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魔眼
02
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出会ったばかりのあまり印象の良ろしくない得体の知れない若い男を、酔っ払って身体の自由が利かない状態で、しかも夜に、自分の部屋へと招き入れている―――常識的にはあり得ないことだよなぁ。
図らずもそんな状況に陥ってしまったわたしは、ふわふわした頭の中でどこか他人事のようにそう考えた。
「鎧、脱ぐの手伝いましょうか?」
わたしをベッドの端に座らせ、ドルクが尋ねてくる。一瞬ためらったけど、彼の態度が極めて事務的だったことと、今の自分の状態ではそれが難しいことが分かったので、考えた末、わたしは頷いた。
「悪い……頼む」
ドルクに手伝ってもらって鎧から解放されると、身体がふわっと楽になった。剣帯も外し、傍らに置く。
「防護スーツはどうしますか?」
鎧の下に着込む防護スーツは特殊な金属を織り込んで作られたもので、首から手首、足首までをひと繋ぎで覆っている。身体を保護する為の適度な厚みがあり、伸縮性もあって身体にフィットする作りになっているが、酔っ払った状態でこれを着て寝るとなると楽な代物ではない。
けれど、この下はもう下着だ。さすがにドルクに脱がせてもらうわけにはいかない。それを判断するくらいの理性はあった。
「いや、いい」
けれど、ハイネックのフィット感が今は辛い。わたしはせめて首元を緩めようと首の後ろにあるファスナーに手を伸ばした。
が、部屋のキーしかり、真っ直ぐに引き下ろすという単純作業が今は出来ない。四苦八苦していると、見かねたらしいドルクが首の下辺りまでファスナーを下ろしてくれた。
呼吸が楽になる。わたしは彼にお礼を言った。
「あ……ありがとう」
「……いえ」
ドルクは部屋に備え付けられた水差しのところまで行くと、コップに水を注いでわたしに差し出してくれた。
「飲みますか?」
「うん……」
酒渇きとでも言えばいいんだろうか。お酒をたくさん飲んだせいでひどく喉が渇いていたから、ありがたかった。酒飲みには酒飲みの気持ちが分かるんだなぁ。
わたしは気だるい眼差しで目の前のドルクを見た。
可愛らしい子犬みたいな造作の童顔男―――思ったより、いいヤツなのかもしれない。
「後は一人で大丈夫ですか?」
「うん、あの……色々悪かった、な。助かったよ、ありがとう」
部屋から出ていこうとするドルクに照れもあって歯切れ悪くお礼を言うと、彼は大きなこげ茶色の瞳を細めて不敵に笑った。
「貸し、ひとつですね」
うう、こいつはどうして普通に言葉を返せないんだ?
その可愛らしい顔で微笑んで「どういたしまして」とか「気にしないで下さい」とか言ってくれれば、こっちだって、ああ実はいいヤツだったんだなって、気持ち良く終われるのに。
さっきまで凪いでいた反発心にも似た負けず嫌いな気持ちが込み上げてくる。
「助けてもらったお礼は言うけど、持ちつ持たれつが世の理だろ? それと、言っておくけど勝負自体は引き分けだから! そこ、間違えないように」
「とんだ負けず嫌いですね。オレはこうして立ってあなたを介抱している、誰が見ても総合的にオレの勝ちと言えると思いますけど?」
やれやれと言いたげなドルクの態度にわたしは歯噛みした。
ムキー! そういう自分だって相当な負けず嫌いだろう!
「わたしのこの体たらくは! 勝負の後の果実酒が原因だから! 勝負自体には負けていない!」
「あれだけ飲んだ後にあんなアルコール度数の高い酒を一気にあおるからですよ。詰めが甘いですね。戦場だったら死んでいるところだ」
うぐぐぐぐ!
