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虚夢の館
03
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残念会がお開きになったのは深夜だった。
泥酔したリルムを背負ったアレクシス達と別れ、宿の部屋の前でドルクと解散して、備え付けの部屋着に着替えベッドの上に倒れこむと、深い吐息がもれた。
あー……何だか疲れたなぁ。仕事の話がなくなって思ったより飲んじゃったし。
そのまま眠りにつきたくなるのを堪えてシャワーを浴びに行き、歯を磨いてベッドに潜り込むと、ほどなくしてわたしは深い眠りに吸い込まれていった。
ふと目が覚めたのはまだ太陽が昇る前だった。飲み過ぎてトイレに行きたくなったのだ。
強烈に眠たかったし面倒くさかったけどそうも言っていられないので部屋を出てトイレに行き、再び部屋に戻って来た時、どことなく違和感を覚えて、わたしは内心小首を傾げた。
あれ?
部屋……間違ってないよな? ベッドは空だし、さっきまで自分が寝ていたぬくもりもある。
気のせいか……。
そう結論づけて布団にくるまると、何だか落ち着く香りがした。たちまち心地良い睡魔が襲ってきて、それ以上考えることもなくわたしは再び夢の世界へと落ちていった。
「……フレイア」
夢の中で、ドルクの声が聞こえる。
「フレイア……フレイア、起きて下さい」
「ん……ドルク……まだ、夜だよ……寝よ……」
虚影の仕事はなくなったんだし……今夜はゆっくりと寝て、明日の朝はちょっと寝坊しちゃおうか……。
トイレから部屋へと戻ってきたオレは、自分の目を疑った。
何故か、フレイアがオレのベッドの上で安らかな寝息を立てている。
驚いて部屋を確認するが、室内に置いてある荷物はオレのものだ。隣の彼女の部屋は鍵が開けっ放しになっていて、空のベッドが物悲し気に主の帰還を待っていた。
―――まったく、この女は……。
「フレイア……フレイア、起きて下さい」
名前を呼んでゆすり起こそうとするが、全く起きる気配がない。
「フレイア……起きて下さい、起きないと襲いますよ」
辛抱強くゆすって声をかけ続けると、ようやく彼女が反応した。
「ん……ドルク……まだ、夜だよ……寝よ……」
目も開けず寝ぼけた口調でそれだけ言って、再び深い眠りの中に落ちていく。それっきり、声をかけても反応しなくなった。
有り得ない……無防備すぎるだろう。
オレは深い溜め息をついて隣の彼女の部屋へ行き、小机の上に置かれていた鍵を使って施錠した。一瞬こちらで寝ようかとも思ったが、そんな気を遣うのもバカバカしい気分になり、自分の部屋へ戻って鍵を閉める。
朝になって大いに反省すればいい、そしてどうか自戒してくれ、これを他人の部屋でやられてはたまらない。
眠るフレイアの傍らに身体を滑りこませても、彼女は目を覚まさなかった。逆に言えばそれだけオレの気配に気を許しているということか。何とも言えない、複雑な気持ちだ。
そんなことを思いながら、規則的な呼吸を刻む彼女の寝顔に視線をやる。
まるで警戒感のないその顔と感じる彼女のぬくもりに、今夜はもう眠れないと諦めの境地に至った。
太陽の光を感じて目覚めると、そこにあるはずのない整った容貌があって、寝起きのわたしは目を見開いたまま硬直した。
……え?
さらさらと額に流れるこげ茶色の髪。こちらを見つめる髪と同色の大きな双眸が、朝の光を映して煌めいている。
えっ? ド……ドルク、か!?
彼だと気が付くのに一拍遅れたのは、いつもは整髪料で立ち上がっている前髪が額に下りていたからだ。前髪を下ろすと、ただでさえ年齢より幼く見える彼の顔はより幼気になって、愛くるしい感じすらした―――だが、それはあくまで外見の話になるのであって。
「わぁっ!?」
―――何でドルクが!?
遅まきながら小さく叫んで飛び起きると、重い溜め息をつかれた。
「先に言っておきますけど、ここ、オレの部屋ですから」
「えっ!?」
わたしは再び驚いて室内を見渡し、そこが確かに彼の部屋であることを確認する。
あれっ!? な、何で!? 昨日トイレに行って、戻ってきて―――。
「昨夜トイレに行って戻ってきたらあなたがオレのベッドで寝ていたんです。何度も起こしたんですが、起きなくて」
言われてみれば、トイレから部屋へ戻ってきた時、違和感を感じたような覚えがある。夢の中でドルクの声を聞いたような気もする。
「おかげで眠れませんでした」
「ゴ……ゴメン、わたし、寝ぼけて……」
うわー、本当に!? 有り得ないだろう、わたし!!
