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幕間Ⅱ~鋼の騎士~
氷の棺
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十年前、この王城を取り巻いていた様々な人々の思惑と陰謀。それに乗じて動き出した捩れ。それを止めようと奔走した者達の、苦闘と葛藤。
そして―――その結果残された者達が負うことになった重責と、計り知れない痛み、現在にまで至る苦悩の日々―――。
レイドリック王の口から『紅焔の動乱』に隠された“もうひとつの真実”を聞いたあたし達は、しばらくの間言葉を発することが出来なかった。
その内容が、あまりにも重過ぎて―――。
「……のちにエレーンに診てもらった結果、シェイドは其方に記憶の操作を施しただけでなく、特殊な封印を用いて内なる力をも封じていたことが分かった。術者にしか解除出来ない代物だった為、無理に手を加えると其方に重大な影響を及ぼす懸念があり、我々にはどうすることも出来なかった……だが」
レイドリック王は理知的な瞳をアキレウスに向け、静かに言った。
「……自力で、封印を解いたのだな。さすがはペーレウスの息子だ」
えっ!? そ……そうなの!?
あたし達は驚いて、アキレウスを見つめた。アキレウスはテーブルに視線を落としながら、記憶をたどるようにして話し始めた。
「……。今にして思うと……きっかけは、ローズダウンでシヴァの地図を巡りエシェムという魔物と戦闘になった最中でした。危機に陥った時、何かのタガが外れたように、これまでに経験したことのなかった力が内側から急激に溢れ出て―――」
誘いの洞窟でのその時の光景をあたしは思い出した。パトロクロスもガーネットも、その時のことは良く覚えていると思う。
絶体絶命のあの時、アキレウスの内部から爆発するようにして迸った黄金の光―――。
アキレウスのあの力を見たのはその時が初めてだったけど、それ以降、ピンチの場面でアキレウスは度々その不思議な力を発揮し、あたし達は何度もそれに助けられてきた。
その力が何なのかはアキレウス自身にも分からなくて、あたし達は彼が実は強い魔力を持っているんじゃないかとか色々推測したりもしたけれど、結局それが何なのかは分からないままになっていた。
けれどそれは、かつての魔導士団長シェイド・ランカートによって封じられていた彼の潜在能力が、封印を打ち破って出てきていたものだったんだ。
―――その潜在能力というのは、いったい何なんだろう?
「激しい戦闘を乗り越えるたび、その力の解放は大きくなっていったような気がします。そして、この王都に入り―――王城に足を踏み入れてからというもの、これまでは感じたことのなかった気持ちの悪い違和感に苛まれるようになりました。情けないですが、そのせいで精神的に少し不安定になって……自分の中の大切な何かが抜け落ちているような気がして、でもそれが何なのか分からなくて、あせって、イライラして」
今なら分かる。お父さんの足跡が強く残るこの場所が、綻びかけていた封印に更なる影響を与えて、彼の精神を揺らがせていたんだ。
「先日の四翼天セルジュの襲来で、シェスナの操る冥竜と戦った時―――ようやく、全てを思い出しました。十年前のあの夜、何があったのか―――オレは今まで、何を忘れていたのか。ようやく―――」
かみしめるようにしてそう吐き出したアキレウスは、顔を上げ、毅然とした面持ちでレイドリック王に尋ねた。
「教えて下さい。十年前、レントール地方のランカート家の所有地でいったい何があったのですか。私の父と母は―――それに、シェイド・ランカートは……」
レイドリック王は憂いを含んだ眼差しを伏せ、ゆっくりと立ち上がった。
「……言葉で語るよりも、実際にその目で見てもらった方がいいだろう。―――来るがいい。その場所へ、案内しよう」
微かに息を飲み、アキレウスが立ち上がる。あたし達も顔を見合わせ、戸惑いながらその後に続いた。
貴賓室を出たレイドリック王が向かった先は自らの私室だった。そこに招き入れられたあたし達は広い部屋の一角にある隠し部屋へと案内され、そこにあった転移の魔法陣の上に乗って、厳かな石造りの空間へと転送された。