「余計なお世話かもしれませんが、急に限界が来るってことがありますから、次回からは少し考えて飲んだ方がいいと思いますよ。試合で勝って勝負に負ける―――実際には試合でも勝てていないわけですけど。そんな有様じゃ『紅蓮の破壊神』の二つ名が泣きますからね」
ついさっき自分がドルクに放った言葉を焼き直しされ、酒の勝負に仕事を引き合いに出され、わたしは顔を赤くした。怒りと恥ずかしさと酔っ払った勢いで頭のメーターが振り切れる。
「調子に乗るなよ! 醜態を晒したのは認めるけどな、仕事で失態は犯さない! 偉そうにわたしに高説垂れるのはランヴォルグの域に達してからにしろ!」
その瞬間、それまで悠然と構えていたドルクの顔から表情が消えた。
「……。どうしてそこでその名前が出てくるんですか」
唇から滑り出した硬質な声。酔っていても感じられる彼の変化にわたしは息をひそめた。
何だ? 急に……。こいつ、ランヴォルグの知り合いなのか?
「……どういう意味だ」
「あなたが口にした男の評判といえば―――残虐非道、冷酷無比、目的を達する為なら手段を選ばない冥府の使者―――通った後には無念の渦巻く骸の道が出来る、というものですよ。しかしさっきのあなたの言い方だと、世間とはまるで逆の感情を抱いているように聞こえる」
それは、そうだ。その通りなのだから。
「同じようなひどい二つ名を持つ者として、そういった下らない噂がいかに当てにならないものなのか知っているからだよ。ランヴォルグは……噂とは正反対の男だ」
「はっ……どうしてそんなことが言えるんですか? 会ったこともない男なのに」
ドルクは口元を歪め、吐き捨てるようにして言った。聞き捨てならないその台詞にわたしは目をすがめる。
「どうしてわたしがランヴォルグを知らないと言える?」
実際はこいつの言う通り会ったこともないわけだけど―――わたしは呼吸を整えながらドルクの表情を窺った。集中しようとしてもしきれない、ぼんやりとした今の状態がひどく呪わしい。
「実際にその男を知っていたら、そんな台詞は吐けないからですよ」
「そういうあんたはランヴォルグの知り合い? 会ったことがあるのか?」
「少なくともあなたよりはその男を知っています」
またこういう問答だ。わたしはイラッとして拳を握り込んだ。
こいつ、まともに喋る気ないな。まともに喋る気がないくせに、まだ見ぬわたしの同志を卑しめるような言い方をして……。
会ったことがなかろうと、わたしはわたし自身が感じてきた、これまでのランヴォルグを知っている!
わたしは義憤に息巻いた。
「あんたが何て言おうが、わたしはわたしなりにランヴォルグの足跡を見てきたんだ。だから彼のことは知っている! 彼は他者を思いやれる心根の優しい人間だ! 下らない世間の評判なんかクソ食らえ!」
感情の迸るまま言葉を叩きつけると、ドルクの大きなこげ茶色の瞳に苛立ちにも似た冷たい光が走った。
「……へえ。ずいぶんと『ランヴォルグ』に入れ込んでいるみたいですね」
うっすらと酷薄な笑みを刷き、ドルクの纏う雰囲気が不穏なものへと変わる。
「……!」
まずい。
直感的に察する。立ち上がろうとしたわたしの肩口にドルクの手がかかり、直後、視界が大きく回転した。同時に叩きつけられる衝撃を背中に感じる。
しまった……!
舌打ち混じりに思いながらも、日頃鍛えられたわたしの身体は反射的に次の対処動作へと動いている。だが、これも相手の方が早かった。腕、足、頭と要所を素早く押さえつけられ、完全に反撃を封じられる。
ベッドの上に仰向けに縫い付けられるような格好になり、わたしは目の前にあるドルクの顔をにらみつけた。
頭突きを警戒してだろう、彼の額はわたしの額に触れるほど近い。顔の横で押さえつけられた両の手首はビクとも動かない。この体勢ではさすがに男の力には負ける。胸から下はドルクの身体でベッドにきつく押し付けられており、密着していて膝を入れる隙間もないから蹴り上げることもかなわない。
「……どういうつもりだ」
牙を剥くようにして低く問いかけると、皮肉げな笑みを返された。
「気が変わりました。やっぱり今、貸しを返してもらおうと思って」
「は?」
わたしは鼻の頭にしわを寄せた。
こいつ、バカにしやがって。酔っ払ってるからって魔眼の女をどうにか出来ると思うなよ!
