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覚醒編
聖女奇譚
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ガゼの里の一室。
丸椅子に座ったあたしの前には、ベッドに腰掛けたアキレウスとパトロクロス、ガーネットがいる。
いつもと違うあたしの雰囲気に何かを察したのか、向き合う三人の顔は神妙で、じっとあたしが口火を切るのを待っていた。
「みんなに、話があるんだ」
あたしはそう言ってゆっくりと仲間達を見渡し、おもむろにそれを伝えた。
「あたし―――記憶が戻ったの」
唐突な告白に、みんなの顔が驚きに彩られる。
「―――本当か!?」
「スゴい、やったじゃない!」
「おめでとう、良かったな」
一様に沸き立つその中で、はにかんだような表情のまま止まっているあたしを見て、みんなの笑顔がぎこちなく固まった。
「オーロラ?」
「うん……あのね、あたし、自分を取り戻せてすごく嬉しい。でも、思い出して色々分かったことがあって―――」
ああ、本当のことを言うのって、自分を曝け出すって、勇気がいるなぁ。
膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めて、あたしは左の小指にある指輪を見た。
―――あたしに、勇気を。
ひとつ深呼吸をして、あたしは核心部分を絞り出した。
「あたしは……あたしは“聖女”なんて言われているけど、そんな呼び名にはふさわしくない―――……」
心臓が怯えた鼓動を奏でる。緊張で、キリキリと胃が痛んだ。
「グランバードの件で、みんな薄々感じているかもしれないけど……記憶を失う前―――あたしと……四翼天には、繋がりがあった。あたしは、その昔、ルシフェルと共に在ったの。彼の、一部だった。彼の中にあった、澱み。不純物とされたモノ。ルシフェルから切り離され具現化したモノ、それが―――あたし……」
一度言葉を区切って、あたしはそれを告げた。
「あたしは―――みんなとは違った。人間じゃ、なかった……」
みんなの中を駆け抜けた衝撃は、アキレウスを襲った衝撃は、どれほどのものだったのだろう。
室内に、永劫とも思える重い沈黙が下りる。
みんなの顔を見るのが怖くて、あたしは自分の膝の辺りから視線が上げられなかった。
そして―――祈るような気持ちで、とつとつと、あたしは“あの日”のことを語り始めた―――。
三年前―――ルシフェルの居城―――。
「準備はいいのか、ルシフェル?」
ぞんざいな口調でグランバードが玉座に座る漆黒の男を振り仰いだ。
闇色のゆったりとした長衣の上から物々しい飾りのついた外套を羽織ったその男は、いつもと変わらぬ冷たい芸術品のような面差しで壇上からグランバード達を見下ろしている。
蒼白い光に映し出された薄暗い玉座の間にはグランバードを含めた四翼天が勢ぞろいしていた。
彼らはこれから行われるある儀式の為に、久方ぶりに顔をそろえたのだ。
その儀式とは―――。
「へへ、“澱み”の排除、ねェ……おめェみてーな野郎でも上手くいかねェってコトがあるんだな。いいねェ生き物っぽくて」
「グランバード!」
主君に対する不遜な物言いにカルボナードが牙を剥く。
「ルシフェル様を愚弄するな」
「そぉよぉ、許しがたいわ~。あんた如きがルシフェル様にそんな口を利くなんて、百万年早いのよっっ!」
ぷんぷん、と愛らしい頬を膨らませてカルボナードに追従したのはセルジュだ。したたかな魔性は、極上の精気を持つ主君の為ならば、気に入らない女に同調することも厭わない。
「うげ、うぜェ……ルシフェルの野郎が一人じゃ出来ねェっつーからオレらが集まってやったんだろー」
「下郎が。我々が呼ばれたのはあくまで万全を期す為だ。万が一にも“人類殲滅計画”に支障をきたすことのないようにな……この機会に、たるみきったその性根を叩き直して帰るがいい」
「そうよ、そうよー!」
「あんだとぉ? てめェらまとめて犯してやろうか」
その時、独り離れた場所に佇んでいたアルファ=ロ・メがスラリと闇色の大剣を抜き放った。
「―――始まるぞ」
それまでの喧騒が収まり、一同が注視する中―――玉座に座したまま瞳を閉じ、精神を集中させていたルシフェルの周りから、ゆらりと陽炎のようなものが立ち上った。
ゆらゆら、ゆらゆら。
次第に大きく、不安定な輝きを増していくそれ―――辺りに充満していく“誕生”の気配に、好戦的な血が騒ぐのを覚えながら、グランバードはベロリと唇の端をなめ上げた。
「さぁて、どんなバケモノが出てくっかぁ……?」
ルシフェルが眉根を寄せ、うっすらと額に汗を滲ませる。初めて目にするその姿に、セルジュは胸をときめかせた。
いや~ん、苦悶するルシフェル様も素敵~! 何て色っぽいのかしら!?
「ルシフェル様……」
主君の様子を案じるカルボナードから少し距離を置いたところで、剣を携えたアルファ=ロ・メは感情の窺い知れない眼差しをルシフェルへと注いでいる。
「……っ」
わずかに呼吸を乱し、ルシフェルが形の良い頬に力を込めた。周囲に溢れ出ていた陽炎のような揺らぎが閃熱を伴って膨れ上がり、広大な空間の遥か上方にある天井近くまで達すると、暴れ狂うようなうねりを帯びて、ルシフェルの元へと急降下してくる。在るべき場所へ舞い戻ろうとするかのようなその動きを目に見えない障壁で抱え込むようにして制したルシフェルの、闇をそのまま塗り立てたかのような長い漆黒の髪が宙に舞う。戻ろうとするチカラと排除しようとするチカラ―――ぶつかり合う強大なチカラに空間が悲鳴を上げ、捻じ切れるようないびつな音を立てる。次の瞬間、行き場を失ったチカラの奔流が爆発する前兆のように大気が拍動し、ルシフェルの蒼天色の瞳がカッ、と見開かれた!
