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影王の専属人は、森のひと
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影王の執務室に繋がる秘密の通路は城内にいくつか存在し、先程の執務室の他にも陛下の私室や、これから与えられることになっているわたしの個室にも通じているらしい。
そこからして普通じゃないけれど、その室内はまた異様な造りになっていた。
広い室内は無機質な壁で覆われ、通常部屋にあるべきはずの窓というものがない。大きな窓はもちろん、明り取りの窓さえない空間は、通気口が完備されて空調も制御されているという話で、息苦しさはなかったけれど、外界から隔絶されたその造りには閉塞感を覚えた。
天井からは明度の高い灯りが吊るされていて、窓がなくても困らない明るさではあったけど、外の景色が全く見えないから、ここにいると時間の経過がまるで分からない。
そんな奇妙な造りであるにもかかわらず、室内に置かれたデスクや書棚、ソファーといった家具が妙に洗練された高級品で、その異様なそぐわなさが、ちぐはぐとしたこの部屋の印象をより深いものにしている。
「……。何ていうか……独特な造りね。この部屋にずっといたら、時間の感覚がなくなりそう」
「ああ、懐中時計は手放せないな」
何でもないことのようにヴァルターは頷いたけれど、この人、ずっとここで生活しているのよね? 執務室兼私室って言っていたもの。
「気が滅入ったり、体調を崩したりしないの? こんな閉塞的なところにいて」
深い森の豊かな自然に囲まれた村で育ったわたしには無理。こんな部屋にずっといたらそれこそ不調をきたしてしまいそうだ。
「もうだいぶ慣れたよ。ずっとここにいるわけじゃなくて色んな雑用であちこち出てたりするし、その辺りは割と平気かな。それよりも自分以外の人間を演じ続ける、そっちの方が思ってた以上にしんどくてさ。何ていうか『自分』が無くなっていく感じがするんだよね。
クリストハルトを演じて周りの人間からもクリストハルトとして扱われると、『オレ自身』の存在がこの世界からどんどんどんどん無くなっていって。『自分』という人間そのものの需要が失われていくような感覚に陥るっていうか―――。ここへ来るごくわずかな人間の前でしかオレは『オレ』でいられないけど、その連中もそうそう顔を出すわけじゃないし、そうなると精神的に落ちてきたりすることもあって。……だからさ」
ヴァルターはわたしの顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
「『オレ』という人間を認知している、あんたの存在は貴重なんだ。業務の一環としてでいいから、来れる時はここへ来て、オレと喋ってくれないかな。オレが健全な精神を維持出来るように」
彼のその要望は、人としてごく当たり前のことだと思えた。
業務の一環として望まなければそれが得られないような環境に、ヴァルターはいるんだ……。
「……来れる時は毎日来るわよ。あなたに指示を仰がないと何をどうしたらいいのか分からないし、覚えなきゃいけないことや教えてほしいこともたくさん出てくると思うし」
「あーごめん、言い方が悪かった。それはもちろん仕事としてね? やるけど。
そうじゃなくて、それとは別に、仕事抜きの―――友達感覚の雑談がしたいんだ。仕事の合間にちょこっととか、そんなレベルでいいからさ」
「……。それくらいなら構わないけど……」
「やった! スゲー嬉しい」
その瞬間、ヴァルターは本当に嬉しそうな顔を見せた。
いつもどこか飄々として浮ついた言動の彼らしからぬ、子供みたいな笑顔。
大人の男性らしからぬ無邪気なその表情は、心の隙を突くようにわたしの中にするりと忍んで、胸の奥に密やかに、鮮やかに焼きついた。
この人って年上……よね? こんな顔、するんだ……。
少々驚きながらそんな彼の表情に見入っていると、心なしか楽しそうな声で尋ねられた。
「リーフィアはさ、いつも真っ直ぐ人の目を見て話すよね」
「? 話は相手の目を見てするものでしょう?」
「うん、正論。そういうところ、いいよね」
