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影王の専属人は、森のひと
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わたしの主はふんわりしているけど大変頑固で、後先顧みない時がある―――。
結局、シルフィール様に押し切られる形でカインの申し出を受けることになってしまったわたしは、不本意ながら乗り込むことになってしまった黒塗りの高級馬車に揺られながら、一人盛大に頭を痛めていた。
わたしの隣にシルフィール様、その正面に向き合う形でカインが座った車内では、約束通りノヴァの話が繰り広げられ、カインは幸せそうな顔で、シルフィール様も聞きたかった話を聞けて満足げな様子で、和やかな雰囲気に包まれているけれど、そんな中、わたしだけは心中穏やかでいられない。
ああ……身元の裏が取れていない人間の馬車に最愛の妹君を乗せてしまったことがクリストハルト陛下に知れたら、どんな沙汰があるだろう。考えただけで恐ろしい。
まいったなぁ……それでなくてもわたしはヴァルターの一件で微妙な立場なのに……。
そのヴァルターは今日もついてきている気配があったから、この報告は確実に陛下へ行くものと思われた。いや、絶対に行く。くうう、頭ばかりか胃までキリキリと痛んできた。
わたしはね、止めたのよ。口酸っぱく何度も何度も。
でも、シルフィール様の好奇心を止めることは出来なかった―――。
心の中でそう言い訳を並べた後、わたは頭を現実に切り替えた。
今更くよくよしても仕方がない、今後のことを考えよう。とりあえず考えるべきは、馬車で「どこまで送ってもらう」のか。
「シルケ様」の家(王城)を特定されるわけにはいかないから、家の近くだと家人に見咎められた時に困るということを理由にして(厳しいお兄様がいるという設定だし)、カインが不審を抱かないよう、裕福な家が多いエリアで下ろしてもらうようにしようか―――。
思い悩めるわたしと楽しそうなシルフィール様を乗せた馬車は市街地を抜けて郊外へと進み、車窓の景色を優しい緑の色合いが彩り始めた。
まずいなぁ……街から離れる予定じゃなかったのに。せめて帰城時刻が遅くならないように留意しないと……。
カインがラズフェルト侯爵から預かったという届け物は、王都近郊の保養地で療養している侯爵の知り合いへの見舞いの品という話だった。療養は長期に及んでいるらしく、カインはこうして定期的に見舞いの品を届けに来ているのだという。
街道を外れ豊かな緑に囲まれた小道をしばし進んでいくと、ほどなくして生い茂る木々の中から閑雅な屋敷が現れた。
「ああ見えましたね、あちらのお屋敷です。ひとことご挨拶して、お見舞いの品をお渡ししたら馬車へ戻る形になると思いますが、ご当主は少々気難しい方なので、もしかしたら少しお時間をいただくことになるかもしれません。そんなにお待たせしないとは思うのですが……申し訳ありませんが、その間こちらの馬車でお待ちいただけますか?」
よし、カインが席を外している間に作戦会議だ。この後をどう切り抜けるか、シルフィール様としっかり打ち合わせねば。
「分かりました、お気遣いなく。私達はこちらで待たせていただきますね」
シルフィール様の了承を得たカインは安堵の表情を見せ、座席の傍らに設えられた収納ボックスを示した。
「ありがとうございます。あの、携帯用のポットになりますが、こちらにお茶の用意がありますので、宜しければお待ちの間、ご自由にどうぞ」
これは嬉しい気遣いね、シルフィール様も喉が渇いている頃合いだろうし。
まもなく馬車が止まると、カインは見舞いの品が入っているらしい黒い持ち手のついた四角い銀色のケースを持って立ち上がった。
お見舞い……というより、仕事に行くみたいな印象ね。
「では行ってまいります。なるべく早く戻るようにいたしますね。何かありましたらこちらの小窓から御者の方へお申し付け下さい。シルケ様、戻りましたらまたノヴァの話をしましょう。まだ語り切れていない彼の話、たくさんありますので」
「楽しみにしています。行ってらっしゃいませ」
シルフィール様の好奇心を刺激する言葉を残して馬車を下りたカインの何気ない物言いに、わたしは先程ラステルの言葉でも感じた違和感を思い出した。
―――あれ? まただ。どうして……。
「お言葉に甘えてお茶をいただきましょう、リーフィア。私、喉が渇いてしまって」
「あ―――はい、今お入れしますね」
ひとまず考えることをやめたわたしはお茶を用意する為、先程カインに教えてもらった収納ボックスを開いた。中には金属製のポットと金であしらわれた繊細な細工が入った上品な茶器のセットが入っていて、気軽に手にすることが憚られる高級感を漂わせている。
「まあ、可愛い。素敵なデザインね」
全く臆することなくそれを手に取り様々な角度から愛でていたシルフィール様は、茶器の裏側、高台内に刻印された家紋を見て、思わぬことを言い出した。
「あら? この家紋……ゼルネアス家のものではなかったかしら?」
ゼルネアス家? ラズフェルト家ではなくて?