「……取り乱さないんですね」
「どうして取り乱さないといけないんだ」
わたしをどうにかしようと思うなら、この体勢のままではいられない。ドルクは動かなければならなくなる。その時が反撃の時だ。それまで体力は極力温存するに限る。
「これまでにも、こういうことが?」
わたしの反応にあらぬ誤解を抱いたのか、ドルクが見当違いの問いかけをしてくる。わたしは噛みつくようにして否定した。
「こんなことが頻繁にあってたまるか!」
昔ならいざ知らず、『紅蓮の破壊神』、この不名誉な二つ名を戴いてからは、そもそも女として見られることの方が少ない。ましてやこんなふうに力尽くで押し倒すなど、普通の男には恐ろしくて出来るはずもない。
―――このイカれた物好きめ!
顔が近すぎて見えなかったが、ドルクはふと口元を緩めたようだった。彼の息づかいが唇の辺りに感じられる。
あ―――と思った瞬間、温かく湿った感触に唇を塞がれ、わたしは目を剥いた。まさかそう来るとは思わなかった。
改めて間近にあるドルクの顔をにらみつける。彼も目を開けてこちらを見ていた。
互いに目を開けたまま、わたし達はしばらくそのまま唇を合わせていた。
やがて、わたしの反応を見るようにして、ドルクが角度を変えながら口付けてきた。重ねるだけの軽いキスを何度か繰り返し、次第にそれを深くしていく。
わたしは抗うことなくそれを受けながら、反撃のタイミングを窺っていた。一抹の違和感を覚えながら。
何故、キスなんだろう?
こいつは噛みつかれるリスクを考えないほどバカじゃないだろう。
ドルクが何を考えてこの行為に及んでいるのか分からなかったけど、とりあえず見た目に反してヤツが女慣れしていることだけは分かった。何て言うか……キスの仕方がエロい。
柔らかく食むように、官能を煽るように、強弱をつけてしっとりとほぐすように唇を刺激してくる。
アルコールを大量摂取して血行が良くなっていることも手伝ってか、それを受けているうち唇ばかりか頬まで熱くなってきた。拒絶する意思に反して、硬く力を込めていた唇から力が抜けていくのを感じる。
ううう、くそぅ、我慢だ。舌が入ってきたら思いっきり噛みついてやる!
目を閉じたら何だか負けな気がする。またしても変な勝負スイッチが入り、絶対に目はつぶらないぞ、と奮起した時、ドルクの舌が入ってきた。狙いすまして噛みつこうとしたその刹那、両の手首の拘束が解かれ、一瞬意識がそちらに向く。
ドルクの動きは素早く抜け目なかった。手首の拘束が解かれた次の瞬間には彼の両手がわたしの両頬に添えられ、今度は頭を固定された格好になる。手首は自由になったがその時にはすでに肘の辺りをドルクの前腕で押さえつけられていたので、わたしの手指は無様に空を切るだけで反撃の糸口を掴めない。
噛みつくタイミングを逃してわたしはあせった。深く差し入れられたドルクの舌はわたしの舌を捕えようと追ってくる。逃げながら再び噛みつこうとしたその時、爪先ですうっとうなじをなで上げられ、わたしはびくっと身体を震わせた。
「んんっ!」
思いも寄らなかった方向からの刺激に、くぐもった情けない声がもれる。同時に彼の舌に捕まった。
ああ、くそっ……!