「? そう?」
「だからかな。変な邪推がなくて、その時その時、こっちが伝えたいことをキチンと汲み取ってくれる感じがする」
「? 何が言いたいのかよく分からないんだけど……」
「はは。そういうのをちゃんと伝えてくれるのも大事だよね」
これは褒められてる? 褒められているのよね? 多分。
今の一連のやり取り、受け取る側のわたしには常に疑問符がつきまとっていて、彼が何を言わんとしているのかイマイチ伝わってこないんだけど、ヴァルターの方は明らかにそれを分かってやっている節があって、そこをわざわざ突っ込むのも癪だし面倒くさかったから、まあいいか、と捨て置くことにした。
「あっちのドアは?」
執務スペースの奥に見えるドアの先に質問を切り替えると、「私室だよ」という答えが返ってきた。
「オレの居住スペースだね。寝室に、独立したシャワールームとトイレ」
「見ても構わない?」
「あっ、興味ある?」
「業務上構造を知っておいた方がいいかと思って」
「……いや、分かってたけどね。リーフィア、ぶれないよね」
苦笑気味にどうぞ、と通された先には、生活感のない居室が広がっていた。ベッドやテーブルといった調度品、据え付けのクローゼットなんかが目に入るけれど、生活用品がほぼ見当たらなくて、ガランとした印象を受ける。
「ずいぶんスッキリした部屋ね……」
「ほぼ寝に来ているだけだからね」
けれど執務スペースとは違い、ここにはヴァルターの匂いが感じられた。寝泊まりするだけにしても、確かにここは彼の居住空間なのだ。
「あなたの匂いがする」
何気なく口にしたその言葉に、背後のヴァルターがぎょっとした反応を示した。
「え、臭う!?」
これまで動じることなどなかった彼の意外な反応が可笑しくて、わたしは思わず吹き出していた。
「っふ、違う。臭いわけじゃなくて、あなたの移り香が感じられたから、ここで生活しているんだなって実感しただけ」
「は!? 何だそういうコト? あー、ビビった。不衛生にしてるつもりはなかったけど、森のひとは人間より嗅覚が優れているって言うし、あんたからするともしかしたらオレ臭いのかと思って、変な汗出た」
「大げさね」
「いや、女の子に臭いって思われたらヘコむでしょ、男としては。自分の匂いって自分じゃよく分からないし」
「別に嫌な感じの匂いじゃないわよ。何ていうか……色で表すならあなたの瞳みたいな色?」
言うなれば穏やかで清々しい印象の香りだけど、そう伝えるのは何となく気恥ずかしかったので、色で表現をしてみると、ヴァルターは何とも言えない表情になった。
「うーん、よく分からないけど? まあとりあえず、嫌な匂いじゃなければそれでいいか。……ていうかさっきオレの前で初めて笑ったけど、笑った顔、可愛いな」
「は?」
「笑顔。可愛いって褒めてんの」
「……それは、どうも」
この人、言葉のはしばしが軽いのよね。きっと誰にでも言っているんだろうな。
「反応薄いなぁ。社交辞令だって思っている?」
「わたしにはそんなふうに気を遣わなくてもいいから。喜ぶ人は喜ぶだろうけど、わたしはいらない。そんなことしなくても、やるべきことはキチンとやるから」
「はは、バッサリだな」
「……ねえ、ラステルにもそういう言葉をかけたの?」
思うところがあって街角の花屋の傍らに立ち続けているフロウ族の少女の名前を持ち出すと、ヴァルターは口元から笑みを消してしばし沈黙し、それからゆっくりと口を開いた。
「……唐突だな」
「ずっと気になっていたの。ラステルは一度だけ、ノヴァのことを『彼』と呼んでいた。正体不明であるはずのノヴァが、男性であることを知っていた―――」
どうしてラステルがノヴァが男性であることを知っていたのか。胸の片隅に引っ掛かっていた疑問は、アンティーク調の黒い仮面を身に着けたヴァルターの姿を見た時に、わたしの中である推論となった。
「彼女が過去あなたに会ったことがあって何らかの恩義を感じているのなら、彼女があの場所に立ち続けている理由にも説明がつくと思ったの。ラステルが待ち続けている人物がノヴァで、あなたがあの仮面を身に着けて義賊としての活動をしていたなら、彼女が恩人であるはずの相手の顔も名前も知らず、表立って探すことも出来ない不可思議な理由に納得がいく」