「えっ……本当ですか?」
思わず横から茶器を覗き込むと、じっと紋様に見入っていたシルフィール様は改めてそう結論付けた。
「うん……やっぱりそうよ、間違いないわ。これはゼルネアス侯爵家の家紋よ」
こういうところは的確な方だ。シルフィール様がここまで仰るなら、これはゼルネアス家の家紋で間違いないのだろう。
でも……だとしたら、何で?
不意に湧き起こった冷たい予感が、胃の腑の辺りをひんやりと締めつける。
変じゃない? どうしてラズフェルト侯爵所有の馬車に、ゼルネアス侯爵家の家紋が入った茶器があるの?
「あの……勉強不足ですみません。ゼルネアス家とラズフェルト家はどういった関係にあるんでしたっけ?」
従者として恥ずかしい話だけれど、王家を取り巻く貴族間の関係なんかはまだ把握しきれていない。恥を忍んで尋ねると、シルフィール様は記憶をさらう素振りを見せた。
「ええと……両家の間に親族間の婚姻といった親戚関係はなかったと思うわ。私もあまり詳しくはないのだけれど、どちらかといえば政治的に対立した関係にあって……贈り物をやり取りするような間柄ではなかったと記憶しているのだけれど……」
憶測が現実味を増していく薄暗い情報に血の気が引き、心臓がドッ、と冷えた音を立てる。
「でも、実際こうしてゼルネアス侯爵からの贈り物をラズフェルト侯爵が使っているのなら、両家の関係は私が思っていたよりも良好なものだったということよね。杞憂だったのだとしたら、嬉しい誤算だわ」
前向きな見解を口にするシルフィール様を視界の端に捉えながら、わたしは緊張する手で金属製のポットを開け、中の香りを確かめた。
ふわりと漂う芳香の中に、茶葉とは違うごくわずかな異物の匂いを感知し、息を飲む。おそらく人間には嗅ぎ取ることが出来ない種類の、何かの薬が入っている。
「シルフィール様、馬車を下りましょう」
突然そう言い出したわたしに、シルフィール様は兄王と同じ空色の瞳を瞬かせた。
「えっ? 何故?」
「詳しい説明は後でしますが、残念ながら両侯爵家はやはり仲が悪かったと考えた方が良さそうです」
そう答えながら馬車のドアを開けられるか試してみると、どうやら外側から鍵がかけられているらしい感触が伝わってきた。
やはり、開かないか。
予測はしていたことながら、それを知ってじわりと掌に汗が滲んだ。
「……開かないの?」
「はい」
短く頷きながら、カインに嵌められたことを確信して歯噛みする。人の良さそうな外見と「シルケ様」を一途に想う演技に、まんまと騙された。
やられた! あの男、最初からこれが目的で……! くそっ、むざむざ怪しいところまでシルフィール様を連れてきてしまった!
自身の不甲斐なさに、きつく拳を握りしめる。
おそらく―――カインはおそらく、元々シルフィール様の顔を知っていたのに違いない。
彼がラズフェルト家側の人間なのかゼルネアス家側の人間なのか―――今ここで即断することは出来ないけれど、彼が「シルケ様」を「シルフィール様」だと認識した上で接触してきていたことは、間違いないだろう。
ゼルネアス家の人間がラズフェルト家側の人間を装ってシルフィール様を謀り、その罪をラズフェルト家に負わせようとしているのか?
それともラズフェルト家側の人間が、偽りの家紋が入った茶器を利用することでゼルネアス家を王妹誘拐の罪に陥れようとしているのか―――。
見舞いの話は、確実に嘘だ。この屋敷には何があるの? ここへシルフィール様を連れてきた目的は!?
ノヴァの話は口からでまかせ? だとしたら、カインは何故あんなことを―――?