こうなっては噛みつくこともままならない。
両頬を固定されて顔を上向かされているから、左右に首を振って逃げることもかなわない。
舌を絡めるようにしながらドルクが巧みに、濃厚なキスしてくる。
くそっ、こいつ……!
腹立たしいくらい上手い。口中のそこここに甘い痺れが広がり、意思に反して吐息が乱れ始める。
そして、長い。呼吸が苦しくなってきた。
「んうっ……」
執拗なキスが続き、酸欠と深酔いで頭がぼうっとしてくる。目の前が霞みがかり、耳鳴りがし始めて、わたしは本格的にあせった。
マズい……!
職業柄何度か経験しているから分かる。これは意識を失う前兆だ。
まさか、ドルクは始めから気を失わせる目的でわたしにキスをしてきたのか。
冷や汗が全身を流れる。体力の温存とか言っている場合じゃなくなった。
なりふり構っていられなくなり、わたしは全力で抵抗を始めた。ベッドが激しく軋み、派手な音を立てて大きく動く。弾みで押さえつけられていた左腕がドルクの前腕から抜け、わたしは彼の頬を思い切り反対側に押し上げた。同時に自分の顔を左に向け、喘ぐように空気を求める。
が、肺に空気を取り込みきれないうちに引き戻され、再び唇を塞がれた。
「んっ……!」
唯一自由が利く左腕でドルクの胸を突っぱねようとするが、想像以上に厚く頑強な感触に、昏い絶望感を覚える。
酸素不足で激しい抵抗をした代償は大きく、たちまち身体が鉛のように重くなった。呼吸が苦しい。相反するように口腔内に広がるのは、うっとりとするような甘い痺れ―――。
もう、様々な感覚が入り乱れて苦しいのか気持ちいいのか分からない。
たまらずぎゅっと閉じた瞼の裏側で瞬きが散って見えた。ほんの少し前まで絶対に目をつぶるもんか、と思っていたことなど、きれいに頭の中から消し飛んでいる。
ああ、くそっ……まさか、こん、な―――……。
まさか、キスで落とされるなんて。
無念に思う中、やがて全ての感覚があいまいになって、わたしの意識は暗闇へと溶け堕ちていった。
図らずもそんな状況に陥ってしまったわたしは、ふわふわした頭の中でどこか他人事のようにそう考えた。
「鎧、脱ぐの手伝いましょうか?」
わたしをベッドの端に座らせ、ドルクが尋ねてくる。一瞬ためらったけど、彼の態度が極めて事務的だったことと、今の自分の状態ではそれが難しいことが分かったので、考えた末、わたしは頷いた。
「悪い……頼む」
ドルクに手伝ってもらって鎧から解放されると、身体がふわっと楽になった。剣帯も外し、傍らに置く。
「防護スーツはどうしますか?」
鎧の下に着込む防護スーツは特殊な金属を織り込んで作られたもので、首から手首、足首までをひと繋ぎで覆っている。身体を保護する為の適度な厚みがあり、伸縮性もあって身体にフィットする作りになっているが、酔っ払った状態でこれを着て寝るとなると楽な代物ではない。
けれど、この下はもう下着だ。さすがにドルクに脱がせてもらうわけにはいかない。それを判断するくらいの理性はあった。
「いや、いい」
けれど、ハイネックのフィット感が今は辛い。わたしはせめて首元を緩めようと首の後ろにあるファスナーに手を伸ばした。
が、部屋のキーしかり、真っ直ぐに引き下ろすという単純作業が今は出来ない。四苦八苦していると、見かねたらしいドルクが首の下辺りまでファスナーを下ろしてくれた。
呼吸が楽になる。わたしは彼にお礼を言った。
「あ……ありがとう」
「……いえ」
ドルクは部屋に備え付けられた水差しのところまで行くと、コップに水を注いでわたしに差し出してくれた。
「飲みますか?」
「うん……」
酒渇きとでも言えばいいんだろうか。お酒をたくさん飲んだせいでひどく喉が渇いていたから、ありがたかった。酒飲みには酒飲みの気持ちが分かるんだなぁ。
わたしは気だるい眼差しで目の前のドルクを見た。
可愛らしい子犬みたいな造作の童顔男―――思ったより、いいヤツなのかもしれない。
「後は一人で大丈夫ですか?」
「うん、あの……色々悪かった、な。助かったよ、ありがとう」
部屋から出ていこうとするドルクに照れもあって歯切れ悪くお礼を言うと、彼は大きなこげ茶色の瞳を細めて不敵に笑った。
「貸し、ひとつですね」
うう、こいつはどうして普通に言葉を返せないんだ?