「……あの娘にそういう類の言葉はかけていないよ」
ヴァルターはどこか諦めたようにひとつ息を吐き出して言った。
「生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんな余裕なかったからね。この間話したでしょ、当時の大貴族の屋敷で下手こいたって。……そいつ亜人の女性を中心にした人身売買をやっててさ、彼女は商品として屋敷の地下に捕えられていたんだ。どうにか逃がしてあげることは出来たけど、代わりにオレがとっ捕まって―――彼女としてはやるせない幕引きになってしまったから、そこからずっと気に病んでいたんだな。オレは最終的には運命の王子様に助け出されるんだけど、彼女はそれ、知る由もなかったから。あんなふうにオレを探し続けていてくれたと知って、申し訳ない気持ちと同じくらい嬉しい気持ちでいっぱいになった」
「……名乗り出ないの?」
「実は、あんたと森で別れた後、こっそり会いに行ったんだ。あのまま待たせ続けるのも忍びないなぁと思って―――ひと目見て、オレだと分かってくれたみたいだった。深々と頭を下げて肩を震わせながら、言葉少なに礼を言われたよ。……今はもう、あの場所にいないはずだ」
そうか……ラステルの願いは、叶ったんだ……。良かった……。
様々な不安に駆られながら、訪れるかどうか分からない瞬間を辛抱強く待ち続けていた彼女の願いが成就したことを知り、わたしは胸が熱くなった。
「シルフィール様にも教えてあげたいけど……あなたのことを言わずにどう説明したらいいか、よく考えないといけないわね」
「そこはリーフィアの腕の見せどころじゃない? ぼかすところは上手くぼかしてね」
うーん……シルフィール様、思ってもみない方向から突っ込んだ質問してきそうだしなぁ。迂闊なことを言わないように注意しないと……。
真面目にそんなことを考えていた時だった。
「そういえば、あの時約束したよな?」
不意に耳元でヴァルターに囁かれて、不穏な気配を感じたわたしはとっさに彼から距離を取った。
「約束?」
「そ。耳、触らせてくれるって」
やっぱり、その件か!
「ちょっと待ってよ、約束なんてしていないけど」
「いや、約束したでしょ。拒否されなかったし」
「承諾もしていないでしょ。拒否する前にあなたが姿を消しちゃったんじゃない」
「いやいや。オレが約束を持ち出してから姿を消すまで、結構な間があったよね? その間に拒否しなかった時点で約束は成立しているとみなされるでしょ」
「は? 何言ってるの、急にあんな号砲を鳴らされたりして、落ち着いて答えている暇がなかったじゃない! そもそもそんなセクハラめいたこと、許すわけないでしょ!」
牙を剥いて抗議すると、ヴァルターは大仰に肩を落とし、芝居がかった口調で渾身の被害者を演じた。
「そんな……リーフィアがオレに借りを作るみたいでイヤだって言ったから、じゃあ大好きなもふもふを触らせてくれることでそういうのチャラにしよう、ってオレなりの親切心で言ったのに……あんまりだ。
日陰者のオレには名誉も功績も何も残らなくて、密かに楽しみにしていた『もふもふを触って癒される』ことすら許されなくて、それどころか信じられないセクハラ野郎呼ばわりされて、今夜はきっと枕を涙で濡らしながら寝ることになるんだけどトラウマになるくらい悲しい夢を見ることになって、睡眠不足もたたって明日の朝は最悪の気分で起きることになるだろうから、円滑な業務伝達が出来なくなるばかりか目の下にクマも出来て影王の任務にも支障が」
あああああ、もう、ウザい! デカい男がわざとらしく全力で落ち込んだフリをするんじゃないわよ!
そしていやらしく脅しを入れてくるんじゃない!
見るに堪えないヴァルターのひどい演技に、わたしの心は色々な意味で折れた。
「こ……今回だけよ。二度はないからね」
ギリギリと歯噛みしながらにらみつけると、さっきまでうなだれていた様子もどこへやら、ヴァルターは憎たらしいくらい晴れやかな顔で頷いた。
「はは、リーフィアは物分かりがいいな」
うぐっ……手痛い授業料だわ。教訓、もう二度とこの男に対して返事を曖昧にしない!