ぐるぐると思考が渦巻いて、忙しなく胸を叩く鼓動が耳の奥で反響し、息苦しさを募らせて、突き付けられた現実の重さに、目の前が歪んで視界が薄暗く狭まっていく。
いずれにせよ、まんまと謀られてしまったのだ。わたしの落ち度だ。
「……リーフィア。そのお茶をいただくことは、出来る?」
不穏な状況に置かれていることは理解しただろうに、シルフィール様は取り乱すことをせず、どこかユーモアを交えた表情でそう尋ねてきた。
いつも通りの柔らかな声音。そのあまりにも悠然とした調子に何だか肩の力が抜けて、その拍子に自分がパニックに陥っていることに気が付いた。無意識に詰めてしまっていた息を吐き出すと、自然と身体の強張りが解け、ゆっくりと呼吸が出来るようになる。すると緊張で狭まっていた視界が開けて、あれほど激しかった動悸も緩やかに治まっていった。
まるで、呪縛が解けたかのような感覚だった。
パンパンに張り詰めていた緊張感から少しだけ解放されて、どうにか冷静さを取り戻す。
「……残念ながらダメです。おそらく睡眠薬か痺れ薬の類で、致死毒ではないと思いますが、いずれにしろ身体に良くないものが入っていますね」
自分でも驚くほどこの場にそぐわない、穏やかな声が出ていた。
不思議だ。決して楽観できる状況ではないのに……シルフィール様のひと声で、空気が変わった。
これが、王族の器量というものなんだろうか?
「まあ……残念なおもてなしね」
細い眉を寄せて溜め息をついたシルフィール様の纏うゆったりとした空気は、こんな状況下にあっても変わらない。
政権交代の最中には色々危険な目に遭われたらしいという噂を耳にしたことがあるけれど、この動じなさっぷりはそういった過去の経験に基づいているものなんだろうか?
「ここを出たら森の清水で喉を潤しましょう。それまではすみませんが我慢して下さい」
「仕方がないものね。でも、外側から鍵がかかっているのに、どうやって馬車の外へ出るというの?」
「こちら側から開けられないのなら、外から開けてもらえばいいんです」
「えっ、外から?」
「はい。あちらはまだわたし達がこの事態に気付いていることを知りませんから、もっともらしい理由を述べて見張りの御者に開けてもらいしましょう」
「素直に開けてくれるかしら?」
「大丈夫ですよ。これまでの様子からいって、向こうもギリギリまで正体がバレることは避けようとするはずですから」
「……ごめんなさいね、リーフィア。私が貴女の言うことを聞かなかったばかりに……」
おお、そういう意識はあったんですね。
突然殊勝な態度を見せたシルフィール様にちょっとびっくりしつつ、こういうことがまたあってはたまらないので、わたしはもっともらしく苦言を呈した。
「本当ですよ。これに懲りて、次回からはご自分の意見ばかりでなく、わたしの意見もないがしろにせずにちゃんと聞いて下さいね。約束ですよ」
「とても反省しているわ……本当にごめんなさい」
「分かって下されば結構です」
大仰に頷いたわたしは、しゅんとうなだれているシルフィール様の手を取ると、その瞳を真っ直ぐに見つめて頬を緩めた。
「必ずお城までお連れしますから。ご心配なく」
わたしは、貴女の従者だもの。まだまだ一人前とは言えないけれど、その役目に対して、自分なりの矜持も覚悟も持っている。
絶対に、使命は果たしてみせる。
「……ふふ。ありがとうリーフィア、貴女がいてくれて心強いわ」
落ち込んでいたシルフィール様の顔に笑顔が戻った瞬間、細い腕が伸ばされると、次の刹那、わたしはシルフィール様の腕の中にいた。
柔らかな白金の髪が頬に触れる。わたしを包むたおやかな肢体と、温かな体温―――その行為に、主としてではなく、人としての温もりを感じた。
「えっ……シ、シルフィール様」
戸惑うわたしをぎゅっと抱きしめたまま、シルフィール様が耳元で囁く。
「こんな目に遭わせてごめんなさい、リーフィア。リーフィア―――大好きよ」
シルフィール様―――?