いったいどれだけぼんやりしているんだ。心の中で頭を抱える。
「勘弁して下さいよ……寝不足と生殺しのダブルパンチです」
言いながらドルクはゆっくりと半身を起こして正面からわたしの瞳を捉えた。
「あなたが起きるまで我慢した褒美を下さい」
寝不足で赤らんだ眦がどこか色っぽく、子犬のような愛らしい彼の容貌を妖しく彩って、危うい魔狼のそれへと変化させた。
「あ……頭でもなでればいいのか?」
それでは済まないだろうと思いながらも、後退るのは逆に危険なような気がして、敢えて自分から手を伸ばすと、彼はそれを受け入れた。
初めて触れるドルクの髪は艶やかでさらりとした触り心地だった。さらさらとしたこげ茶色の髪を自分の指が滑る感触と、それをじっと見つめる彼の視線に、言いようのない恥ずかしさが込み上げてくる。
「こ、これでいい?」
耐え切れず切り上げようとしたわたしの腕をドルクが掴んで、不敵に笑った。
「これで済むと思います?」
思わない、思わないけど、わぁっ!
掴まれた腕をぐっと引き寄せられて抱きしめられ、鼓動が跳ねる。
薄いスウェット素材の部屋着は密着した彼の硬い感触を余すところなく伝えてきて、どうしようもなく男性としての彼を意識させた。まずい、ドキドキしているのがドルクに伝わる、とあせっていると、耳元で囁かれた内容にそれどころでなくなった。
「寝る時は上の下着を着けないんですね……」
当たり前だけどこっちの感触も向こうに伝わっているんだ、と遅ればせながら悟って、カッと頬が火照る。
「やっ、も、もう離せって !」
「ひと晩我慢したんです、もう少し堪能したいんですけど」
「ダメだ!」
真っ赤になって身じろぎすると、薄く笑われた。
「自戒して下さい。間違っても他の男の部屋で寝ないように」
「わ、分かった! 猛省する、次からは気を付けるから!」
「次があったら、襲いますよ……」
冗談めかして言っているけどコレ本気だ! 声に本気がこもっている、次は狩られる!
ああ、でも今はそれよりも何よりもこの状況がいたたまれない。早く離してほしい!
「分かった! 分かったから離せって! 」
頬を紅潮させてわめくとわたしを閉じ込めていたドルクの腕が緩んだ。ホッとしたのも束の間、眦の赤らんだ魔性の双眸に至近距離で囚われて、ドクンッと心臓が反応する。
―――キスされる!?
わたしはとっさに両手で自分の口元を覆った。
やだ! 起き抜けだし、昨日さんざん飲んじゃってるし、匂うかも! 無理!!
「……その反応、傷付くんですけど」
ドルクが憮然とした面持ちになる。
「ダメなんですか?」
「ダ、ダメも何も、わたし達はそんな、そういう関係じゃないだろっ……! 」
「でも、何度もキスしているのに?」
甘く見据えられ、にじり寄られて、腰が引ける。
そ、それはそうだけど! そうなんだけど! そういう問題でもないと思うし!
「オレはあなたが好きなんですけど」
それも、分かっているけど!
「ひと晩我慢し続けて限界なんです。せめて、あなたにキスしたい」
どっ、どうしてそう押しが強いんだ、この男はっ!?
ドルクのプレッシャーに負けて、いつの間にかヘッドボードまで追い詰められてしまった。
マズい! どうにか切り抜けないと……!
あせりながら目まぐるしく頭を働かせ、するりと出てきたのが昨日のリルムの言葉だった。
「赤い髪……」
口元を覆ったまま呟きながら、わたしは正面のドルクを見やった。
「ドルク……あんた、赤い髪が好きなの?」
「……? どういうことですか?」
唐突なわたしの質問に理解がおぼつかない、といった様子でドルクが言葉を返す。
「リルムが昨日言ってた。今まであんたが関係を持った女はだいたい赤い髪要素を持ってるんだって」
「リルムが?」
またあいつは、と言いたげなドルクの表情。
「そうなの?」
「オレには特別そんな覚えはないんですけど……待って下さい」
溜め息混じりにドルクが記憶をさらうような仕草を見せた。
「…………」
長い。間が! 長いんだけど!
「もういい……」
わたしは嘆息して遮った。
出会った時から女慣れしているヤツだとは思ってたけど、どんだけ食い散らかしてきているんだ!