こうして、わたしは不承不承ながら冒頭のあの状況へと追いやられることとなってしまったのだ―――。
そこからして普通じゃないけれど、その室内はまた異様な造りになっていた。
広い室内は無機質な壁で覆われ、通常部屋にあるべきはずの窓というものがない。大きな窓はもちろん、明り取りの窓さえない空間は、通気口が完備されて空調も制御されているという話で、息苦しさはなかったけれど、外界から隔絶されたその造りには閉塞感を覚えた。
天井からは明度の高い灯りが吊るされていて、窓がなくても困らない明るさではあったけど、外の景色が全く見えないから、ここにいると時間の経過がまるで分からない。
そんな奇妙な造りであるにもかかわらず、室内に置かれたデスクや書棚、ソファーといった家具が妙に洗練された高級品で、その異様なそぐわなさが、ちぐはぐとしたこの部屋の印象をより深いものにしている。
「……。何ていうか……独特な造りね。この部屋にずっといたら、時間の感覚がなくなりそう」
「ああ、懐中時計は手放せないな」
何でもないことのようにヴァルターは頷いたけれど、この人、ずっとここで生活しているのよね? 執務室兼私室って言っていたもの。
「気が滅入ったり、体調を崩したりしないの? こんな閉塞的なところにいて」
深い森の豊かな自然に囲まれた村で育ったわたしには無理。こんな部屋にずっといたらそれこそ不調をきたしてしまいそうだ。
「もうだいぶ慣れたよ。ずっとここにいるわけじゃなくて色んな雑用であちこち出てたりするし、その辺りは割と平気かな。それよりも自分以外の人間を演じ続ける、そっちの方が思ってた以上にしんどくてさ。何ていうか『自分』が無くなっていく感じがするんだよね。
クリストハルトを演じて周りの人間からもクリストハルトとして扱われると、『オレ自身』の存在がこの世界からどんどんどんどん無くなっていって。『自分』という人間そのものの需要が失われていくような感覚に陥るっていうか―――。ここへ来るごくわずかな人間の前でしかオレは『オレ』でいられないけど、その連中もそうそう顔を出すわけじゃないし、そうなると精神的に落ちてきたりすることもあって。……だからさ」
ヴァルターはわたしの顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
「『オレ』という人間を認知している、あんたの存在は貴重なんだ。業務の一環としてでいいから、来れる時はここへ来て、オレと喋ってくれないかな。オレが健全な精神を維持出来るように」
彼のその要望は、人としてごく当たり前のことだと思えた。
業務の一環として望まなければそれが得られないような環境に、ヴァルターはいるんだ……。
「……来れる時は毎日来るわよ。あなたに指示を仰がないと何をどうしたらいいのか分からないし、覚えなきゃいけないことや教えてほしいこともたくさん出てくると思うし」
「あーごめん、言い方が悪かった。それはもちろん仕事としてね? やるけど。
そうじゃなくて、それとは別に、仕事抜きの―――友達感覚の雑談がしたいんだ。仕事の合間にちょこっととか、そんなレベルでいいからさ」
「……。それくらいなら構わないけど……」
「やった! スゲー嬉しい」
その瞬間、ヴァルターは本当に嬉しそうな顔を見せた。
いつもどこか飄々として浮ついた言動の彼らしからぬ、子供みたいな笑顔。
大人の男性らしからぬ無邪気なその表情は、心の隙を突くようにわたしの中にするりと忍んで、胸の奥に密やかに、鮮やかに焼きついた。
この人って年上……よね? こんな顔、するんだ……。
少々驚きながらそんな彼の表情に見入っていると、心なしか楽しそうな声で尋ねられた。
「リーフィアはさ、いつも真っ直ぐ人の目を見て話すよね」
「? 話は相手の目を見てするものでしょう?」
「うん、正論。そういうところ、いいよね」
「? そう?」
「だからかな。変な邪推がなくて、その時その時、こっちが伝えたいことをキチンと汲み取ってくれる感じがする」
「? 何が言いたいのかよく分からないんだけど……」