その可愛らしい顔で微笑んで「どういたしまして」とか「気にしないで下さい」とか言ってくれれば、こっちだって、ああ実はいいヤツだったんだなって、気持ち良く終われるのに。
さっきまで凪いでいた反発心にも似た負けず嫌いな気持ちが込み上げてくる。
「助けてもらったお礼は言うけど、持ちつ持たれつが世の理だろ? それと、言っておくけど勝負自体は引き分けだから! そこ、間違えないように」
「とんだ負けず嫌いですね。オレはこうして立ってあなたを介抱している、誰が見ても総合的にオレの勝ちと言えると思いますけど?」
やれやれと言いたげなドルクの態度にわたしは歯噛みした。
ムキー! そういう自分だって相当な負けず嫌いだろう!
「わたしのこの体たらくは! 勝負の後の果実酒が原因だから! 勝負自体には負けていない!」
「あれだけ飲んだ後にあんなアルコール度数の高い酒を一気にあおるからですよ。詰めが甘いですね。戦場だったら死んでいるところだ」
うぐぐぐぐ!
「余計なお世話かもしれませんが、急に限界が来るってことがありますから、次回からは少し考えて飲んだ方がいいと思いますよ。試合で勝って勝負に負ける―――実際には試合でも勝てていないわけですけど。そんな有様じゃ『紅蓮の破壊神』の二つ名が泣きますからね」
ついさっき自分がドルクに放った言葉を焼き直しされ、酒の勝負に仕事を引き合いに出され、わたしは顔を赤くした。怒りと恥ずかしさと酔っ払った勢いで頭のメーターが振り切れる。
「調子に乗るなよ! 醜態を晒したのは認めるけどな、仕事で失態は犯さない! 偉そうにわたしに高説垂れるのはランヴォルグの域に達してからにしろ!」
その瞬間、それまで悠然と構えていたドルクの顔から表情が消えた。
「……。どうしてそこでその名前が出てくるんですか」
唇から滑り出した硬質な声。酔っていても感じられる彼の変化にわたしは息をひそめた。
何だ? 急に……。こいつ、ランヴォルグの知り合いなのか?
「……どういう意味だ」
「あなたが口にした男の評判といえば―――残虐非道、冷酷無比、目的を達する為なら手段を選ばない冥府の使者―――通った後には無念の渦巻く骸の道が出来る、というものですよ。しかしさっきのあなたの言い方だと、世間とはまるで逆の感情を抱いているように聞こえる」
それは、そうだ。その通りなのだから。
「同じようなひどい二つ名を持つ者として、そういった下らない噂がいかに当てにならないものなのか知っているからだよ。ランヴォルグは……噂とは正反対の男だ」
「はっ……どうしてそんなことが言えるんですか? 会ったこともない男なのに」
ドルクは口元を歪め、吐き捨てるようにして言った。聞き捨てならないその台詞にわたしは目をすがめる。
「どうしてわたしがランヴォルグを知らないと言える?」
実際はこいつの言う通り会ったこともないわけだけど―――わたしは呼吸を整えながらドルクの表情を窺った。集中しようとしてもしきれない、ぼんやりとした今の状態がひどく呪わしい。
「実際にその男を知っていたら、そんな台詞は吐けないからですよ」
「そういうあんたはランヴォルグの知り合い? 会ったことがあるのか?」
「少なくともあなたよりはその男を知っています」
またこういう問答だ。わたしはイラッとして拳を握り込んだ。
こいつ、まともに喋る気ないな。まともに喋る気がないくせに、まだ見ぬわたしの同志を卑しめるような言い方をして……。
会ったことがなかろうと、わたしはわたし自身が感じてきた、これまでのランヴォルグを知っている!