「来るぞ!」
カルボナードが短く叫んだ。刹那、爆裂のような衝撃波を纏い、“主体”から引き剥がされた揺らぎが、周囲を焼き尽くすような熱量を伴って、玉座の間に出現した!
吹き荒れる灼熱の風の中、各々の結界で身を守りながら、四翼天達が“それ”を凝視する。
「……!」
眩い眩い……不安定に移ろう光の繭のような揺らぎは、彼らの前で綻びるように解けていき、やがてひとつの姿を形どった。
「オンナ……?」
瞳を細め、グランバードが呟く。
光の繭から現れた“それ”は、ゆっくりと色彩を纏い、彼らの前にその姿を現した。
腰の辺りまで流れる、黄金色の髪。深い海の色を湛えた藍玉色の瞳。程良い高さの鼻梁の下で花開く、薄紅色の唇―――楚々とした少女の外観をした存在のその背には、白に近い、仄かに灰色味を帯びた見事な翼が生えている。
「くく、こりゃ驚いた。面白ェくれールシフェルと正反対だな」
揶揄するグランバードの声に重々しいルシフェルの声が重なった。
「―――殺せ」
四翼天達の動きは迅速だった。対象の四方を囲み、銘々の武器を振るう!
無垢な表情を湛えていた生まれたての少女は、生まれ備えた自己防衛本能からか、向けられた殺意に敏感な反応を示した。彼女の周囲に強力な結界が生まれ、この世のほとんどの者を一撃で屠り去る四翼天達の攻撃を防ぎきる!
「!」
「へへ、カスはカスでもさすがはルシフェル純正ってコトか……」
四翼天を害なすものと認識したのか、少女の表情が変わった。同時に沸き立つような魔力の波動が彼女を軸に巻き起こり、直後、それは破壊のチカラとなって放たれた。
グオンッ!
ルシフェルの力によって守られているはずの城が不気味な振動を伴って揺れ、城壁が声なき悲鳴を上げる。四翼天達は結界によってそれを防いでいたが、彼らを包む守護の膜を食い千切らんと、チカラは更に荒れ狂う。
初めて使う自分のチカラが楽しいのか、少女は無邪気な声を立てて笑いながら、その限界を確かめるかのように、なお一層その出力を上げていく。
「けっ、笑ってやがる」
舌打ちするグランバードから少し離れたところでセルジュが唇を尖らせた。
「調子に乗ってる~」
「だが、所詮は生まれたての赤子同然の存在だ―――いかに強大な力を持とうとも、その使い方がつたなすぎる」
細身の剣を構えたカルボナードより一拍早く、アルファ=ロ・メが動いた。
音もなく振るわれた闇色の大剣が少女を包む結界を切り裂くと、無防備に晒されたその肢体に、カルボナードが走らせた刃の軌跡が刻まれる。
「へー、血は赤ェな。てェことはルシフェルの血も赤ェのか? あんな生まれ方をしたのに不思議だねェ」
カルボナードが剣呑な眼差しを向けてきたのでグランバードは軽口を畳んだ。
初めて体感する痛みと流れ落ちる血の感覚に驚いたのか、少女はチカラを振るうことも忘れ、呆然と藍玉色の瞳を見開いて、自身の身体を抱きしめるようにしていた。その身体を、セルジュの鞭が拘束する。
「つっかまえた~」
語尾に音符がつかんばかりのピンクの魔性を、苦痛と混乱の入り混じった瞳で少女が見やる。
この世に生まれ出でてすぐ、まだ何もおぼつかない―――喜怒哀楽すら自身の感覚として知り得ない―――彼女に突然叩きつけられた様々な負の感情、種々の感覚―――何が何だか分からないうちに身体から赤いものが流れると、その部分がひどく痛んだ。そして今、体内に楔を穿ち自由を奪う、ひどい痛みをもたらすモノ―――難しいことは何も分からなかったが、自身の生命が脅かされる状況にあることだけは本能的に理解出来た。
「うふふっ、怯えないでよルシフェル様の欠片ちゃん。そんなヒドいコトしないからー。ちょっと精気をもらうだけっ。あたしが女から精気をもらうなんて、普段は絶っっ対有り得ないコトなんだからっ。自慢していいわよ?」
セルジュは少女の長い髪を掴んでその顔を上げさせると、おもむろに眼球に指を突っ込もうとした。
少女の中に鋭い警鐘が鳴り響く。あれが突っ込まれたら、生命活動が危機的な状況に陥ることを直感的に察した。
―――イヤダ!