「はは。そういうのをちゃんと伝えてくれるのも大事だよね」
これは褒められてる? 褒められているのよね? 多分。
今の一連のやり取り、受け取る側のわたしには常に疑問符がつきまとっていて、彼が何を言わんとしているのかイマイチ伝わってこないんだけど、ヴァルターの方は明らかにそれを分かってやっている節があって、そこをわざわざ突っ込むのも癪だし面倒くさかったから、まあいいか、と捨て置くことにした。
「あっちのドアは?」
執務スペースの奥に見えるドアの先に質問を切り替えると、「私室だよ」という答えが返ってきた。
「オレの居住スペースだね。寝室に、独立したシャワールームとトイレ」
「見ても構わない?」
「あっ、興味ある?」
「業務上構造を知っておいた方がいいかと思って」
「……いや、分かってたけどね。リーフィア、ぶれないよね」
苦笑気味にどうぞ、と通された先には、生活感のない居室が広がっていた。ベッドやテーブルといった調度品、据え付けのクローゼットなんかが目に入るけれど、生活用品がほぼ見当たらなくて、ガランとした印象を受ける。
「ずいぶんスッキリした部屋ね……」
「ほぼ寝に来ているだけだからね」
けれど執務スペースとは違い、ここにはヴァルターの匂いが感じられた。寝泊まりするだけにしても、確かにここは彼の居住空間なのだ。
「あなたの匂いがする」
何気なく口にしたその言葉に、背後のヴァルターがぎょっとした反応を示した。
「え、臭う!?」
これまで動じることなどなかった彼の意外な反応が可笑しくて、わたしは思わず吹き出していた。
「っふ、違う。臭いわけじゃなくて、あなたの移り香が感じられたから、ここで生活しているんだなって実感しただけ」
「は!? 何だそういうコト? あー、ビビった。不衛生にしてるつもりはなかったけど、森のひとは人間より嗅覚が優れているって言うし、あんたからするともしかしたらオレ臭いのかと思って、変な汗出た」
「大げさね」
「いや、女の子に臭いって思われたらヘコむでしょ、男としては。自分の匂いって自分じゃよく分からないし」
「別に嫌な感じの匂いじゃないわよ。何ていうか……色で表すならあなたの瞳みたいな色?」
言うなれば穏やかで清々しい印象の香りだけど、そう伝えるのは何となく気恥ずかしかったので、色で表現をしてみると、ヴァルターは何とも言えない表情になった。
「うーん、よく分からないけど? まあとりあえず、嫌な匂いじゃなければそれでいいか。……ていうかさっきオレの前で初めて笑ったけど、笑った顔、可愛いな」
「は?」
「笑顔。可愛いって褒めてんの」
「……それは、どうも」
この人、言葉のはしばしが軽いのよね。きっと誰にでも言っているんだろうな。
「反応薄いなぁ。社交辞令だって思っている?」
「わたしにはそんなふうに気を遣わなくてもいいから。喜ぶ人は喜ぶだろうけど、わたしはいらない。そんなことしなくても、やるべきことはキチンとやるから」
「はは、バッサリだな」
「……ねえ、ラステルにもそういう言葉をかけたの?」
思うところがあって街角の花屋の傍らに立ち続けているフロウ族の少女の名前を持ち出すと、ヴァルターは口元から笑みを消してしばし沈黙し、それからゆっくりと口を開いた。
「……唐突だな」
「ずっと気になっていたの。ラステルは一度だけ、ノヴァのことを『彼』と呼んでいた。正体不明であるはずのノヴァが、男性であることを知っていた―――」
どうしてラステルがノヴァが男性であることを知っていたのか。胸の片隅に引っ掛かっていた疑問は、アンティーク調の黒い仮面を身に着けたヴァルターの姿を見た時に、わたしの中である推論となった。
「彼女が過去あなたに会ったことがあって何らかの恩義を感じているのなら、彼女があの場所に立ち続けている理由にも説明がつくと思ったの。ラステルが待ち続けている人物がノヴァで、あなたがあの仮面を身に着けて義賊としての活動をしていたなら、彼女が恩人であるはずの相手の顔も名前も知らず、表立って探すことも出来ない不可思議な理由に納得がいく」
「……あの娘にそういう類の言葉はかけていないよ」
