魔眼

藤原 秋

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終章 紅き月の夜に

02

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 あれ―――何だ、この感じ……。

 わたしは奇妙な既視感に苛まれながら、少し離れた場所に佇んでいるドルクから目が離せないでいた。

 夜の色が混じり始める深い黄昏色に抱かれたドルクは唇を結んだまま、幾重にも滲む感情を乗せた眼差しをわたしに注いでいる。そんな彼に戸惑いを覚えながら何故か言葉を発することが出来ず、わたしもまたしばらく無言で彼を見つめ続けた。

 どのくらいそうしていただろう。

「おーい、ドルク―――!」

 ―――!?

 遠くから突然聞こえてきたその声に―――その声が紡いだ固有名詞に、わたしは耳を疑った。弾かれたように声のした方を見やるわたしの前で、ドルクもゆっくりとそちらを振り返る。

 わたし達の視線の先で、杖を片手に、片方の足を引きずるようにしながら緩やかな坂道を上がってきた若い男の人が、こちらに向かって大きく手を振り呼びかけていた。

「―――ドルク! ランドルクだろ!?」

 彼はわたし以外が口にするのを聞いたことがない、目の前の恋人の本名と愛称を呼びながら白い歯を見せた。

「……ジェイク」

 ドルクが彼の名前らしきものを呼ぶと、日焼けしたその顔に満面の笑みが広がった。

「―――やっぱりランドルク! さっきグラントおじさんからお前っぽい傭兵を見かけたって話を聞いてさ、半信半疑だったけどここへ来てみて良かった! おいおい、どのくらいぶりだよ!? たまには顔見せろっての! てか、いつ帰って来たんだよ!?」
「ついさっきだ。予定外の流れでここへ」
「おお、じゃあオレが再会一番乗り!? やった! それにしてもひっさしぶりだなー、元気だったか!?」
「ああ。ジェイクも元気そうだな」

 親しそうに再会の挨拶を交わす彼らを見やりながら、わたしは突然のこの状況を理解しようと一人努力していた。

 ちょ―――ちょっと待って……ドルクの本名がランヴォルグではなくランドルクだと知っている人がいて、その人は彼を愛称で呼ぶほど親しくて、いつ帰って来たんだと尋ねていて―――それでもって、ついさっき知ったところによると、ドルクはここオルフラン地方の出身で―――。

 考えていけば、答えは自ずと導き出される。

 ウソ―――まさか、ここが―――エランダが、ドルクの出身地!?

 ―――そんなことが!?

 にわかには信じがたいけれど、でも、そうとしか考えられない。

 呆然と目を瞠るわたしを横目でちらちら見ていたジェイクが肘でドルクをせっついた。

「―――な、なあなあ、あれ、誰? 仕事仲間? 綺麗な人だな……」
「ああ……彼女はフレイア。オレのパートナーで……エランダの恩人だよ」
「え?」

 それを聞いたジェイクの表情が固まった。

 穴があくほどわたしを見据えて、ごくりと息を飲む。

「そ、そういえば、エランダを救ってくれたっていう魔眼と同じ赤い髪だな……。え―――マジ、マジか、マジで……!?」

 信じられない、といった面持ちでわたしとドルクを交互に見やった彼はあんぐりと口を開け、それからドルクに額をくっつけんばかりの勢いでまくし立てた。

「ちょ……マジで!? マジであの人、エランダの恩人!? えっ、お前そんな人と組んでんの!? お前そんなにスゴくなってんの!? はぁ、マジで!?」
「顔が近い」
「うわぁ……お、お礼言っていいかなぁ!? 直接」
「言えばいいだろう」

 ドルクに促されたジェイクは杖をついてわたしのところへやってくると、興奮した面持ちで一礼した。

「は、初めまして。オレ、ジェイクっていいます。コイツとは昔馴染みで、前は一緒に自警団やってて」

 ―――自警団。ドルクはこの町で自警団に入っていたのか。

「オレ、あの夜の戦闘で猿人にやられて―――ちょうどこの辺りで気を失って倒れてたんです。だからあなたの姿は直接見てないし、助けてもらったことも覚えてないんですけど―――後でコイツに教えてもらったんです。赤い髪、紅い瞳をした魔眼の女の子にオレ達は助けられたんだって」
「―――え?」

 その言葉にわたしは呼吸を止めた。

 ―――何だって?