その言葉に二重の意味がこもっていたのだとわたしが知るのはそれからだいぶ後のことになるのだけれど、この時のわたしはまだ、主のそんな態度をどこか不自然に感じながらも、それを推し量る術を持ち合わせていなかったのだ―――。
結局、シルフィール様に押し切られる形でカインの申し出を受けることになってしまったわたしは、不本意ながら乗り込むことになってしまった黒塗りの高級馬車に揺られながら、一人盛大に頭を痛めていた。
わたしの隣にシルフィール様、その正面に向き合う形でカインが座った車内では、約束通りノヴァの話が繰り広げられ、カインは幸せそうな顔で、シルフィール様も聞きたかった話を聞けて満足げな様子で、和やかな雰囲気に包まれているけれど、そんな中、わたしだけは心中穏やかでいられない。
ああ……身元の裏が取れていない人間の馬車に最愛の妹君を乗せてしまったことがクリストハルト陛下に知れたら、どんな沙汰があるだろう。考えただけで恐ろしい。
まいったなぁ……それでなくてもわたしはヴァルターの一件で微妙な立場なのに……。
そのヴァルターは今日もついてきている気配があったから、この報告は確実に陛下へ行くものと思われた。いや、絶対に行く。くうう、頭ばかりか胃までキリキリと痛んできた。
わたしはね、止めたのよ。口酸っぱく何度も何度も。
でも、シルフィール様の好奇心を止めることは出来なかった―――。
心の中でそう言い訳を並べた後、わたは頭を現実に切り替えた。
今更くよくよしても仕方がない、今後のことを考えよう。とりあえず考えるべきは、馬車で「どこまで送ってもらう」のか。
「シルケ様」の家(王城)を特定されるわけにはいかないから、家の近くだと家人に見咎められた時に困るということを理由にして(厳しいお兄様がいるという設定だし)、カインが不審を抱かないよう、裕福な家が多いエリアで下ろしてもらうようにしようか―――。
思い悩めるわたしと楽しそうなシルフィール様を乗せた馬車は市街地を抜けて郊外へと進み、車窓の景色を優しい緑の色合いが彩り始めた。
まずいなぁ……街から離れる予定じゃなかったのに。せめて帰城時刻が遅くならないように留意しないと……。
カインがラズフェルト侯爵から預かったという届け物は、王都近郊の保養地で療養している侯爵の知り合いへの見舞いの品という話だった。療養は長期に及んでいるらしく、カインはこうして定期的に見舞いの品を届けに来ているのだという。
街道を外れ豊かな緑に囲まれた小道をしばし進んでいくと、ほどなくして生い茂る木々の中から閑雅な屋敷が現れた。
「ああ見えましたね、あちらのお屋敷です。ひとことご挨拶して、お見舞いの品をお渡ししたら馬車へ戻る形になると思いますが、ご当主は少々気難しい方なので、もしかしたら少しお時間をいただくことになるかもしれません。そんなにお待たせしないとは思うのですが……申し訳ありませんが、その間こちらの馬車でお待ちいただけますか?」
よし、カインが席を外している間に作戦会議だ。この後をどう切り抜けるか、シルフィール様としっかり打ち合わせねば。
「分かりました、お気遣いなく。私達はこちらで待たせていただきますね」
シルフィール様の了承を得たカインは安堵の表情を見せ、座席の傍らに設えられた収納ボックスを示した。
「ありがとうございます。あの、携帯用のポットになりますが、こちらにお茶の用意がありますので、宜しければお待ちの間、ご自由にどうぞ」
これは嬉しい気遣いね、シルフィール様も喉が渇いている頃合いだろうし。
まもなく馬車が止まると、カインは見舞いの品が入っているらしい黒い持ち手のついた四角い銀色のケースを持って立ち上がった。
お見舞い……というより、仕事に行くみたいな印象ね。
「では行ってまいります。なるべく早く戻るようにいたしますね。何かありましたらこちらの小窓から御者の方へお申し付け下さい。シルケ様、戻りましたらまたノヴァの話をしましょう。まだ語り切れていない彼の話、たくさんありますので」
「楽しみにしています。行ってらっしゃいませ」
シルフィール様の好奇心を刺激する言葉を残して馬車を下りたカインの何気ない物言いに、わたしは先程ラステルの言葉でも感じた違和感を思い出した。
―――あれ? まただ。どうして……。
「お言葉に甘えてお茶をいただきましょう、リーフィア。私、喉が渇いてしまって」
「あ―――はい、今お入れしますね」
ひとまず考えることをやめたわたしはお茶を用意する為、先程カインに教えてもらった収納ボックスを開いた。中には金属製のポットと金であしらわれた繊細な細工が入った上品な茶器のセットが入っていて、気軽に手にすることが憚られる高級感を漂わせている。
「まあ、可愛い。素敵なデザインね」
全く臆することなくそれを手に取り様々な角度から愛でていたシルフィール様は、茶器の裏側、高台内に刻印された家紋を見て、思わぬことを言い出した。
「あら? この家紋……ゼルネアス家のものではなかったかしら?」
ゼルネアス家? ラズフェルト家ではなくて?