わたしは義憤に息巻いた。
「あんたが何て言おうが、わたしはわたしなりにランヴォルグの足跡を見てきたんだ。だから彼のことは知っている! 彼は他者を思いやれる心根の優しい人間だ! 下らない世間の評判なんかクソ食らえ!」
感情の迸るまま言葉を叩きつけると、ドルクの大きなこげ茶色の瞳に苛立ちにも似た冷たい光が走った。
「……へえ。ずいぶんと『ランヴォルグ』に入れ込んでいるみたいですね」
うっすらと酷薄な笑みを刷き、ドルクの纏う雰囲気が不穏なものへと変わる。
「……!」
まずい。
直感的に察する。立ち上がろうとしたわたしの肩口にドルクの手がかかり、直後、視界が大きく回転した。同時に叩きつけられる衝撃を背中に感じる。
しまった……!
舌打ち混じりに思いながらも、日頃鍛えられたわたしの身体は反射的に次の対処動作へと動いている。だが、これも相手の方が早かった。腕、足、頭と要所を素早く押さえつけられ、完全に反撃を封じられる。
ベッドの上に仰向けに縫い付けられるような格好になり、わたしは目の前にあるドルクの顔をにらみつけた。
頭突きを警戒してだろう、彼の額はわたしの額に触れるほど近い。顔の横で押さえつけられた両の手首はビクとも動かない。この体勢ではさすがに男の力には負ける。胸から下はドルクの身体でベッドにきつく押し付けられており、密着していて膝を入れる隙間もないから蹴り上げることもかなわない。
「……どういうつもりだ」
牙を剥くようにして低く問いかけると、皮肉げな笑みを返された。
「気が変わりました。やっぱり今、貸しを返してもらおうと思って」
「は?」
わたしは鼻の頭にしわを寄せた。
こいつ、バカにしやがって。酔っ払ってるからって魔眼の女をどうにか出来ると思うなよ!
「……取り乱さないんですね」
「どうして取り乱さないといけないんだ」
わたしをどうにかしようと思うなら、この体勢のままではいられない。ドルクは動かなければならなくなる。その時が反撃の時だ。それまで体力は極力温存するに限る。
「これまでにも、こういうことが?」
わたしの反応にあらぬ誤解を抱いたのか、ドルクが見当違いの問いかけをしてくる。わたしは噛みつくようにして否定した。
「こんなことが頻繁にあってたまるか!」
昔ならいざ知らず、『紅蓮の破壊神』、この不名誉な二つ名を戴いてからは、そもそも女として見られることの方が少ない。ましてやこんなふうに力尽くで押し倒すなど、普通の男には恐ろしくて出来るはずもない。
―――このイカれた物好きめ!
顔が近すぎて見えなかったが、ドルクはふと口元を緩めたようだった。彼の息づかいが唇の辺りに感じられる。
あ―――と思った瞬間、温かく湿った感触に唇を塞がれ、わたしは目を剥いた。まさかそう来るとは思わなかった。
改めて間近にあるドルクの顔をにらみつける。彼も目を開けてこちらを見ていた。
互いに目を開けたまま、わたし達はしばらくそのまま唇を合わせていた。
やがて、わたしの反応を見るようにして、ドルクが角度を変えながら口付けてきた。重ねるだけの軽いキスを何度か繰り返し、次第にそれを深くしていく。
わたしは抗うことなくそれを受けながら、反撃のタイミングを窺っていた。一抹の違和感を覚えながら。
何故、キスなんだろう?