少女の中で『生』への渇望が弾ける。それは同時に、彼女の『自我』が目覚め、『死』への『恐怖』を感じた瞬間でもあった。
「きゃっ!」
指が触れる寸前、少女が放ったチカラにセルジュが悲鳴を上げる。気を付けていたつもりだったが、思った以上に相手のチカラが強かった。白い指が血に染まり、セルジュの表情が険悪なものになる。
「ダッセェな、手傷負わされやがって」
セルジュの不快感をことさら煽りながら、少女の背を踏みつけるようにして降り立ったのはグランバードだ。
「おらぁ、もう終わりかぁ!?」
全体重をかけて細い背中を乱暴に踏みにじりながら、鋭い鉤爪でギリギリと抉るように締めつける。
「っ、あぁッ」
紅い男の責め苦と体内に穿たれた緑色の楔がもたらす激痛にたまらず呻き声を上げながらも、少女は首を巡らせ、己に危害を加える存在をにらみつけた。その様子が、グランバードの苛虐心に火をつける。
そして少女が反撃に転じようとした瞬間を見計らって、グランバードは手にした彼女の片翼を力任せにへし折った。鈍い音と共に少女の苦痛の悲鳴が響き、紅い悪魔を高揚させる。
「いい悲鳴で啼くじゃねェか……」
言いざま、もう片翼に手を伸ばし、同じようにへし折る。再び響き渡った切ない声を聞き、彼は満足そうに鋭い牙を覗かせた。
「はっはぁ……いいねェ……」
「自分だけ愉しんでずるい、ずるい!」
出遅れたセルジュは駄々をこねる子供のように頬を膨らませながら、負けじとばかりに無残にへし折れた片翼を手にすると、その腕に力を込めた。
「やられた分は何倍にもして返すわよ」
肉の繊維が引きちぎれていく生々しい音が響き、翼の付け根から鮮血が迸__ほとばし__#る。少女の悲鳴が絶叫へと変わり、のたうつ彼女の背から仄かに灰色味を帯びた白い羽根が舞い散った。
「うふふ、綺麗ねぇ、たぁっのしい~!」
「ちっ、オレにもヤらせろよ」
「やぁよ、あんた両方ともへし折ったじゃない。これはあたしの~!」
「折るとちぎるじゃ爽快感が違いすぎんだろ」
セルジュが片翼を引きちぎりきらないうちにグランバードがもう片翼を手にしたので、あせった彼女は残りを乱暴に引きちぎった。
「うぅあ、あああああーっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げ、もがく少女の残った片翼を巡り、セルジュとグランバードの主導権争いが続く。
「これはあたしのだって言ってんでしょ~! 離しなさいよ!」
「るせェ! オレによこせって言ってんだろ!」
互いにどらちも譲らないのが分かり切っているので、事は自然と早い者勝ちの様相を呈した。
四翼天二人の尋常でない力が残る翼に加わり、気が遠くなるような苛烈な痛みに、少女の生存本能が激しい警鐘を鳴らす。どうにかこの状況から逃れようとあがく中、苦痛の涙で濡れる視界に映った、自分を見下ろす氷のような蒼い瞳が、何故か胸に突き刺さった。
その時―――空気が唸るような微振動を感じ、カルボナードはハッと周囲を見渡した。
―――何だ?
アルファ=ロ・メもそれに気付いたらしい素振りを見せる。
気のせいではない。また―――そしてまた。徐々に強くなっていくそれは、やがて空間全体を唸らせるようなものへと変わり、玉座の間を揺らし始めた。
「! 遊んでいないで早くとどめを刺せ!」
異変の根源を察知したカルボナードが叫ぶのと、少女を戒めていたセルジュの鞭が力を失い床の上に落ちるのとが同時だった。
「あたしの相棒……!」
「おっわ!? 何だ、熱ッ……!」
引きちぎられかけていた少女の翼が突如、太陽のような熱と光を持って輝き、そのあまりの熱さにセルジュとグランバードは思わず手を離した。
その眼前で、息も絶え絶えの少女が残る力の全てを振り絞り、へし折れちぎれかけた片翼を羽ばたかせると、空間がたわむ気配がして、彼女の周辺の景色が裂けた。
四翼天達はその光景に目を疑った。空間が裂ける、そのような現象は彼らとて目にしたことのない、現実的には有り得ないはずの事象だった。
だが今、確かに少女の周りにはそうとしか呼ぶことの出来ない裂け目ができ、そこからは異次元の眩い光が覗いている。
驚愕を覚えながらも四翼天達は手負いのターゲットにとどめを刺すべく、動いていた。だが、間近にいたグランバードとセルジュの手が届く寸前、少女の姿は光の狭間へと消えていた。
「ちいッ」
舌打ちしたグランバードの手が空を切る。空間の裂け目は消え、そこには少女の流した血と、無残にちぎられた片翼だけが忽然と残されていた。
「マジかよ……次元の狭間を切り開きやがった。ルシフェル、お前にもあんな能力があんのか?」
事の成り行きを黙して見ていた漆黒の男は、任務を完遂出来なかった配下の失態に声を荒げるでもなく、淡々と答えた。
「いや……私にはない。“なくなった”という言い方が適当かもしれぬが……あれは極限状態に追い詰められた末の偶発的な能力の開眼だろう。時空の翼、とでも呼ぶべきか……だが、しくじったな。四翼天がそろいながら、あのように仕損じるとは」
「……申し訳ありません」
カルボナードら三人が姿勢を正し控える中、グランバードだけはあくまで不遜だった。
「言い訳はしねェ。けどな、お前も見てるだけで動く気がなかったじゃねェか。どうしてみすみす取り逃した?」
「ふ……実際に“あれ”を見て、少し思ったところがあってな」