その先に待っていたのは、白竜の紋章が刻印された重厚な扉。
この扉の向こうに、いったい何が―――? そう考えると、ひどく緊張してきた。
「ここはかつて、王家の宝物庫として使われていた部屋だ。今は、別の用向きになっている」
言いながらレイドリック王が扉に手をかざし、何かを唱えた。するとそれに反応して扉に刻印された白竜の眼が青白く輝き、カチリ……と小さな音を立てて、ロックが外れる気配がした。
「入るがいい」
レイドリック王が扉の正面を譲り、アキレウスを静かに促す。アキレウスは緊張した面持ちでその前に進み出ると、ゆっくりと扉を開け放った。
魔法の仕掛けなんだろうか、アキレウスが室内に足を踏み入れると同時に、薄暗かった部屋の中が青白い光に映し出され、彼に続いて室内に足を踏み入れたあたし達は、目の当たりにしたその光景に思わず息を飲み、言葉を失った。
部屋の中央には、まるでオブジェかと見紛うような巨大な氷柱が安置されていた。
その中に、瞳を閉じ佇んだ状態で閉じ込められた一人の女性がいる。
白色の長衣を身に纏った美しいその女性は、腰の辺りまである長いアマス色の髪を氷の中に揺蕩わせて、まるで安らかに眠っているかのような表情のまま、時を止めてその場に存在していた。
「―――母、さん……」
あたし達の前に立ったアキレウスから、茫然とした声が漏れた。
彼らしくない緩慢な動きで氷柱に歩み寄ると、冷気が漂うその表面にそっと触れる。微かに震えるその指先が、母親の頬の辺りの氷壁をゆっくりとなでた。
閉じられたままの彼女の瞼の奥には、彼と同じ鮮やかな翠緑玉色の瞳が隠されているんだろう。
その光景を見つめながら言葉も出ないあたし達の背後にレイドリック王が静かに歩み寄り、当時のことについて語り始めた。
「十年前―――レントール地方にあるランカート家の所有地に赴いたオルティスとエレーンが見たものは、凄まじいまでの激戦の跡と、半壊した別荘の中に取り残されていた氷漬けのテティスの姿だった。だが、そこにペーレウスとシェイドの姿はなく、辺りをくまなく捜索しても、彼らの遺体はおろか、その所持品すら発見することが出来なかった。国の秘宝『真実の眼』も―――」
静まり返った室内に、粛々としたレイドリック王の声だけが響く。
「二人は確かにこの地にて相見え、死闘を繰り広げたのだろう。しかし、その結果がどうなったのか―――そこで何が起こったのかは、分からない。テティスを氷漬けにしたのはシェイドの仕業だろうが、どちらかが生き残ったのであれば彼女をこの状態で放っておくとは考えられないし、相討ちに倒れたのだとしても、その亡骸が無いのは解せない。それに―――おそらく、シェイドの方は今も生きているだろうと考えられる」
思いがけないその言葉にあたし達は驚いた。
えっ!? 何で!?
「もしシェイドが死んでいるのならば、術者の魔力が失われた時点で氷は溶け始め、既にテティスの氷縛は解けているはずだ。今もまだこうして氷の中に彼女が囚われていることがその証―――だが、ペーレウスの方は……」
やるせなさそうに口を閉ざし、レイドリック王は重い息を落とした。
「……おそらく、生きてはいまい。生きていればこんな状態の妻と息子を残して、これほど長い月日消息を絶ったままということはないだろう。十年前、この報告を受けた時、私はペーレウスの処遇をどうすべきか思い悩んだ。遺体が見つからない以上、ペーレウスが生存している可能性はゼロではないと思ったからだ。しかし―――状況から考えて、その可能性が絶望的に低いということも分かっていた。決断が遅れれば諸事情からアキレウスの後見に問題が出る恐れもあり、私は最終的にペーレウスを死亡者として処することを決めたのだ」
レイドリック王はそう言ってアキレウスを見やると、ゆっくりと腰を折り、彼に向かって深々と頭を下げた。
「其方の父は、真の英雄だった。全ての責を一身に負い、最後までこの国の為に尽力してくれた。その我が国の英雄を―――こんな不条理な形でしか弔うことが出来ず、罪のない子供の其方にまで辛い思いをさせてしまった。どんなに言葉を尽くしても、詫びようがない。本当に、申し訳なかった……」
陳謝するレイドリック王の両翼で、エレーンとオルティスも深々と腰を折った。