「片足にマヒが残りはしたけれど、あの夜あなたに命を救ってもらえて、オレ、スゲー感謝しています。もちろん、町の他の連中も。―――オレ、今度結婚するんですよ。あなたに助けてもらわなかったら、今のこの幸せは有り得なかった……だから、感謝しています。本当に」
「結婚するのか?」

 ドルクがやや驚いた様子でそれに反応した。

「実はそうなんだよ! ミレイおばさんトコのクレアと、来月。お前帰ってこないからさ、報告しようがなかったんだ」
「へえ……クレアとか。おめでとう、幸せにな」
「お、おぅ。どうもな。……えと、ちょっと話が脱線しちまったけど。とにかく、あの夜を経験した人間はみんな、心からあなたに感謝しているんです。だからあの、その節はエランダを救ってくれて本当にありがとうございました!」

 そう言って勢いよく頭を下げたジェイクにわたしは小さく首を振って微笑みかけた。

「顔を上げて、ジェイク。そう言ってもらえてわたしの方こそ嬉しいよ。ありがとう……傭兵冥利に尽きる瞬間だ」

 それは心からの言葉だった。

 守ることが出来た命―――そしてその相手から直接お礼を聞くことが出来る喜び。また明日から頑張れる活力をもらえたと、心からそう感じる。

 すると顔を輝かせたジェイクは少し兄貴風を吹かせてドルクのことをおもんばかった。

「あの、ところでコイツどうですか? ギルドでちゃんとやっていけてます? 剣の腕に関してはアレですけど、見た目と中身にギャップがあって良くも悪くも目立つから、クセのある人種が多そうな傭兵の世界で上手くやっていけてんのかなって、少し気がかりで」
「昔のことは知らないけど、わたしと組んでからはそれなりに上手くやってるんじゃないかな? 気心の知れた仲間もいるし、自分の容姿を上手く使い分けることには長けている感じ」
「マジっすか」

 それを聞いたジェイクは大げさに感心した素振りを見せ、からかうようにドルクの顔を覗き込んだ。

「成長したなぁ、おい?」
「―――ジェイク、積もる話は後だ。ひと仕事頼みたい。部屋は二つ空いているか?」

 まずい方向へ話が行きそうだと思ったのか、ドルクはニヤついているジェイクを牽制するようにその流れをぶった切った。

「お、ウチに泊まってくれんの?」
「この町にある宿は一軒だけだろ」
「はは、それもそうだな。了解。旨いモン用意しとくからよ、用が済んだら来いよ。じゃあフレイアさん、また後で。お待ちしてます」

 ジェイクはわたしに会釈するとドルクに軽く手を上げて、緩やかな坂道を町の方へと戻っていった。

 それを無言で見送ったわたしは、彼の姿が見えなくなってから渦巻く疑問を叩きつけるようにして口火を切った。

「ねえ、聞きたいことがたくさんあるんだけど」

 少しきつい口調になったのは致し方ないだろう。聞きたいことがあり過ぎて、正直どこからただしていったらいいのか分からない。

 ドルクは静かな表情でわたしを見つめている。わたしは混乱する頭の中を整理しながらひとつひとつ彼に尋ねていった。

「ここが―――エランダの町が、あんたの故郷なの?」
「……そうです」
「わたし達が初めて会ったのは、ガランディの酒場じゃ―――ない?」
「はい」
「……。八年前の、この場所?」
「ええ。そうです」

 淀みないドルクの回答にわたしは息を飲んだ。

 さっき感じたあの不思議な既視感が明確な意味を持って、わたしの前にひとつの真実こたえを導き出す。

 ―――まさか。

「……あの時の、男の子? わたしが助けた?」

 震える声で紡ぎ出した問いかけに、ドルクが頷きを返した。

 それを目にして、形容しがたい衝撃に襲われる。

 わたしは思わず自分の口を両手で覆って、言葉を失いながら目の前の彼を見つめた。

 あの夜、絶望的な状況の中、諦めることなく剣を振りかざして猿人に立ち向かっていった年端もいかない少年―――紅い月明りの下で目にした彼の顔は遠い記憶の中でおぼろげになっていたけれど、言われてみれば―――ドルクを幼くしたような顔立ちをしていた気がする。不屈の意思を宿した強い輝きを持つ幼気いたいけな瞳は、今の彼に重なるものがあった。

 ―――でも、まさか。

 言葉を詰まらせるわたしの前でゆっくりとドルクの唇が動いて、深い感情を滲ませた彼の声が薄闇に染まり始めた更地に響いた。

「あの瞬間は―――衝撃でした。あなたが現れたあの瞬間、オレの眼にはただ紅い閃光が駆け抜けたようにしか見えなかった……。何が起きたのか分からないまま、猿人達がズタズタに斬り裂かれて吹き飛んで―――気が付くと、猿人達の屍の上に暗く紅い輝きを放つ魔剣を携えたあなたが立っていました」