「リルムの予想では、多分過去にすごく好きな赤毛の女がいたんだろうって。その女が忘れられなくて、今もその女の面影を求めているんだろうって」
「へぇ……それを聞いて嫉妬してくれたんですか?」
「嫉妬!? 誰が!?」
「あなたが」
人を食ったような顔で言われて、わたしはいきり立った。
「何でわたしが! 」
「さあ? オレのことを意識してくれているからだと思いたいところですけど」
「別に、わたしは―――! 」
言いながら目を逸らしてしまったのは、予想外にリルムの言葉が引っ掛かっていた自分を意識したからだ。そこをドルクに掬われた。
「あっ……! 」
枕の上に柔らかくひっくり返され、口元を覆っていた手を握りこまれて、上から彼に見つめられるような構図になる。
「オレが心を囚われたのは、後にも先にも、あなた一人だけですよ……あなたが例え金髪でも、黒髪でも、関係ないんです。オレはあなたが好きなんだ、あなたが纏う要素を、好きになるんです」
大きなこげ茶色の双眸が真摯な光を帯びて、わたしへの気持ちを真っ直ぐに向けてくる。どうしてだろう。彼の言葉に嘘はないのだと全身全霊で感じてしまった。
これ以上ないほどに頬が上気する。本当に湯気を噴きかねない、というくらい全身が熱くなった。
「……そんな台詞言ってて、恥ずかしくないの」
むずがゆさに耐えかねて可愛げのない態度を取ると、余裕の表情で微笑まれた。
「あなたの前では平気ですね。むしろ言いたくなるみたいです」
ゆっくりとドルクの顔が近付いてくる。わたしは大いにあせって、ひどく困って、精一杯顔をそむけながら哀願に近い声を上げた。
「ダメッ、起き抜けだし、昨日さんざん飲んでいるし……! 」
「それが拒んだ理由ですか? お互い同じ条件なのに……可愛いですね」
頬にキスされて、わざと顎の辺りをすり寄せられた。微かに伸びたひげの当たる感触がして、彼の男性的な部分を意識させられ、鼓動が一層不規則になる。
「ド……ドルクッ……」
ヤバい。心臓がどうにかなりそう……!
「フレイア」
ドルクがわたしの名前を呼んだ。わたしを甘やかすような優しい声音に、感情が大きく揺さぶられる。そろりと彼に視線を戻すと、こちらを見据える魔性の双眸に捕まった。
―――ああ。
逃げられない―――直感すると同時に、身体から力が抜けた。
ドルクの影の下で観念したように瞼を閉じたわたしの唇に彼の熱いそれが重なると、もはや馴染んだ感触に胸が震えた。深く口づけられると、胸から下腹部にかけて甘い痺れが走るような、きゅっとしなるような感覚に、身体がわなないた。
ああ……何、これっ……。
「んんっ……」
ドルクの腕の中で無力な少女のようになる自分を感じる。
蕩けそうだ。どうしよう。唇を重ねる度、彼のキスに翻弄され、浸食されていく。
どこか怖いくらいの心地良さに溺れそうになりながら、わたしはギリギリ保った理性の中で、キスの合間に切れ切れに尋ねた。
「ど……どうして、んっ……そんな、ん……わたしのことを……?」
それがどうしても分からない。
出会う前から互いの存在には気が付いていた。わたしは会ったこともない「ランヴォルグ」に淡い想いを抱いていたし、もしかしたら、ドルクの方もそんな想いをわたしに対して抱いてくれていたのかもしれない。
けれど、実際の出会いは最悪だった。
なのに、そこから、どうして―――?
ドルクはわたしの瞳に魅せられた、と言ってくれたけど、出会ってからほぼ醜態しか晒していなかったわたしに、彼ほどの男がこれほどまでに心寄せてくれるものだろうか……?
そんな思いが心の片隅にずっとあったから、リルムの言葉があんなに引っ掛かった。
彼が過去に想いを寄せていた誰かの面影をわたしに重ねていたなら、理解出来ると、そう思ってしまったのだ。でもさっき、それは違うと分かった。
なら、どうして……?
