよ」
夕食までの時間を客間でくつろいでいた男性陣(と言ってもフレイアさんのお着替えが済むまでの間ドルクさんのお相手をカーロスとハドルにお願いしていた状況なのですが)にそう声をかけると、彼らの視線が一斉にこちらへと集まりました。
「や、やっぱり柄じゃないし何か恥ずかしいよ」
「わたし達の自信作です、大丈夫ですよ」
ドアの影でためらうフレイアさんの背中をマリーがポンと押して、若干たたらを踏む感じで姿を現した彼女を見て、男性陣がざわつきました。
「えっ……本当に、さっきの怪力の人?」
「よくお似合いですよ、素敵ですね」
言うまでもなく、失礼な方がハドル、穏やかな物言いの方がカーロスです。
ドルクさんは―――言葉を失った様子で、フレイアさんを見つめていました。
そんな彼の表情を見て、何故か―――私は自分の胸が締めつけられるような錯覚に囚われました。
どうしてでしょう。フレイアさんを美しく着飾れてとても楽しかったし、嬉しかったのに。それをこうしてお披露目して、その手応えを感じることが出来て、満たされるはずなのに。どうして。
フレイアさんを見つめるドルクさんの瞳が、言葉にならない熱い想いを内包しているのが分かりました。彼が彼女に仕事のパートナー以上の特別な感情を抱いているのがその瞬間に伝わって、何だか―――自分でもよく分からない感情が胸の中に渦巻いて、溢れ出そうになって―――困りました。
「―――へ、変じゃない?」
ためらいがちにそう尋ねたフレイアさんに、ドルクさんが我に返った様子でこう答えました―――春の陽だまりを思わせるような、とても優しい、温かな表情で―――愛おしさの込められた、柔らかな声で。
「……綺麗ですよ。とても」
その光景を直視出来なくて、何ともいたたまれない気持ちになった私は、そっと客間を離れました。
「エリス様?」
「ちょっと、お手洗いに―――」
ドアの傍らに控えていたマリーにそう言い置いて、足早に、行きたいわけではないお手洗いへと向かいます。向かいながら、ひとりでに涙がぽろぽろとこぼれ落ちて頬を濡らしていきました。
―――いやだわ。何、これっ……。
「お嬢さん」
「きゃっ!?」
その時、かけられると思っていなかった声を後ろからかけられて、私はびくっと肩をすくませました。振り返るとそこにはハドルが立っていて、精悍な顔をしかめながら私を見つめています。
「……何て顔をしてるんですか、あんた」
「ハドル!? あ、あ―――これ、は―――」
思いがけない彼の登場と泣き顔を見られたことにパニックになって慌てて手の甲で涙を拭っていると、無造作にハンカチを手渡されました。
「様子が変だったから、追ってきたんですよ」
意外な彼の気遣いに、私は思わず涙に濡れた瞳を瞬かせました。
予想もしなかった展開だわ。あのぞんざいなハドルから、ハンカチが出て来るなんて。
「……。ハドルって、ハンカチを持っているのね」
「何ですか、その言い方! いらないなら返して下さい」
「そうは言っていないじゃない……ありがたくお借りするわ」
彼のハンカチで遠慮なく涙を拭きついでに鼻をかんでやると、「うわっ、きったね!」とのけ反られてしまいました。
「ちゃんと洗ってから返すわよ……」
「マリーがね」
「い、いくらなんでもこんなのマリーにお願いしません! ちゃんと自分で洗うわ」
「洗えるんですか?」
「またそうやって私を蔑んで……私だって、やれば出来ることはたくさんあるんです」
「今日のお忍びみたいに失敗しないようにお願いしますよ」
うう……相変わらず嫌なところを突いてくるわね。
「ドルクっていうお客人に聞きましたよ。危ない目に遭ったそうじゃないですか」
ハドルの口からこぼれたドルクさんの名前に心臓が反応して、引っ込んでいた涙が再びじわっと滲んできてしまいました。そんな私を見やりながらハドルが尋ねます。
「……。ケガはなかったんですか」
「ええ……ドルクさんに助けていただいたから……」
「次からは控えて下さいよ。買い物に行きたければオレがお供しますから。……いったい、何がそんなに買いたかったんですか」
それは口が裂けても言えない理由でした。ハドルには。
彼の問いかけをはぐらかしたくて、私は深く考えずに思いつくまま口を開いたのです。
「ハドル、人が吹き飛ぶのって見たことある? 私、今日初めて見たの。ドルクさん、とても強かったのよ。刃物を持って襲いかかってきた相手を、こう、拳で―――圧巻だったわ。危機に陥った私を颯爽と現れて救ってくれた彼を見て、昔童話で読んだ王子様を思い出したの。まるで王子様がそのまま絵本から抜け出てきて、私を救ってくれたみたいって―――子供みたいに、そんなことを思ってしまったのよ」
「……。王子様、ねぇ―――だとしたらオレはさしずめ、間抜けな家臣ってトコですね。主がこっそり出掛けたことにも気が付かず、屋敷でのほほんと仕事に従事してた」
彼の声に強い自嘲が滲んだことに私は驚いて、慌てて言い募りました。
「そういう意味で言ったわけじゃないのよ、気付かれないように行動したのは私なんだし、ハドルのせいじゃ」
「だが、結果的にあんたは危険な目に遭った! 気付かなきゃいけなかったんだ」
いつになく強い口調で言葉を遮られ、私は息を飲みました。ハドルの亜麻色の瞳が苦い光に揺れているのが分かります。
ハドル?
「お嬢さん、あんた、自分がどうして泣いちまったのか分かってる?」
「え?」
「気付いたからだろう? あの男が自分の王子様じゃないって。彼が護りたい女は別にいるんだって」
「えっ……」
私は絶句して目の前のハドルを見つめました。
彼の言葉がまるで抜け落ちていたピースのように自分の中でカチリとはまって、これまでの感情に答えを見出させたからです。
いやだ、私―――私、ドルクさんをそういう目で……。
真っ赤になって両手で口元を覆う私をどこか傷付いたような眼差しで見やり、ハドルは吐き出すようにして言いました。
「危ないところをカッコいい男に助けられりゃ、あんたみたいな世間知らずのお嬢は一発で惚れちまうよな。ありがちな話だよ。初恋が実らなくて、残念だったな」
どうしてでしょう。ひどいことを言われたのに、そう言い放った彼の方が何故だかひどく傷付いているように見えて、私は何も言い返せませんでした。
ぎゅっと唇を結び、立ち去っていくハドルの後ろ姿を見送りながら私の胸に去来したのは怒りではなく、戸惑いと、大きな後悔の念でした。
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