「……頭を上げて下さい」
そんなレイドリック王達にアキレウスはそう声をかけた。
「確かに子供の頃はひどく貴方を恨みましたし、憎みました。けれど、皮肉なことにその思いが生きる力にも繋がった……そしてその経験を乗り越えて、今の私がいる。今ならば、貴方の立場も理解出来ます。私はもちろん苦しみましたが、それと同じくらい、いや、きっとそれ以上に貴方も苦しんでこられたはず……。父の死を悼んで下さるのなら、これからも政務に励まれ、父が託したこの国の未来を、どうか子々孫々にまで伝えていって下さい」
「アキレウス……」
レイドリック王は灰色の瞳を細め、微かに堪えるような表情をした。それに応えるように頷くアキレウスを見て、あたしは涙が溢れるのを止められなかった。
隣でガーネットも泣いている。パトロクロスは眉根を寄せ、唇を結んで、そんな二人を見つめていた。
「シェイド・ランカートが今も生きているのならば……彼を探し出し、母のこの状態を解いてもらうことも出来るわけですよね」
「理屈ではそうだ。だが、今のところシェイドの行方は掴めていない。あれから十年間探し続けているが、公然と捜索出来ないこともあって、我々は未だにその影すら掴めていないのだ。……それに」
レイドリック王は言いにくそうに言葉を紡いだ。
「残念ながら、テティスの生命力は既に失われている。氷の檻から解放されたとしても―――彼女が目覚めることは、二度とないのだ」
そんな……!
残酷な宣告に、あたしは胸がぎゅうっと引き絞られるような思いがした。
十年振りに記憶を取り戻して、こんな切ない形ではあるけれど、やっとお母さんと会えたっていうのに。それなのに……!
「……そうですか」
瞳を閉じ、自らを落ち着かせるように震える息を吐いて、アキレウスは氷漬けの母親に視線を戻した。
まるで静かに眠っているだけのような、綺麗な横顔。十年間もこの状態でいるなんて、信じられない。氷の中から抜け出せたなら、すぐにでも目を開けて微笑んでくれそうな、そんな気さえするのに。
「……テティスは真実の眼を浄化する特務神官として、十年ほどこの城に勤めていた。その当時を知る者達は口をそろえて、彼女は神がかり的な能力を持っていたと言う。神聖性……というのだろうか。彼女は周りの者達から、崇高で特別な存在として見られていたようだ。母の力が子供である其方にも受け継がれていると知り、それを脅威と見なしたシェイドは、幼いうちにその能力を封じたのかもしれないな」
「母が昔、神官として王城に勤めていたことは知っています。ですが、私の記憶にある母は、そんな特別な存在には見えなかった……。白魔法の使い手ではありましたが、ごく普通の母親で―――季節の花を愛でたり、美味しい料理を作ってくれたり……穏やかに微笑んでいるような姿しか、思い出せません」
アキレウスはかみしめるようにしてそう呟くと、あたし達に背を向け、母親の眠る氷の柩に額を当てて、小さな声で囁いた。
「ずっと、忘れていて―――ごめん……」
アキレウスの広い背中が、微かに震えている。嗚咽がこぼれそうになって、あたしは両手で口元を覆った。
アキレウスと同じ色の髪をした、物言わぬ美しい女性の穢れのない佇まいが、たまらなく哀しかった。
黄昏色に染まる空。
その光を受けて細長く伸びた影を石造りの露台の上に映し、時折吹きつける風に髪を揺られながら、アキレウスは一人、復興の最中にある街並を見下ろしていた。
もうどのくらい、彼はこの場所でこうしているんだろう。
心配して様子を見に戻ってきたあたしは、露台の前面に佇む彼の後ろ姿を壁際からそっと見守ることしか出来なかった。
何て声をかけたらいいのか、分からない。
ためらっていると、後ろの方から誰かが近付いてくる気配がして、振り返ったあたしはそこにパトロクロスとガーネットの姿を見つけた。
二人共アキレウスのことを心配して、様子を見に来てくれたんだ。
あたし達は無言で視線を交わし合い、しばらくの間佇み続けるアキレウスの後ろ姿を見守っていた。微動だにしない彼は、まるで風景の一部になってしまったかのようだった。
吹きつける風が徐々に夜の冷気を纏い始め、次第に肌寒さを帯びてくる。
このままじゃ、アキレウスが風邪を引いてしまうかもしれない。