「あなたへの想いを、言葉で表現するのは難しいですね……」
唇が触れるか触れないかという距離で、ドルクが囁く。
「理屈ではなく、感情が引きずられるんです。あなたといると、オレ自身知らなかった自分が次々に出てくる。“こう”だと思っていた自分自身が破壊されるんです。いっそ痛快なくらいに」
どこか自嘲気味にそう言って、彼はわたしの頬をなでた。
「直情型で、嫉妬深くて、臆面もなく恥ずかしい台詞を口にする。以前のオレからは考えられませんよ……」
「そう……なの……?」
「怖いくらいです。あなたに向かう際限のないこの感情が……」
言いながら軽く唇を合わせて離し、今度はドルクがわたしに尋ねた。
「あなたは……どうなんですか? まだ、『ランヴォルグ』への気持ちが褪せませんか……?」
わたし……? わたしは……。
彼に問われて、改めて自分の気持ちを考える。
「ランヴォルグ」とドルクが同一人物であることを知った時は「ランヴォルグ」が突然別人格になって現れたような感じがしてひどく混乱したけれど、同じ時を過ごすうちにわたしの中の「ランヴォルグ」とドルクには重なる部分が確かにあって、リルム達のようにドルクを「ランヴォルグ」と認識する様々な人達にも出会い、今ではドルクは「ランヴォルグ」なのだと、わたしの中でも矛盾なく認識されるようになってきていた。
わたしが勝手に作り上げ、何年もの間想ってきた理想像の「ランヴォルグ」と、現実の生身のドルク。
ドルクのことは嫌いじゃない。むしろ好意を抱いているんだと思う。だって……でなければ、彼とこんな行為に及ぶわけがない。
ただ、まだ一歩踏み込めていない。先の件があって、どこかドルクに対してブレーキをかけている自分がいる。
踏み込んでしまったら、多分もう戻れない。際限なく溺れていく。確信めいたそんな予感に囚われて、腰が引け、どうにか見極めようとあがいている臆病な自分。唐突に、それに気が付いてしまった。
ああ、そうか……わたしは、自分に自信がないのか。リルムみたいないかにも女性らしい女性達と数々の関係を結んできた彼が、どうしてこんなにも自分に執着してくれるのか分からなくて、怖いんだ。彼への気持ちを、その想いの深さを認め、飛び込んでいくことが。
「……ドルクが『ランヴォルグ』であることはもう、わたしの中で矛盾はないんだ……ただ、まだ完全に整理がつかなくて、戸惑っているところがあるんだ……」
ずるいな、わたしは……ドルクはこんなにわたしへの気持ちを曝け出してくれているのに。
「今はまだ、それでいいですよ……あなたの中で『オレ』がひとつになったのなら、前進した、と言えるんでしょうから……」
ドルクはそう言ってずるいわたしの言い分を受け入れてくれた。
再び唇を重ねながら、頬にあったドルクの手が首筋をなでるようにして下りていく。甘い戦慄が走り、思わずそちら側の肩をすくめるようにすると、反対側の首筋に彼の唇が這わされて、わたしは背筋を震わせた。
「やっ……! キスだけって……!」
「キスだけですけど……?」
嘯きながらドルクはわたしのスウェットの襟ぐりを引っ張り、口づけている方の肩を露出させた。
「ちょっ!」
驚きの声を上げたわたしは、その先の言葉を続けられなかった。肩口を甘噛みされ、官能を煽るように舌先で刺激されて、噛み殺すようにした吐息だけが熱くもれる。
ウソ……! 肩が、こんなに感じるなんて……!
知らなかった。優しく歯を当てられるとゾクゾクする。
「……っ」
わたしはいつものように防戦一方を強いられた。目をつぶって眉をひそめ、頬を紅潮させて与えられる刺激に耐えながら、声だけは漏らさないように唇をきつく結んでいると、低く笑ってキスされた。わたしの反応を堪能し終えたドルクの唇は鎖骨へと移動して、中心の丸いくぼみへ吸いつくようにたどり着いた。
時折肌に触れる彼の前髪がくすぐったい。わざと濡れた音を立ててくぼみに口づけられ、薄く目を開けると、自分の胸の隆起の少し上にドルクが口づけている様子が見えた。刺激の強い光景に、息を飲む。薄いスウェットを胸の先端が押し上げているのが見取れて、彼から見える光景を想像すると恥ずかしくたまらなくなった。
「ダ、ダメッ……! もう……ダメだ、ドルク!」
余裕のない声を上げて身じろぎするわたしを情欲に濡れた瞳で見下ろし、ドルクは残念です、と小さく笑った。
「ここまでですか」
「終わりだ!」
「……出来ればここまでたどり着いて、可愛らしい声を聞きたかったんですが」
ちらりと胸に視線をやられて、わたしは反射的に手でそこを覆い隠した。すると胸を覆ったわたしの手の甲にドルクが唇を押し当てるようにしてきて、思わずびくっと反応してしまった。
「あっ……!」
「今回はこれで我慢しておきます」
したり顔で言われて、羞恥に頬が染まる。
こっ……この、子犬の皮を被った狼め!