「えっ……本当ですか?」
思わず横から茶器を覗き込むと、じっと紋様に見入っていたシルフィール様は改めてそう結論付けた。
「うん……やっぱりそうよ、間違いないわ。これはゼルネアス侯爵家の家紋よ」
こういうところは的確な方だ。シルフィール様がここまで仰るなら、これはゼルネアス家の家紋で間違いないのだろう。
でも……だとしたら、何で?
不意に湧き起こった冷たい予感が、胃の腑の辺りをひんやりと締めつける。
変じゃない? どうしてラズフェルト侯爵所有の馬車に、ゼルネアス侯爵家の家紋が入った茶器があるの?
「あの……勉強不足ですみません。ゼルネアス家とラズフェルト家はどういった関係にあるんでしたっけ?」
従者として恥ずかしい話だけれど、王家を取り巻く貴族間の関係なんかはまだ把握しきれていない。恥を忍んで尋ねると、シルフィール様は記憶をさらう素振りを見せた。
「ええと……両家の間に親族間の婚姻といった親戚関係はなかったと思うわ。私もあまり詳しくはないのだけれど、どちらかといえば政治的に対立した関係にあって……贈り物をやり取りするような間柄ではなかったと記憶しているのだけれど……」
憶測が現実味を増していく薄暗い情報に血の気が引き、心臓がドッ、と冷えた音を立てる。
「でも、実際こうしてゼルネアス侯爵からの贈り物をラズフェルト侯爵が使っているのなら、両家の関係は私が思っていたよりも良好なものだったということよね。杞憂だったのだとしたら、嬉しい誤算だわ」
前向きな見解を口にするシルフィール様を視界の端に捉えながら、わたしは緊張する手で金属製のポットを開け、中の香りを確かめた。
ふわりと漂う芳香の中に、茶葉とは違うごくわずかな異物の匂いを感知し、息を飲む。おそらく人間には嗅ぎ取ることが出来ない種類の、何かの薬が入っている。
「シルフィール様、馬車を下りましょう」
突然そう言い出したわたしに、シルフィール様は兄王と同じ空色の瞳を瞬かせた。
「えっ? 何故?」
「詳しい説明は後でしますが、残念ながら両侯爵家はやはり仲が悪かったと考えた方が良さそうです」
そう答えながら馬車のドアを開けられるか試してみると、どうやら外側から鍵がかけられているらしい感触が伝わってきた。
やはり、開かないか。
予測はしていたことながら、それを知ってじわりと掌に汗が滲んだ。
「……開かないの?」
「はい」
短く頷きながら、カインに嵌められたことを確信して歯噛みする。人の良さそうな外見と「シルケ様」を一途に想う演技に、まんまと騙された。
やられた! あの男、最初からこれが目的で……! くそっ、むざむざ怪しいところまでシルフィール様を連れてきてしまった!
自身の不甲斐なさに、きつく拳を握りしめる。
おそらく―――カインはおそらく、元々シルフィール様の顔を知っていたのに違いない。
彼がラズフェルト家側の人間なのかゼルネアス家側の人間なのか―――今ここで即断することは出来ないけれど、彼が「シルケ様」を「シルフィール様」だと認識した上で接触してきていたことは、間違いないだろう。
ゼルネアス家の人間がラズフェルト家側の人間を装ってシルフィール様を謀り、その罪をラズフェルト家に負わせようとしているのか?
それともラズフェルト家側の人間が、偽りの家紋が入った茶器を利用することでゼルネアス家を王妹誘拐の罪に陥れようとしているのか―――。
見舞いの話は、確実に嘘だ。この屋敷には何があるの? ここへシルフィール様を連れてきた目的は!?
ノヴァの話は口からでまかせ? だとしたら、カインは何故あんなことを―――?