「……悪いこと考えてんだろうなぁ、お前。そういうツラになってるぜ」
グランバードの声には答えず、ルシフェルは独り言のように呟いた。
「このまま息絶えるならそれもよし、生き延びて再び我が前に現れることがあれば―――その時はお前をこう呼ぼう。我が身から分かたれし罪深き存在、『イヴ』と―――」
眩い光の溢れる時空の海を流されていくような感覚の中、長いのか短いのかも判然としないその中で、生まれたばかりの少女の自我は、主体から受け継がれた幾ばくかの、けれど莫大な情報量を吸収しながら、自分という存在を構築していく。
けれど、瀕死の身体には血が足りず、自身の生命機能を維持するのにいっぱいいっぱいで―――それは血流障害のように、彼女の記憶に影響を及ぼした。
そして、今―――ちぎれかけながらも、彼女を時空の狭間へと導いた時の翼は限界を迎え―――完全にその背からちぎれ、仄かに灰色味を帯びた羽根を撒き散らしながら、時空の彼方へと消えていった。
時空を翔ける翼を失った少女は、次元の裂け目から堕ちていく。
そこは、西暦1862年、常夏の国マエラのとある港町だった―――……。
「そしてあたしは酒場のマスターに助けられたの。記憶はなくしてしまったけれど、一命を取り留めて―――三年後、ローズダウンの神官達の呪文で召喚されて、この時代へ戻ってきた……」
自分の膝の辺りに視線を彷徨わせたまま、あたしは続けた。
「だから、全く違う時代へ来たはずなのに言葉を理解出来たし、文字も読めたんだ。ルシフェルの記憶や感覚を一部共有していた部分があるから……。魔法についてもそう。みんなとは根本的に魔力の錬成の仕組みが違っていた……だから本来魔力を増幅発動させるはずの呪文が壁になって、普通の方法ではチカラを使えなかった」
概要を語り終えたあたしは、意を決して目線を上げ、みんなの顔を見た。
アキレウスに、パトロクロスに、ガーネット。
みんな驚きを隠せない様子だったけれど、誰も目を逸らすことなく、真っ直ぐにあたしを見つめていた。
「……聞いていい? どうしてルシフェルはオーロラを排除しなきゃいけなかったのかしら。“澱み”って言ってたけど、それって具体的に何を指しているの?」
そう遠慮がちに切り出したのはガーネットだった。
「ルシフェルが何故あたしを排除するに至ったのか―――それは、彼の生誕に大きくかかわっているんだ」
「生誕に?」
パトロクロスが身を乗り出す。
「うん……話は旧暦の終末、『大破壊』まで遡るんだけど……『大破壊』は、人間を始めとする地球上のほとんどの生命体にとって予期しない出来事だったの。突然全てが奪われたその瞬間、地球上に溢れた負の感情は、そのエネルギーは、想像を絶するものだった―――死んでしまった者、生き残ってしまった者、取り残されたモノ、全ての行き場のない想いが渦巻いて、ルシフェルを生み出した―――地球上の生命体の増幅思念、それが具現化した存在がルシフェルなの」
「!!!」
全員が、言葉を失った。
「まさか……」
「そんな……」
「……じゃあ」
一拍置いて、呻くように呟いたきりパトロクロスとガーネットが二の句を継げない中、アキレウスが声を絞り出すようにして言った。
「ルシフェルを生み出したのが、昔の人間達の残存思念っていうんなら……今、オレ達を、人類を滅ぼそうとしているのは、過去の人類の意思ってことになるのか?」
「……少し違う。人類の思念は大きな部分を占めていると思うけど、草木や動物達……生きとし生ける全てのものの無念の思いが、ルシフェルという存在を作っているの」
「つまり……地球そのもの、ってことか? オレ達は……人類は、過去の同胞どころか、この星そのものに消滅を望まれている?」
暗澹とした表情になるアキレウスの言葉をあたしはやんわりと否定した。
「違う……だから、あたしがいるの」
「え?」
「人類を愛しく思う存在も、少なからずいたよ。ルシフェルを作り出した沢山の想いの中には、そういう祈りにも似た想いも混じっていた……それがあったから、長い間、ルシフェルは人類殲滅計画……『ユートピア』を実行に移さず、その下準備だけを進めてきたの」
「人類殲滅計画? ユートピア? 血文字のあれか? 全世界で一斉に起こったっていう……」
“粛清の時はきたれり。滅びよ。大地の怒りと共に。滅びよ。大海の嘆きと共に。滅びよ。大気の祈りと共に。断罪の剣を振るいし我が名に於いて、人類の殲滅をここに宣言する。蒼き惑星は、楽園へと再生する”
あたしは頷いた。
「うん、そう。長い間計画の弊害になっていた『あたし』を取り除くことに成功して―――満を持してルシフェルはそれに踏み切った。そして今に至っている……」
「オーロラは……過去の英霊達の祈りの欠片ということか? ルシフェルの中にあった、人類への良心?」
パトロクロスの表現にあたしは微苦笑した。
「良心かどうかは分からないけど……過去の魂達の祈りの欠片、その表現は合っているんだと思う」
「じゃあ、オーロラはシヴァとおんなじであたし達の希望じゃないの」
あっけらかんとしたガーネットの物言いは、あたしの心の奥を仄温かくした。
「希望……そんなふうに、思ってくれる?」
そう口にしながら、語尾が震える。
やばい……涙、出そう。
堪えるあたしの前で、三人は顔を見合わせ、同時に口を開いた。
「当たり前だろ!」
「当~然!」