「―――っ、へっ、部屋へ戻る!」
狼から解放されたわたしは、頭のてっぺんから足のつま先まで真っ赤に染まりながら、逃げるようにして彼の部屋を後にした。
その後、自分の部屋の鍵が閉まっているのに気が付いて、気まずい面持ちで再び彼の部屋を訪れることになるのだけど―――。
泥酔したリルムを背負ったアレクシス達と別れ、宿の部屋の前でドルクと解散して、備え付けの部屋着に着替えベッドの上に倒れこむと、深い吐息がもれた。
あー……何だか疲れたなぁ。仕事の話がなくなって思ったより飲んじゃったし。
そのまま眠りにつきたくなるのを堪えてシャワーを浴びに行き、歯を磨いてベッドに潜り込むと、ほどなくしてわたしは深い眠りに吸い込まれていった。
ふと目が覚めたのはまだ太陽が昇る前だった。飲み過ぎてトイレに行きたくなったのだ。
強烈に眠たかったし面倒くさかったけどそうも言っていられないので部屋を出てトイレに行き、再び部屋に戻って来た時、どことなく違和感を覚えて、わたしは内心小首を傾げた。
あれ?
部屋……間違ってないよな? ベッドは空だし、さっきまで自分が寝ていたぬくもりもある。
気のせいか……。
そう結論づけて布団にくるまると、何だか落ち着く香りがした。たちまち心地良い睡魔が襲ってきて、それ以上考えることもなくわたしは再び夢の世界へと落ちていった。
「……フレイア」
夢の中で、ドルクの声が聞こえる。
「フレイア……フレイア、起きて下さい」
「ん……ドルク……まだ、夜だよ……寝よ……」
虚影の仕事はなくなったんだし……今夜はゆっくりと寝て、明日の朝はちょっと寝坊しちゃおうか……。
トイレから部屋へと戻ってきたオレは、自分の目を疑った。
何故か、フレイアがオレのベッドの上で安らかな寝息を立てている。
驚いて部屋を確認するが、室内に置いてある荷物はオレのものだ。隣の彼女の部屋は鍵が開けっ放しになっていて、空のベッドが物悲し気に主の帰還を待っていた。
―――まったく、この女は……。
「フレイア……フレイア、起きて下さい」
名前を呼んでゆすり起こそうとするが、全く起きる気配がない。
「フレイア……起きて下さい、起きないと襲いますよ」
辛抱強くゆすって声をかけ続けると、ようやく彼女が反応した。
「ん……ドルク……まだ、夜だよ……寝よ……」
目も開けず寝ぼけた口調でそれだけ言って、再び深い眠りの中に落ちていく。それっきり、声をかけても反応しなくなった。
有り得ない……無防備すぎるだろう。
オレは深い溜め息をついて隣の彼女の部屋へ行き、小机の上に置かれていた鍵を使って施錠した。一瞬こちらで寝ようかとも思ったが、そんな気を遣うのもバカバカしい気分になり、自分の部屋へ戻って鍵を閉める。
朝になって大いに反省すればいい、そしてどうか自戒してくれ、これを他人の部屋でやられてはたまらない。
眠るフレイアの傍らに身体を滑りこませても、彼女は目を覚まさなかった。逆に言えばそれだけオレの気配に気を許しているということか。何とも言えない、複雑な気持ちだ。
そんなことを思いながら、規則的な呼吸を刻む彼女の寝顔に視線をやる。
まるで警戒感のないその顔と感じる彼女のぬくもりに、今夜はもう眠れないと諦めの境地に至った。
太陽の光を感じて目覚めると、そこにあるはずのない整った容貌があって、寝起きのわたしは目を見開いたまま硬直した。
……え?
さらさらと額に流れるこげ茶色の髪。こちらを見つめる髪と同色の大きな双眸が、朝の光を映して煌めいている。
えっ? ド……ドルク、か!?
彼だと気が付くのに一拍遅れたのは、いつもは整髪料で立ち上がっている前髪が額に下りていたからだ。前髪を下ろすと、ただでさえ年齢より幼く見える彼の顔はより幼気になって、愛くるしい感じすらした―――だが、それはあくまで外見の話になるのであって。
「わぁっ!?」
―――何でドルクが!?
遅まきながら小さく叫んで飛び起きると、重い溜め息をつかれた。
「先に言っておきますけど、ここ、オレの部屋ですから」
「えっ!?」
わたしは再び驚いて室内を見渡し、そこが確かに彼の部屋であることを確認する。
あれっ!? な、何で!? 昨日トイレに行って、戻ってきて―――。
「昨夜トイレに行って戻ってきたらあなたがオレのベッドで寝ていたんです。何度も起こしたんですが、起きなくて」
言われてみれば、トイレから部屋へ戻ってきた時、違和感を感じたような覚えがある。夢の中でドルクの声を聞いたような気もする。
「おかげで眠れませんでした」
「ゴ……ゴメン、わたし、寝ぼけて……」
うわー、本当に!? 有り得ないだろう、わたし!!