 八年前の戦場の跡に立つわたし達の間を、ゆっくりと風が吹き抜けていく。

「ひと目で異質の存在だと、『魔眼』と呼ばれる存在なのだと分かりました。夜の闇に燃え立つように煌めいた紅蓮の瞳が、ひどく、綺麗で―――子供心にも印象的で……。魔剣を振るい瞬く間に猿人をほふっていくその姿は圧倒的な強さに満ち溢れていて、この世のものとは思えませんでした。まるで戦女神が降り立ったかのように崇高で、凛々しくて―――鳥肌が、立ちました。
ガランディで再会した時もそうでしたが、あなたはオレを自分よりだいぶ年下だと思い込んで―――当時は同じ年頃のあなたに小さい子扱いされて反発心を覚えましたが、でも、そうされても仕方がないほど、あの時のあなたとオレの間には伎倆ぎりょう差があって―――それをまざまざと見せつけられて、小さな町の中の世界しか知らなかった、何も持たない自分を知りました」

 ドルクはそう言ってどこか懐かしむように小さく笑った。

「あなたが猿人のリーダーを討ち取ったところは、覚えていません。力に溢れたあなたの存在に安心感を覚えて、オレはそのまま気を失ってしまったから。気が付いた時にはベッドの上で、あなたは既に町を立ち去った後だった。オレの中に、あまりにも鮮烈な―――鮮烈過ぎる印象を残して―――」

 当時の心境に想いを馳せたのか、ドルクは自らの拳を胸にぐっと押し当てて瞳を伏せた。短い沈黙の後、視線を上げわたしに向けた彼の大きなこげ茶色の双眸には見たことのない憧憬の光が溢れていて、その輝きの強さにわたしは思わず息を詰めた。彼の真っ直ぐな眼差しに貫かれて、心臓が大きく呼応する。

「あの夜から、あなたの存在は忘れえぬものとなってオレの中に棲みつきました。憧れであり、確固たる目標として―――。あなたのように守りたいものを守り抜ける何物にも屈しない力を、強さを手にしたいと切望して、オレはあなたの影を追うようにこの世界へ入りました。それからは必死だった。あなたの強さに近付きたくて、あなたの輝きに追いつきたくて―――がむしゃらに努力して、ひとつひとつ階段を上っていきました」

 ウソみたいだ。

 わたしがきっかけで、わたしの背中を追って、ドルクが傭兵への道を歩んだんだなんて。

 皮肉屋で自信家で、いつも憎たらしいくらい泰然として、何物にも動じないあのドルクが―――。

 今や堂々とわたしと肩を並べ、『冥府の使者』の異名を持つ彼が―――……。

 わたしが彼を知らなかっただけで―――彼はそんなにも以前からわたしのことを知っていたのか。わたしを目指して、この厳しい世界に身を投じてきたのか。

 生易しい道ではなかったはずだ。けれど彼は強靭な精神力と、それこそ血が滲むような努力を積み重ねることで得ただろう伎倆をもって、それを成し遂げた。

 そして今、わたしの隣にいる―――。


 身体の奥底から、叫び出したくなるような震えが来た。


 知らなかった。夢にも思わなかった。

 彼があの時の男の子で―――わたしに対して、そんなにも深い感情を抱いていただなんて。

 何て言う想いの強さ。何ていう意志の強さ。揺るぎなさ。

 信じられない。わたしが、彼にとってそんなにも強い光になっていただなんて。

 ドルクにとって、そんなにも大きな存在であったなんて―――。

 大きな驚きと衝撃を受けると同時に、それはこれまでわたしが抱き続けていた疑問にようやく納得出来る答えが見いだせた瞬間でもあった。

 これで、やっと分かった。

 ずっと分からなかったんだ―――ドルクがわたしに好意を抱いた理由。出会いからして醜態しか晒していなかったわたしに、どうして彼ほどの男がここまで執着してくれたのか。

 違和感を覚えた彼のあの告白に、本当はどういう意味があったのか。

『ラーダであなたの魔眼を見た時。不意に、腑に落ちたんです。全てが。
オレは、出会ったその瞬間からこの瞳に囚われていたんだって―――そう気が付きました。あの夜、あの瞬間に、オレはもうあなたに囚われていたんだと』