こいつは噛みつかれるリスクを考えないほどバカじゃないだろう。
ドルクが何を考えてこの行為に及んでいるのか分からなかったけど、とりあえず見た目に反してヤツが女慣れしていることだけは分かった。何て言うか……キスの仕方がエロい。
柔らかく食むように、官能を煽るように、強弱をつけてしっとりとほぐすように唇を刺激してくる。
アルコールを大量摂取して血行が良くなっていることも手伝ってか、それを受けているうち唇ばかりか頬まで熱くなってきた。拒絶する意思に反して、硬く力を込めていた唇から力が抜けていくのを感じる。
ううう、くそぅ、我慢だ。舌が入ってきたら思いっきり噛みついてやる!
目を閉じたら何だか負けな気がする。またしても変な勝負スイッチが入り、絶対に目はつぶらないぞ、と奮起した時、ドルクの舌が入ってきた。狙いすまして噛みつこうとしたその刹那、両の手首の拘束が解かれ、一瞬意識がそちらに向く。
ドルクの動きは素早く抜け目なかった。手首の拘束が解かれた次の瞬間には彼の両手がわたしの両頬に添えられ、今度は頭を固定された格好になる。手首は自由になったがその時にはすでに肘の辺りをドルクの前腕で押さえつけられていたので、わたしの手指は無様に空を切るだけで反撃の糸口を掴めない。
噛みつくタイミングを逃してわたしはあせった。深く差し入れられたドルクの舌はわたしの舌を捕えようと追ってくる。逃げながら再び噛みつこうとしたその時、爪先ですうっとうなじをなで上げられ、わたしはびくっと身体を震わせた。
「んんっ!」
思いも寄らなかった方向からの刺激に、くぐもった情けない声がもれる。同時に彼の舌に捕まった。
ああ、くそっ……!
こうなっては噛みつくこともままならない。
両頬を固定されて顔を上向かされているから、左右に首を振って逃げることもかなわない。
舌を絡めるようにしながらドルクが巧みに、濃厚なキスしてくる。
くそっ、こいつ……!
腹立たしいくらい上手い。口中のそこここに甘い痺れが広がり、意思に反して吐息が乱れ始める。
そして、長い。呼吸が苦しくなってきた。
「んうっ……」
執拗なキスが続き、酸欠と深酔いで頭がぼうっとしてくる。目の前が霞みがかり、耳鳴りがし始めて、わたしは本格的にあせった。
マズい……!
職業柄何度か経験しているから分かる。これは意識を失う前兆だ。
まさか、ドルクは始めから気を失わせる目的でわたしにキスをしてきたのか。
冷や汗が全身を流れる。体力の温存とか言っている場合じゃなくなった。
なりふり構っていられなくなり、わたしは全力で抵抗を始めた。ベッドが激しく軋み、派手な音を立てて大きく動く。弾みで押さえつけられていた左腕がドルクの前腕から抜け、わたしは彼の頬を思い切り反対側に押し上げた。同時に自分の顔を左に向け、喘ぐように空気を求める。
が、肺に空気を取り込みきれないうちに引き戻され、再び唇を塞がれた。
「んっ……!」
唯一自由が利く左腕でドルクの胸を突っぱねようとするが、想像以上に厚く頑強な感触に、昏い絶望感を覚える。
酸素不足で激しい抵抗をした代償は大きく、たちまち身体が鉛のように重くなった。呼吸が苦しい。相反するように口腔内に広がるのは、うっとりとするような甘い痺れ―――。
もう、様々な感覚が入り乱れて苦しいのか気持ちいいのか分からない。
たまらずぎゅっと閉じた瞼の裏側で瞬きが散って見えた。ほんの少し前まで絶対に目をつぶるもんか、と思っていたことなど、きれいに頭の中から消し飛んでいる。
ああ、くそっ……まさか、こん、な―――……。
まさか、キスで落とされるなんて。
無念に思う中、やがて全ての感覚があいまいになって、わたしの意識は暗闇へと溶け堕ちていった。
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