いったいどれだけぼんやりしているんだ。心の中で頭を抱える。
「勘弁して下さいよ……寝不足と生殺しのダブルパンチです」
言いながらドルクはゆっくりと半身を起こして正面からわたしの瞳を捉えた。
「あなたが起きるまで我慢した褒美を下さい」
寝不足で赤らんだ眦がどこか色っぽく、子犬のような愛らしい彼の容貌を妖しく彩って、危うい魔狼のそれへと変化させた。
「あ……頭でもなでればいいのか?」
それでは済まないだろうと思いながらも、後退るのは逆に危険なような気がして、敢えて自分から手を伸ばすと、彼はそれを受け入れた。
初めて触れるドルクの髪は艶やかでさらりとした触り心地だった。さらさらとしたこげ茶色の髪を自分の指が滑る感触と、それをじっと見つめる彼の視線に、言いようのない恥ずかしさが込み上げてくる。
「こ、これでいい?」
耐え切れず切り上げようとしたわたしの腕をドルクが掴んで、不敵に笑った。
「これで済むと思います?」
思わない、思わないけど、わぁっ!
掴まれた腕をぐっと引き寄せられて抱きしめられ、鼓動が跳ねる。
薄いスウェット素材の部屋着は密着した彼の硬い感触を余すところなく伝えてきて、どうしようもなく男性としての彼を意識させた。まずい、ドキドキしているのがドルクに伝わる、とあせっていると、耳元で囁かれた内容にそれどころでなくなった。
「寝る時は上の下着を着けないんですね……」
当たり前だけどこっちの感触も向こうに伝わっているんだ、と遅ればせながら悟って、カッと頬が火照る。
「やっ、も、もう離せって !」
「ひと晩我慢したんです、もう少し堪能したいんですけど」
「ダメだ!」
真っ赤になって身じろぎすると、薄く笑われた。
「自戒して下さい。間違っても他の男の部屋で寝ないように」
「わ、分かった! 猛省する、次からは気を付けるから!」
「次があったら、襲いますよ……」
冗談めかして言っているけどコレ本気だ! 声に本気がこもっている、次は狩られる!
ああ、でも今はそれよりも何よりもこの状況がいたたまれない。早く離してほしい!
「分かった! 分かったから離せって! 」
頬を紅潮させてわめくとわたしを閉じ込めていたドルクの腕が緩んだ。ホッとしたのも束の間、眦の赤らんだ魔性の双眸に至近距離で囚われて、ドクンッと心臓が反応する。
―――キスされる!?
わたしはとっさに両手で自分の口元を覆った。
やだ! 起き抜けだし、昨日さんざん飲んじゃってるし、匂うかも! 無理!!
「……その反応、傷付くんですけど」
ドルクが憮然とした面持ちになる。
「ダメなんですか?」
「ダ、ダメも何も、わたし達はそんな、そういう関係じゃないだろっ……! 」
「でも、何度もキスしているのに?」
甘く見据えられ、にじり寄られて、腰が引ける。
そ、それはそうだけど! そうなんだけど! そういう問題でもないと思うし!
「オレはあなたが好きなんですけど」
それも、分かっているけど!
「ひと晩我慢し続けて限界なんです。せめて、あなたにキスしたい」
どっ、どうしてそう押しが強いんだ、この男はっ!?
ドルクのプレッシャーに負けて、いつの間にかヘッドボードまで追い詰められてしまった。
マズい! どうにか切り抜けないと……!
あせりながら目まぐるしく頭を働かせ、するりと出てきたのが昨日のリルムの言葉だった。
「赤い髪……」
口元を覆ったまま呟きながら、わたしは正面のドルクを見やった。
「ドルク……あんた、赤い髪が好きなの?」
「……? どういうことですか?」
唐突なわたしの質問に理解がおぼつかない、といった様子でドルクが言葉を返す。
「リルムが昨日言ってた。今まであんたが関係を持った女はだいたい赤い髪要素を持ってるんだって」
「リルムが?」
またあいつは、と言いたげなドルクの表情。
「そうなの?」
「オレには特別そんな覚えはないんですけど……待って下さい」
溜め息混じりにドルクが記憶をさらうような仕草を見せた。
「…………」
長い。間が! 長いんだけど!
「もういい……」
わたしは嘆息して遮った。
出会った時から女慣れしているヤツだとは思ってたけど、どんだけ食い散らかしてきているんだ!