「無論だ!」
タイミングはピッタリなのに、言葉がそれぞれ違うのが何だがおかしくて、あたしは軽く吹き出した。吹き出しながら、泣き笑いの様相に変わっていく。
「ありがとう~……」
顔を覆って泣き出したあたしの周りにみんなが集まってきた。
「頑張ったわね。こちらこそ、話してくれて、ありがとう……」
優しい声で囁いて、ガーネットがぎゅっと抱きしめてくれる。そこであたしの涙腺は決定的に壊れてしまった。
大きくしゃくりを上げて泣き始めたあたしの傍らで、アキレウスとパトロクロスが優しく見守ってくれているのが感じられる。
大好きな人達に受け止めてもらえて、そしてまた受け入れてもらえて、あたしは何て幸せなんだろう。
この気持ちがあれば、生きていける。
明日からまた、頑張れる―――。
丸椅子に座ったあたしの前には、ベッドに腰掛けたアキレウスとパトロクロス、ガーネットがいる。
いつもと違うあたしの雰囲気に何かを察したのか、向き合う三人の顔は神妙で、じっとあたしが口火を切るのを待っていた。
「みんなに、話があるんだ」
あたしはそう言ってゆっくりと仲間達を見渡し、おもむろにそれを伝えた。
「あたし―――記憶が戻ったの」
唐突な告白に、みんなの顔が驚きに彩られる。
「―――本当か!?」
「スゴい、やったじゃない!」
「おめでとう、良かったな」
一様に沸き立つその中で、はにかんだような表情のまま止まっているあたしを見て、みんなの笑顔がぎこちなく固まった。
「オーロラ?」
「うん……あのね、あたし、自分を取り戻せてすごく嬉しい。でも、思い出して色々分かったことがあって―――」
ああ、本当のことを言うのって、自分を曝け出すって、勇気がいるなぁ。
膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めて、あたしは左の小指にある指輪を見た。
―――あたしに、勇気を。
ひとつ深呼吸をして、あたしは核心部分を絞り出した。
「あたしは……あたしは“聖女”なんて言われているけど、そんな呼び名にはふさわしくない―――……」
心臓が怯えた鼓動を奏でる。緊張で、キリキリと胃が痛んだ。
「グランバードの件で、みんな薄々感じているかもしれないけど……記憶を失う前―――あたしと……四翼天には、繋がりがあった。あたしは、その昔、ルシフェルと共に在ったの。彼の、一部だった。彼の中にあった、澱み。不純物とされたモノ。ルシフェルから切り離され具現化したモノ、それが―――あたし……」
一度言葉を区切って、あたしはそれを告げた。
「あたしは―――みんなとは違った。人間じゃ、なかった……」
みんなの中を駆け抜けた衝撃は、アキレウスを襲った衝撃は、どれほどのものだったのだろう。
室内に、永劫とも思える重い沈黙が下りる。
みんなの顔を見るのが怖くて、あたしは自分の膝の辺りから視線が上げられなかった。
そして―――祈るような気持ちで、とつとつと、あたしは“あの日”のことを語り始めた―――。
三年前―――ルシフェルの居城―――。
「準備はいいのか、ルシフェル?」
ぞんざいな口調でグランバードが玉座に座る漆黒の男を振り仰いだ。
闇色のゆったりとした長衣の上から物々しい飾りのついた外套を羽織ったその男は、いつもと変わらぬ冷たい芸術品のような面差しで壇上からグランバード達を見下ろしている。
蒼白い光に映し出された薄暗い玉座の間にはグランバードを含めた四翼天が勢ぞろいしていた。
彼らはこれから行われるある儀式の為に、久方ぶりに顔をそろえたのだ。
その儀式とは―――。
「へへ、“澱み”の排除、ねェ……おめェみてーな野郎でも上手くいかねェってコトがあるんだな。いいねェ生き物っぽくて」
「グランバード!」
主君に対する不遜な物言いにカルボナードが牙を剥く。
「ルシフェル様を愚弄するな」
「そぉよぉ、許しがたいわ~。あんた如きがルシフェル様にそんな口を利くなんて、百万年早いのよっっ!」
ぷんぷん、と愛らしい頬を膨らませてカルボナードに追従したのはセルジュだ。したたかな魔性は、極上の精気を持つ主君の為ならば、気に入らない女に同調することも厭わない。
「うげ、うぜェ……ルシフェルの野郎が一人じゃ出来ねェっつーからオレらが集まってやったんだろー」
「下郎が。我々が呼ばれたのはあくまで万全を期す為だ。万が一にも“人類殲滅計画”に支障をきたすことのないようにな……この機会に、たるみきったその性根を叩き直して帰るがいい」
「そうよ、そうよー!」
「あんだとぉ? てめェらまとめて犯してやろうか」
その時、独り離れた場所に佇んでいたアルファ=ロ・メがスラリと闇色の大剣を抜き放った。
「―――始まるぞ」
それまでの喧騒が収まり、一同が注視する中―――玉座に座したまま瞳を閉じ、精神を集中させていたルシフェルの周りから、ゆらりと陽炎のようなものが立ち上った。
ゆらゆら、ゆらゆら。
次第に大きく、不安定な輝きを増していくそれ―――辺りに充満していく“誕生”の気配に、好戦的な血が騒ぐのを覚えながら、グランバードはベロリと唇の端をなめ上げた。
「さぁて、どんなバケモノが出てくっかぁ……?」
ルシフェルが眉根を寄せ、うっすらと額に汗を滲ませる。初めて目にするその姿に、セルジュは胸をときめかせた。
いや~ん、苦悶するルシフェル様も素敵~! 何て色っぽいのかしら!?