ぐるぐると思考が渦巻いて、忙しなく胸を叩く鼓動が耳の奥で反響し、息苦しさを募らせて、突き付けられた現実の重さに、目の前が歪んで視界が薄暗く狭まっていく。
いずれにせよ、まんまと謀られてしまったのだ。わたしの落ち度だ。
「……リーフィア。そのお茶をいただくことは、出来る?」
不穏な状況に置かれていることは理解しただろうに、シルフィール様は取り乱すことをせず、どこかユーモアを交えた表情でそう尋ねてきた。
いつも通りの柔らかな声音。そのあまりにも悠然とした調子に何だか肩の力が抜けて、その拍子に自分がパニックに陥っていることに気が付いた。無意識に詰めてしまっていた息を吐き出すと、自然と身体の強張りが解け、ゆっくりと呼吸が出来るようになる。すると緊張で狭まっていた視界が開けて、あれほど激しかった動悸も緩やかに治まっていった。
まるで、呪縛が解けたかのような感覚だった。
パンパンに張り詰めていた緊張感から少しだけ解放されて、どうにか冷静さを取り戻す。
「……残念ながらダメです。おそらく睡眠薬か痺れ薬の類で、致死毒ではないと思いますが、いずれにしろ身体に良くないものが入っていますね」
自分でも驚くほどこの場にそぐわない、穏やかな声が出ていた。
不思議だ。決して楽観できる状況ではないのに……シルフィール様のひと声で、空気が変わった。
これが、王族の器量というものなんだろうか?
「まあ……残念なおもてなしね」
細い眉を寄せて溜め息をついたシルフィール様の纏うゆったりとした空気は、こんな状況下にあっても変わらない。
政権交代の最中には色々危険な目に遭われたらしいという噂を耳にしたことがあるけれど、この動じなさっぷりはそういった過去の経験に基づいているものなんだろうか?
「ここを出たら森の清水で喉を潤しましょう。それまではすみませんが我慢して下さい」
「仕方がないものね。でも、外側から鍵がかかっているのに、どうやって馬車の外へ出るというの?」
「こちら側から開けられないのなら、外から開けてもらえばいいんです」
「えっ、外から?」
「はい。あちらはまだわたし達がこの事態に気付いていることを知りませんから、もっともらしい理由を述べて見張りの御者に開けてもらいしましょう」
「素直に開けてくれるかしら?」
「大丈夫ですよ。これまでの様子からいって、向こうもギリギリまで正体がバレることは避けようとするはずですから」
「……ごめんなさいね、リーフィア。私が貴女の言うことを聞かなかったばかりに……」
おお、そういう意識はあったんですね。
突然殊勝な態度を見せたシルフィール様にちょっとびっくりしつつ、こういうことがまたあってはたまらないので、わたしはもっともらしく苦言を呈した。
「本当ですよ。これに懲りて、次回からはご自分の意見ばかりでなく、わたしの意見もないがしろにせずにちゃんと聞いて下さいね。約束ですよ」
「とても反省しているわ……本当にごめんなさい」
「分かって下されば結構です」
大仰に頷いたわたしは、しゅんとうなだれているシルフィール様の手を取ると、その瞳を真っ直ぐに見つめて頬を緩めた。
「必ずお城までお連れしますから。ご心配なく」
わたしは、貴女の従者だもの。まだまだ一人前とは言えないけれど、その役目に対して、自分なりの矜持も覚悟も持っている。
絶対に、使命は果たしてみせる。
「……ふふ。ありがとうリーフィア、貴女がいてくれて心強いわ」
落ち込んでいたシルフィール様の顔に笑顔が戻った瞬間、細い腕が伸ばされると、次の刹那、わたしはシルフィール様の腕の中にいた。
柔らかな白金の髪が頬に触れる。わたしを包むたおやかな肢体と、温かな体温―――その行為に、主としてではなく、人としての温もりを感じた。
「えっ……シ、シルフィール様」
戸惑うわたしをぎゅっと抱きしめたまま、シルフィール様が耳元で囁く。
「こんな目に遭わせてごめんなさい、リーフィア。リーフィア―――大好きよ」
シルフィール様―――?
その言葉に二重の意味がこもっていたのだとわたしが知るのはそれからだいぶ後のことになるのだけれど、この時のわたしはまだ、主のそんな態度をどこか不自然に感じながらも、それを推し量る術を持ち合わせていなかったのだ―――。
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