「リルムの予想では、多分過去にすごく好きな赤毛の女がいたんだろうって。その女が忘れられなくて、今もその女の面影を求めているんだろうって」
「へぇ……それを聞いて嫉妬してくれたんですか?」
「嫉妬!? 誰が!?」
「あなたが」
人を食ったような顔で言われて、わたしはいきり立った。
「何でわたしが! 」
「さあ? オレのことを意識してくれているからだと思いたいところですけど」
「別に、わたしは―――! 」
言いながら目を逸らしてしまったのは、予想外にリルムの言葉が引っ掛かっていた自分を意識したからだ。そこをドルクに掬われた。
「あっ……! 」
枕の上に柔らかくひっくり返され、口元を覆っていた手を握りこまれて、上から彼に見つめられるような構図になる。
「オレが心を囚われたのは、後にも先にも、あなた一人だけですよ……あなたが例え金髪でも、黒髪でも、関係ないんです。オレはあなたが好きなんだ、あなたが纏う要素を、好きになるんです」
大きなこげ茶色の双眸が真摯な光を帯びて、わたしへの気持ちを真っ直ぐに向けてくる。どうしてだろう。彼の言葉に嘘はないのだと全身全霊で感じてしまった。
これ以上ないほどに頬が上気する。本当に湯気を噴きかねない、というくらい全身が熱くなった。
「……そんな台詞言ってて、恥ずかしくないの」
むずがゆさに耐えかねて可愛げのない態度を取ると、余裕の表情で微笑まれた。
「あなたの前では平気ですね。むしろ言いたくなるみたいです」
ゆっくりとドルクの顔が近付いてくる。わたしは大いにあせって、ひどく困って、精一杯顔をそむけながら哀願に近い声を上げた。
「ダメッ、起き抜けだし、昨日さんざん飲んでいるし……! 」
「それが拒んだ理由ですか? お互い同じ条件なのに……可愛いですね」
頬にキスされて、わざと顎の辺りをすり寄せられた。微かに伸びたひげの当たる感触がして、彼の男性的な部分を意識させられ、鼓動が一層不規則になる。
「ド……ドルクッ……」
ヤバい。心臓がどうにかなりそう……!
「フレイア」
ドルクがわたしの名前を呼んだ。わたしを甘やかすような優しい声音に、感情が大きく揺さぶられる。そろりと彼に視線を戻すと、こちらを見据える魔性の双眸に捕まった。
―――ああ。
逃げられない―――直感すると同時に、身体から力が抜けた。
ドルクの影の下で観念したように瞼を閉じたわたしの唇に彼の熱いそれが重なると、もはや馴染んだ感触に胸が震えた。深く口づけられると、胸から下腹部にかけて甘い痺れが走るような、きゅっとしなるような感覚に、身体がわなないた。
ああ……何、これっ……。
「んんっ……」
ドルクの腕の中で無力な少女のようになる自分を感じる。
蕩けそうだ。どうしよう。唇を重ねる度、彼のキスに翻弄され、浸食されていく。
どこか怖いくらいの心地良さに溺れそうになりながら、わたしはギリギリ保った理性の中で、キスの合間に切れ切れに尋ねた。
「ど……どうして、んっ……そんな、ん……わたしのことを……?」
それがどうしても分からない。
出会う前から互いの存在には気が付いていた。わたしは会ったこともない「ランヴォルグ」に淡い想いを抱いていたし、もしかしたら、ドルクの方もそんな想いをわたしに対して抱いてくれていたのかもしれない。
けれど、実際の出会いは最悪だった。
なのに、そこから、どうして―――?
ドルクはわたしの瞳に魅せられた、と言ってくれたけど、出会ってからほぼ醜態しか晒していなかったわたしに、彼ほどの男がこれほどまでに心寄せてくれるものだろうか……?
そんな思いが心の片隅にずっとあったから、リルムの言葉があんなに引っ掛かった。
彼が過去に想いを寄せていた誰かの面影をわたしに重ねていたなら、理解出来ると、そう思ってしまったのだ。でもさっき、それは違うと分かった。
なら、どうして……?