「ルシフェル様……」
主君の様子を案じるカルボナードから少し距離を置いたところで、剣を携えたアルファ=ロ・メは感情の窺い知れない眼差しをルシフェルへと注いでいる。
「……っ」
わずかに呼吸を乱し、ルシフェルが形の良い頬に力を込めた。周囲に溢れ出ていた陽炎のような揺らぎが閃熱を伴って膨れ上がり、広大な空間の遥か上方にある天井近くまで達すると、暴れ狂うようなうねりを帯びて、ルシフェルの元へと急降下してくる。在るべき場所へ舞い戻ろうとするかのようなその動きを目に見えない障壁で抱え込むようにして制したルシフェルの、闇をそのまま塗り立てたかのような長い漆黒の髪が宙に舞う。戻ろうとするチカラと排除しようとするチカラ―――ぶつかり合う強大なチカラに空間が悲鳴を上げ、捻じ切れるようないびつな音を立てる。次の瞬間、行き場を失ったチカラの奔流が爆発する前兆のように大気が拍動し、ルシフェルの蒼天色の瞳がカッ、と見開かれた!
「来るぞ!」
カルボナードが短く叫んだ。刹那、爆裂のような衝撃波を纏い、“主体”から引き剥がされた揺らぎが、周囲を焼き尽くすような熱量を伴って、玉座の間に出現した!
吹き荒れる灼熱の風の中、各々の結界で身を守りながら、四翼天達が“それ”を凝視する。
「……!」
眩い眩い……不安定に移ろう光の繭のような揺らぎは、彼らの前で綻びるように解けていき、やがてひとつの姿を形どった。
「オンナ……?」
瞳を細め、グランバードが呟く。
光の繭から現れた“それ”は、ゆっくりと色彩を纏い、彼らの前にその姿を現した。
腰の辺りまで流れる、黄金色の髪。深い海の色を湛えた藍玉色の瞳。程良い高さの鼻梁の下で花開く、薄紅色の唇―――楚々とした少女の外観をした存在のその背には、白に近い、仄かに灰色味を帯びた見事な翼が生えている。
「くく、こりゃ驚いた。面白ェくれールシフェルと正反対だな」
揶揄するグランバードの声に重々しいルシフェルの声が重なった。
「―――殺せ」
四翼天達の動きは迅速だった。対象の四方を囲み、銘々の武器を振るう!
無垢な表情を湛えていた生まれたての少女は、生まれ備えた自己防衛本能からか、向けられた殺意に敏感な反応を示した。彼女の周囲に強力な結界が生まれ、この世のほとんどの者を一撃で屠り去る四翼天達の攻撃を防ぎきる!
「!」
「へへ、カスはカスでもさすがはルシフェル純正ってコトか……」
四翼天を害なすものと認識したのか、少女の表情が変わった。同時に沸き立つような魔力の波動が彼女を軸に巻き起こり、直後、それは破壊のチカラとなって放たれた。
グオンッ!
ルシフェルの力によって守られているはずの城が不気味な振動を伴って揺れ、城壁が声なき悲鳴を上げる。四翼天達は結界によってそれを防いでいたが、彼らを包む守護の膜を食い千切らんと、チカラは更に荒れ狂う。
初めて使う自分のチカラが楽しいのか、少女は無邪気な声を立てて笑いながら、その限界を確かめるかのように、なお一層その出力を上げていく。
「けっ、笑ってやがる」
舌打ちするグランバードから少し離れたところでセルジュが唇を尖らせた。
「調子に乗ってる~」
「だが、所詮は生まれたての赤子同然の存在だ―――いかに強大な力を持とうとも、その使い方がつたなすぎる」
細身の剣を構えたカルボナードより一拍早く、アルファ=ロ・メが動いた。
音もなく振るわれた闇色の大剣が少女を包む結界を切り裂くと、無防備に晒されたその肢体に、カルボナードが走らせた刃の軌跡が刻まれる。
「へー、血は赤ェな。てェことはルシフェルの血も赤ェのか? あんな生まれ方をしたのに不思議だねェ」
カルボナードが剣呑な眼差しを向けてきたのでグランバードは軽口を畳んだ。
初めて体感する痛みと流れ落ちる血の感覚に驚いたのか、少女はチカラを振るうことも忘れ、呆然と藍玉色の瞳を見開いて、自身の身体を抱きしめるようにしていた。その身体を、セルジュの鞭が拘束する。
「つっかまえた~」
語尾に音符がつかんばかりのピンクの魔性を、苦痛と混乱の入り混じった瞳で少女が見やる。
この世に生まれ出でてすぐ、まだ何もおぼつかない―――喜怒哀楽すら自身の感覚として知り得ない―――彼女に突然叩きつけられた様々な負の感情、種々の感覚―――何が何だか分からないうちに身体から赤いものが流れると、その部分がひどく痛んだ。そして今、体内に楔を穿ち自由を奪う、ひどい痛みをもたらすモノ―――難しいことは何も分からなかったが、自身の生命が脅かされる状況にあることだけは本能的に理解出来た。
「うふふっ、怯えないでよルシフェル様の欠片ちゃん。そんなヒドいコトしないからー。ちょっと精気をもらうだけっ。あたしが女から精気をもらうなんて、普段は絶っっ対有り得ないコトなんだからっ。自慢していいわよ?」
セルジュは少女の長い髪を掴んでその顔を上げさせると、おもむろに眼球に指を突っ込もうとした。
少女の中に鋭い警鐘が鳴り響く。あれが突っ込まれたら、生命活動が危機的な状況に陥ることを直感的に察した。
―――イヤダ!