ヴァルターはどこか諦めたようにひとつ息を吐き出して言った。
「生きるか死ぬかの瀬戸際で、そんな余裕なかったからね。この間話したでしょ、当時の大貴族の屋敷で下手こいたって。……そいつ亜人の女性を中心にした人身売買をやっててさ、彼女は商品として屋敷の地下に捕えられていたんだ。どうにか逃がしてあげることは出来たけど、代わりにオレがとっ捕まって―――彼女としてはやるせない幕引きになってしまったから、そこからずっと気に病んでいたんだな。オレは最終的には運命の王子様に助け出されるんだけど、彼女はそれ、知る由もなかったから。あんなふうにオレを探し続けていてくれたと知って、申し訳ない気持ちと同じくらい嬉しい気持ちでいっぱいになった」
「……名乗り出ないの?」
「実は、あんたと森で別れた後、こっそり会いに行ったんだ。あのまま待たせ続けるのも忍びないなぁと思って―――ひと目見て、オレだと分かってくれたみたいだった。深々と頭を下げて肩を震わせながら、言葉少なに礼を言われたよ。……今はもう、あの場所にいないはずだ」
そうか……ラステルの願いは、叶ったんだ……。良かった……。
様々な不安に駆られながら、訪れるかどうか分からない瞬間を辛抱強く待ち続けていた彼女の願いが成就したことを知り、わたしは胸が熱くなった。
「シルフィール様にも教えてあげたいけど……あなたのことを言わずにどう説明したらいいか、よく考えないといけないわね」
「そこはリーフィアの腕の見せどころじゃない? ぼかすところは上手くぼかしてね」
うーん……シルフィール様、思ってもみない方向から突っ込んだ質問してきそうだしなぁ。迂闊なことを言わないように注意しないと……。
真面目にそんなことを考えていた時だった。
「そういえば、あの時約束したよな?」
不意に耳元でヴァルターに囁かれて、不穏な気配を感じたわたしはとっさに彼から距離を取った。
「約束?」
「そ。耳、触らせてくれるって」
やっぱり、その件か!
「ちょっと待ってよ、約束なんてしていないけど」
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「いやいや。オレが約束を持ち出してから姿を消すまで、結構な間があったよね? その間に拒否しなかった時点で約束は成立しているとみなされるでしょ」
「は? 何言ってるの、急にあんな号砲を鳴らされたりして、落ち着いて答えている暇がなかったじゃない! そもそもそんなセクハラめいたこと、許すわけないでしょ!」
牙を剥いて抗議すると、ヴァルターは大仰に肩を落とし、芝居がかった口調で渾身の被害者を演じた。
「そんな……リーフィアがオレに借りを作るみたいでイヤだって言ったから、じゃあ大好きなもふもふを触らせてくれることでそういうのチャラにしよう、ってオレなりの親切心で言ったのに……あんまりだ。
日陰者のオレには名誉も功績も何も残らなくて、密かに楽しみにしていた『もふもふを触って癒される』ことすら許されなくて、それどころか信じられないセクハラ野郎呼ばわりされて、今夜はきっと枕を涙で濡らしながら寝ることになるんだけどトラウマになるくらい悲しい夢を見ることになって、睡眠不足もたたって明日の朝は最悪の気分で起きることになるだろうから、円滑な業務伝達が出来なくなるばかりか目の下にクマも出来て影王の任務にも支障が」
あああああ、もう、ウザい! デカい男がわざとらしく全力で落ち込んだフリをするんじゃないわよ!
そしていやらしく脅しを入れてくるんじゃない!
見るに堪えないヴァルターのひどい演技に、わたしの心は色々な意味で折れた。
「こ……今回だけよ。二度はないからね」
ギリギリと歯噛みしながらにらみつけると、さっきまでうなだれていた様子もどこへやら、ヴァルターは憎たらしいくらい晴れやかな顔で頷いた。
「はは、リーフィアは物分かりがいいな」
うぐっ……手痛い授業料だわ。教訓、もう二度とこの男に対して返事を曖昧にしない!
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