「あなたへの想いを、言葉で表現するのは難しいですね……」
唇が触れるか触れないかという距離で、ドルクが囁く。
「理屈ではなく、感情が引きずられるんです。あなたといると、オレ自身知らなかった自分が次々に出てくる。“こう”だと思っていた自分自身が破壊されるんです。いっそ痛快なくらいに」
どこか自嘲気味にそう言って、彼はわたしの頬をなでた。
「直情型で、嫉妬深くて、臆面もなく恥ずかしい台詞を口にする。以前のオレからは考えられませんよ……」
「そう……なの……?」
「怖いくらいです。あなたに向かう際限のないこの感情が……」
言いながら軽く唇を合わせて離し、今度はドルクがわたしに尋ねた。
「あなたは……どうなんですか? まだ、『ランヴォルグ』への気持ちが褪せませんか……?」
わたし……? わたしは……。
彼に問われて、改めて自分の気持ちを考える。
「ランヴォルグ」とドルクが同一人物であることを知った時は「ランヴォルグ」が突然別人格になって現れたような感じがしてひどく混乱したけれど、同じ時を過ごすうちにわたしの中の「ランヴォルグ」とドルクには重なる部分が確かにあって、リルム達のようにドルクを「ランヴォルグ」と認識する様々な人達にも出会い、今ではドルクは「ランヴォルグ」なのだと、わたしの中でも矛盾なく認識されるようになってきていた。
わたしが勝手に作り上げ、何年もの間想ってきた理想像の「ランヴォルグ」と、現実の生身のドルク。
ドルクのことは嫌いじゃない。むしろ好意を抱いているんだと思う。だって……でなければ、彼とこんな行為に及ぶわけがない。
ただ、まだ一歩踏み込めていない。先の件があって、どこかドルクに対してブレーキをかけている自分がいる。
踏み込んでしまったら、多分もう戻れない。際限なく溺れていく。確信めいたそんな予感に囚われて、腰が引け、どうにか見極めようとあがいている臆病な自分。唐突に、それに気が付いてしまった。
ああ、そうか……わたしは、自分に自信がないのか。リルムみたいないかにも女性らしい女性達と数々の関係を結んできた彼が、どうしてこんなにも自分に執着してくれるのか分からなくて、怖いんだ。彼への気持ちを、その想いの深さを認め、飛び込んでいくことが。
「……ドルクが『ランヴォルグ』であることはもう、わたしの中で矛盾はないんだ……ただ、まだ完全に整理がつかなくて、戸惑っているところがあるんだ……」
ずるいな、わたしは……ドルクはこんなにわたしへの気持ちを曝け出してくれているのに。
「今はまだ、それでいいですよ……あなたの中で『オレ』がひとつになったのなら、前進した、と言えるんでしょうから……」
ドルクはそう言ってずるいわたしの言い分を受け入れてくれた。
再び唇を重ねながら、頬にあったドルクの手が首筋をなでるようにして下りていく。甘い戦慄が走り、思わずそちら側の肩をすくめるようにすると、反対側の首筋に彼の唇が這わされて、わたしは背筋を震わせた。
「やっ……! キスだけって……!」
「キスだけですけど……?」
嘯きながらドルクはわたしのスウェットの襟ぐりを引っ張り、口づけている方の肩を露出させた。
「ちょっ!」
驚きの声を上げたわたしは、その先の言葉を続けられなかった。肩口を甘噛みされ、官能を煽るように舌先で刺激されて、噛み殺すようにした吐息だけが熱くもれる。
ウソ……! 肩が、こんなに感じるなんて……!
知らなかった。優しく歯を当てられるとゾクゾクする。
「……っ」
わたしはいつものように防戦一方を強いられた。目をつぶって眉をひそめ、頬を紅潮させて与えられる刺激に耐えながら、声だけは漏らさないように唇をきつく結んでいると、低く笑ってキスされた。わたしの反応を堪能し終えたドルクの唇は鎖骨へと移動して、中心の丸いくぼみへ吸いつくようにたどり着いた。
時折肌に触れる彼の前髪がくすぐったい。わざと濡れた音を立ててくぼみに口づけられ、薄く目を開けると、自分の胸の隆起の少し上にドルクが口づけている様子が見えた。刺激の強い光景に、息を飲む。薄いスウェットを胸の先端が押し上げているのが見取れて、彼から見える光景を想像すると恥ずかしくたまらなくなった。
「ダ、ダメッ……! もう……ダメだ、ドルク!」
余裕のない声を上げて身じろぎするわたしを情欲に濡れた瞳で見下ろし、ドルクは残念です、と小さく笑った。
「ここまでですか」
「終わりだ!」
「……出来ればここまでたどり着いて、可愛らしい声を聞きたかったんですが」
ちらりと胸に視線をやられて、わたしは反射的に手でそこを覆い隠した。すると胸を覆ったわたしの手の甲にドルクが唇を押し当てるようにしてきて、思わずびくっと反応してしまった。
「あっ……!」
「今回はこれで我慢しておきます」
したり顔で言われて、羞恥に頬が染まる。
こっ……この、子犬の皮を被った狼め!
「―――っ、へっ、部屋へ戻る!」
狼から解放されたわたしは、頭のてっぺんから足のつま先まで真っ赤に染まりながら、逃げるようにして彼の部屋を後にした。
その後、自分の部屋の鍵が閉まっているのに気が付いて、気まずい面持ちで再び彼の部屋を訪れることになるのだけど―――。
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