少女の中で『生』への渇望が弾ける。それは同時に、彼女の『自我』が目覚め、『死』への『恐怖』を感じた瞬間でもあった。
「きゃっ!」
指が触れる寸前、少女が放ったチカラにセルジュが悲鳴を上げる。気を付けていたつもりだったが、思った以上に相手のチカラが強かった。白い指が血に染まり、セルジュの表情が険悪なものになる。
「ダッセェな、手傷負わされやがって」
セルジュの不快感をことさら煽りながら、少女の背を踏みつけるようにして降り立ったのはグランバードだ。
「おらぁ、もう終わりかぁ!?」
全体重をかけて細い背中を乱暴に踏みにじりながら、鋭い鉤爪でギリギリと抉るように締めつける。
「っ、あぁッ」
紅い男の責め苦と体内に穿たれた緑色の楔がもたらす激痛にたまらず呻き声を上げながらも、少女は首を巡らせ、己に危害を加える存在をにらみつけた。その様子が、グランバードの苛虐心に火をつける。
そして少女が反撃に転じようとした瞬間を見計らって、グランバードは手にした彼女の片翼を力任せにへし折った。鈍い音と共に少女の苦痛の悲鳴が響き、紅い悪魔を高揚させる。
「いい悲鳴で啼くじゃねェか……」
言いざま、もう片翼に手を伸ばし、同じようにへし折る。再び響き渡った切ない声を聞き、彼は満足そうに鋭い牙を覗かせた。
「はっはぁ……いいねェ……」
「自分だけ愉しんでずるい、ずるい!」
出遅れたセルジュは駄々をこねる子供のように頬を膨らませながら、負けじとばかりに無残にへし折れた片翼を手にすると、その腕に力を込めた。
「やられた分は何倍にもして返すわよ」
肉の繊維が引きちぎれていく生々しい音が響き、翼の付け根から鮮血が迸__ほとばし__#る。少女の悲鳴が絶叫へと変わり、のたうつ彼女の背から仄かに灰色味を帯びた白い羽根が舞い散った。
「うふふ、綺麗ねぇ、たぁっのしい~!」
「ちっ、オレにもヤらせろよ」
「やぁよ、あんた両方ともへし折ったじゃない。これはあたしの~!」
「折るとちぎるじゃ爽快感が違いすぎんだろ」
セルジュが片翼を引きちぎりきらないうちにグランバードがもう片翼を手にしたので、あせった彼女は残りを乱暴に引きちぎった。
「うぅあ、あああああーっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げ、もがく少女の残った片翼を巡り、セルジュとグランバードの主導権争いが続く。
「これはあたしのだって言ってんでしょ~! 離しなさいよ!」
「るせェ! オレによこせって言ってんだろ!」
互いにどらちも譲らないのが分かり切っているので、事は自然と早い者勝ちの様相を呈した。
四翼天二人の尋常でない力が残る翼に加わり、気が遠くなるような苛烈な痛みに、少女の生存本能が激しい警鐘を鳴らす。どうにかこの状況から逃れようとあがく中、苦痛の涙で濡れる視界に映った、自分を見下ろす氷のような蒼い瞳が、何故か胸に突き刺さった。
その時―――空気が唸るような微振動を感じ、カルボナードはハッと周囲を見渡した。
―――何だ?
アルファ=ロ・メもそれに気付いたらしい素振りを見せる。
気のせいではない。また―――そしてまた。徐々に強くなっていくそれは、やがて空間全体を唸らせるようなものへと変わり、玉座の間を揺らし始めた。
「! 遊んでいないで早くとどめを刺せ!」
異変の根源を察知したカルボナードが叫ぶのと、少女を戒めていたセルジュの鞭が力を失い床の上に落ちるのとが同時だった。
「あたしの相棒……!」
「おっわ!? 何だ、熱ッ……!」
引きちぎられかけていた少女の翼が突如、太陽のような熱と光を持って輝き、そのあまりの熱さにセルジュとグランバードは思わず手を離した。
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「ちいッ」
舌打ちしたグランバードの手が空を切る。空間の裂け目は消え、そこには少女の流した血と、無残にちぎられた片翼だけが忽然と残されていた。
「マジかよ……次元の狭間を切り開きやがった。ルシフェル、お前にもあんな能力があんのか?」
事の成り行きを黙して見ていた漆黒の男は、任務を完遂出来なかった配下の失態に声を荒げるでもなく、淡々と答えた。
「いや……私にはない。“なくなった”という言い方が適当かもしれぬが……あれは極限状態に追い詰められた末の偶発的な能力の開眼だろう。時空の翼、とでも呼ぶべきか……だが、しくじったな。四翼天がそろいながら、あのように仕損じるとは」
「……申し訳ありません」
カルボナードら三人が姿勢を正し控える中、グランバードだけはあくまで不遜だった。
「言い訳はしねェ。けどな、お前も見てるだけで動く気がなかったじゃねェか。どうしてみすみす取り逃した?」
「ふ……実際に“あれ”を見て、少し思ったところがあってな」
「……悪いこと考えてんだろうなぁ、お前。そういうツラになってるぜ」
グランバードの声には答えず、ルシフェルは独り言のように呟いた。
「このまま息絶えるならそれもよし、生き延びて再び我が前に現れることがあれば―――その時はお前をこう呼ぼう。我が身から分かたれし罪深き存在、『イヴ』と―――」
眩い光の溢れる時空の海を流されていくような感覚の中、長いのか短いのかも判然としないその中で、生まれたばかりの少女の自我は、主体から受け継がれた幾ばくかの、けれど莫大な情報量を吸収しながら、自分という存在を構築していく。
けれど、瀕死の身体には血が足りず、自身の生命機能を維持するのにいっぱいいっぱいで―――それは血流障害のように、彼女の記憶に影響を及ぼした。