 彼が言っていた「あの夜」というのは、ガランディの酒場で出会った夜ではなく、八年前、エランダの町が猿人の襲撃を受けた、わたし達の本当の出会いの夜のことだった。

「ど―――うして、言ってくれなかったんだ……何で、今まで黙っていた? もっと早く、教えてくれれば―――……」

 わたしは、あんなに戸惑わなくて済んだ。

 もっと素直に、もっと早くあんたの告白を受け取ることが出来ていた―――多分。

「オレも―――あなたと再会するまでは、あなたと再会出来たならあの夜のお礼を言って、色々と積もる話をしたいと単純に思っていました。でも、実際にあなたと再会して―――あなたに対する感情が単なる憧れだけではなかったと気が付いた時、考えが変わったんです。
オレはあの夜、あなたの強さに強烈な憧れを抱くと同時に、それとはまた別の次元であなたに心を奪われていた。だからこそ、あなたと対等の位置に並んで、対等に扱ってもらえるようになりたかった―――それに気が付いた時、絶対に色眼鏡で見られたくないと思ったんです。何のしがらみもないただの一人の男としてあなたにぶつかって、そして認められたいと、心から強く思った」

 積年の想いを吐き出すようにしてそう言い切ったドルクは熱く滾る眼差しをわたしに向け、募る想いの丈を訴えた。

「フレイア、あなたをひと目見た瞬間からずっと―――ずっと心惹かれていました。あなたに焦がれて、あなたの背中を追って、オレは今のオレになった。オレをここまで導いてくれたあなたを―――心から、愛しています」

 左の鼓動が射抜かれた。

 ぎょしがたい様々な感情が胸に込み上げ、それが波立ってぶつかって、熱い涙となって溢れ出す。

 この気持ちを、どう表現したらいいんだろう。とても、言葉に、出来ない。

 片手で口元を覆うようにして、肩を震わせ声もなく涙を流すわたしの元にドルクがゆっくりと歩み寄り、淡く微笑んだ。

「本当はオルフランの締めくくりに自分であなたをここへ連れてきて、この事を話そうと思っていたんですよ……。まさか先にこんな形で、あなた自身にここへ導かれることになるとは夢にも思ってもいませんでした。本当に敵わないな……あなたには」

 どこか諦めたような口調でそう言った彼は、突然この事実を知らされて動揺を露わにするわたしを気遣うように、頬を伝う涙を指先で優しく拭った。

「すみません、ビックリさせちゃいましたね。……泣かないで」

 慈しむようにおでこにキスをされて、そこに感じる温もりに目頭がまた熱くなる。

 ―――伝えなきゃ、わたしも。ありのままの、感じたままの、今の自分の素直な気持ちを、彼に。

 わたしは胸に沸き起こる様々な感情を飲み込んで落ち着こうと苦心しながら口を開いた。

「……、った」
「え?」

 感情が昂って、思うように言葉が継げない。わたしは喉を張り、震える唇に力を込めて言葉を絞り出した。

「良かっ、た……わたし、大事な人と、その人の大切なもの、この手で守ることが出来ていたんだな……」

 震える声でたどたどしく思いを紡ぎながら、その事実に感無量になって、また新たな涙が瞳から溢れていく。

「わたし……一度全部失くして、死にそうなくらい辛かったんだ。ギルドの訓練も、逃げ出したくなるくらい、キツかったし……。でも……頑張って、良かった。魔眼になって……良かった。嬉しいよ。魔眼になって良かったって、こんなに思ったこと……ない。本当に、良かった……出会う前に、あんたを、失わずに―――済んで……」

 本当に良かった。

 わたしの故郷のようにあなたの故郷を失わずに済んで―――何よりもあなた自身を失くさずに済んで。

 ギリギリ、この手で、救うことが出来て。

 嗚咽を上げながら切れ切れにそれを伝えると、堰を切ったように掻きいだかれて、きつく、きつく抱きしめられた。

「フレイア―――フレイア……!」

 わたしの名を呼ぶドルクの声に、抱きしめてくる腕の強さに、万感の想いが込められている。

「お礼を言うのが遅くなってすみません―――本当に、ありがとうございました。あの夜、オレを助けてくれて―――エランダの町を、みんなを救ってくれて―――」
「……うん。うん……」

 愛する人の温もりを感じながら、彼の香りに包まれながら、わたしは言いようのない幸福感の中で頷いて、今は隣に肩を並べるまでに成長したたくましい身体を抱きしめ返した。

「今度はあなたの故郷の話を聞かせて下さい。そしていつか、一緒に行きましょう。あなたの生まれ育った地へ―――」
「うん……うん」

 耳に心地好く響く彼の声に頷き返しながら、わたし達はしばらくの間、かけがえのない互いの存在を抱きしめ続けた。

 深みを増す夜の気配に上空で輝き始めた月の色は、奇しくもあの夜を彷彿とさせる紅い色合いをしていた。
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