そして、今―――ちぎれかけながらも、彼女を時空の狭間へと導いた時の翼は限界を迎え―――完全にその背からちぎれ、仄かに灰色味を帯びた羽根を撒き散らしながら、時空の彼方へと消えていった。
時空を翔ける翼を失った少女は、次元の裂け目から堕ちていく。
そこは、西暦1862年、常夏の国マエラのとある港町だった―――……。
「そしてあたしは酒場のマスターに助けられたの。記憶はなくしてしまったけれど、一命を取り留めて―――三年後、ローズダウンの神官達の呪文で召喚されて、この時代へ戻ってきた……」
自分の膝の辺りに視線を彷徨わせたまま、あたしは続けた。
「だから、全く違う時代へ来たはずなのに言葉を理解出来たし、文字も読めたんだ。ルシフェルの記憶や感覚を一部共有していた部分があるから……。魔法についてもそう。みんなとは根本的に魔力の錬成の仕組みが違っていた……だから本来魔力を増幅発動させるはずの呪文が壁になって、普通の方法ではチカラを使えなかった」
概要を語り終えたあたしは、意を決して目線を上げ、みんなの顔を見た。
アキレウスに、パトロクロスに、ガーネット。
みんな驚きを隠せない様子だったけれど、誰も目を逸らすことなく、真っ直ぐにあたしを見つめていた。
「……聞いていい? どうしてルシフェルはオーロラを排除しなきゃいけなかったのかしら。“澱み”って言ってたけど、それって具体的に何を指しているの?」
そう遠慮がちに切り出したのはガーネットだった。
「ルシフェルが何故あたしを排除するに至ったのか―――それは、彼の生誕に大きくかかわっているんだ」
「生誕に?」
パトロクロスが身を乗り出す。
「うん……話は旧暦の終末、『大破壊』まで遡るんだけど……『大破壊』は、人間を始めとする地球上のほとんどの生命体にとって予期しない出来事だったの。突然全てが奪われたその瞬間、地球上に溢れた負の感情は、そのエネルギーは、想像を絶するものだった―――死んでしまった者、生き残ってしまった者、取り残されたモノ、全ての行き場のない想いが渦巻いて、ルシフェルを生み出した―――地球上の生命体の増幅思念、それが具現化した存在がルシフェルなの」
「!!!」
全員が、言葉を失った。
「まさか……」
「そんな……」
「……じゃあ」
一拍置いて、呻くように呟いたきりパトロクロスとガーネットが二の句を継げない中、アキレウスが声を絞り出すようにして言った。
「ルシフェルを生み出したのが、昔の人間達の残存思念っていうんなら……今、オレ達を、人類を滅ぼそうとしているのは、過去の人類の意思ってことになるのか?」
「……少し違う。人類の思念は大きな部分を占めていると思うけど、草木や動物達……生きとし生ける全てのものの無念の思いが、ルシフェルという存在を作っているの」
「つまり……地球そのもの、ってことか? オレ達は……人類は、過去の同胞どころか、この星そのものに消滅を望まれている?」
暗澹とした表情になるアキレウスの言葉をあたしはやんわりと否定した。
「違う……だから、あたしがいるの」
「え?」
「人類を愛しく思う存在も、少なからずいたよ。ルシフェルを作り出した沢山の想いの中には、そういう祈りにも似た想いも混じっていた……それがあったから、長い間、ルシフェルは人類殲滅計画……『ユートピア』を実行に移さず、その下準備だけを進めてきたの」
「人類殲滅計画? ユートピア? 血文字のあれか? 全世界で一斉に起こったっていう……」
“粛清の時はきたれり。滅びよ。大地の怒りと共に。滅びよ。大海の嘆きと共に。滅びよ。大気の祈りと共に。断罪の剣を振るいし我が名に於いて、人類の殲滅をここに宣言する。蒼き惑星は、楽園へと再生する”
あたしは頷いた。
「うん、そう。長い間計画の弊害になっていた『あたし』を取り除くことに成功して―――満を持してルシフェルはそれに踏み切った。そして今に至っている……」
「オーロラは……過去の英霊達の祈りの欠片ということか? ルシフェルの中にあった、人類への良心?」
パトロクロスの表現にあたしは微苦笑した。
「良心かどうかは分からないけど……過去の魂達の祈りの欠片、その表現は合っているんだと思う」
「じゃあ、オーロラはシヴァとおんなじであたし達の希望じゃないの」
あっけらかんとしたガーネットの物言いは、あたしの心の奥を仄温かくした。
「希望……そんなふうに、思ってくれる?」
そう口にしながら、語尾が震える。
やばい……涙、出そう。
堪えるあたしの前で、三人は顔を見合わせ、同時に口を開いた。
「当たり前だろ!」
「当~然!」
「無論だ!」
タイミングはピッタリなのに、言葉がそれぞれ違うのが何だがおかしくて、あたしは軽く吹き出した。吹き出しながら、泣き笑いの様相に変わっていく。
「ありがとう~……」
顔を覆って泣き出したあたしの周りにみんなが集まってきた。
「頑張ったわね。こちらこそ、話してくれて、ありがとう……」
優しい声で囁いて、ガーネットがぎゅっと抱きしめてくれる。そこであたしの涙腺は決定的に壊れてしまった。
大きくしゃくりを上げて泣き始めたあたしの傍らで、アキレウスとパトロクロスが優しく見守ってくれているのが感じられる。
大好きな人達に受け止めてもらえて、そしてまた受け入れてもらえて、あたしは何て幸せなんだろう。
この気持ちがあれば、生きていける。
明日からまた、頑張れる―――。
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