彼の身体を心配したあたしは、それとなく声をかけようと意を決して彼のもとに歩み寄った。
その時だった。
「オレの父さんは……やっぱり、オレが信じていた通りの人だった……」
消え入るような小さな声で、アキレウスがそう呟いたのが聞こえて、彼の斜め後ろからその顔を仰ぎ見たあたしは、精悍な頬をひと筋の涙が伝うのに気が付いて、胸を突かれた。
声もなく、アキレウスは泣いていた。
彼の涙を見たのは、初めてだった。
言葉が、出ない。
あたしは背後からアキレウスに寄り添うようにして、冷たくなったその身体を抱きしめた。
アキレウスは前に回されたあたしの手に手を重ねて、静かに涙をこぼした。
その光景に堪えきれず、視線を逸らして涙を拭うガーネットの肩にパトロクロスがそっと手を置く。
薄闇に飲まれゆく空が、そんなあたし達を静かに切なく見守っていた。
それとほぼ同時刻―――ドヴァーフから遠く離れた場所で、やはり一人の男が古びた城の露台に佇み、足元に長い影を落としていた。
クセのないつややかな黒髪に、同色のひんやりとした印象の瞳。長めの前髪の隙間から覗く整った眉と形の良い額は端正な顔立ちを想像させるが、その鼻から下は黒い金属製のマスクで覆われ、全貌はようとして知れない。
マスクと同色の全身鎧に身を包んだその男は、裏地の赤い漆黒の外套を風にたなびかせ、感情の窺い知れぬ表情で黙然と目の前に広がる風景を見つめていた。
その背には、禍々しい気配を放つ闇色の大剣が装備されている。
「―――アルファ=ロ・メ様。ルシフェル様がお呼びです」
露台の手前にうやうやしく控えた配下の者が男の背中に声をかけた。
それを受け、男が無言のままに踵を返す。その背中で闇色の大剣が黄昏の光を反射し、妖しく不吉な輝きを放った。
伝説の鍛冶師は言った。
片割れが今も朽ちずにあるならば、兄弟剣は互いを呼び合い、いずれ巡り会うこともあるだろう、と―――。
その言葉に導かれるように、運命の時は近付いていく。
―――だが、再会の時が無上の喜びをもたらすものだとは、限らない。
そして―――その結果残された者達が負うことになった重責と、計り知れない痛み、現在にまで至る苦悩の日々―――。
レイドリック王の口から『紅焔の動乱』に隠された“もうひとつの真実”を聞いたあたし達は、しばらくの間言葉を発することが出来なかった。
その内容が、あまりにも重過ぎて―――。
「……のちにエレーンに診てもらった結果、シェイドは其方に記憶の操作を施しただけでなく、特殊な封印を用いて内なる力をも封じていたことが分かった。術者にしか解除出来ない代物だった為、無理に手を加えると其方に重大な影響を及ぼす懸念があり、我々にはどうすることも出来なかった……だが」
レイドリック王は理知的な瞳をアキレウスに向け、静かに言った。
「……自力で、封印を解いたのだな。さすがはペーレウスの息子だ」
えっ!? そ……そうなの!?
あたし達は驚いて、アキレウスを見つめた。アキレウスはテーブルに視線を落としながら、記憶をたどるようにして話し始めた。
「……。今にして思うと……きっかけは、ローズダウンでシヴァの地図を巡りエシェムという魔物と戦闘になった最中でした。危機に陥った時、何かのタガが外れたように、これまでに経験したことのなかった力が内側から急激に溢れ出て―――」
誘いの洞窟でのその時の光景をあたしは思い出した。パトロクロスもガーネットも、その時のことは良く覚えていると思う。
絶体絶命のあの時、アキレウスの内部から爆発するようにして迸った黄金の光―――。
アキレウスのあの力を見たのはその時が初めてだったけど、それ以降、ピンチの場面でアキレウスは度々その不思議な力を発揮し、あたし達は何度もそれに助けられてきた。
その力が何なのかはアキレウス自身にも分からなくて、あたし達は彼が実は強い魔力を持っているんじゃないかとか色々推測したりもしたけれど、結局それが何なのかは分からないままになっていた。
けれどそれは、かつての魔導士団長シェイド・ランカートによって封じられていた彼の潜在能力が、封印を打ち破って出てきていたものだったんだ。
―――その潜在能力というのは、いったい何なんだろう?
「激しい戦闘を乗り越えるたび、その力の解放は大きくなっていったような気がします。そして、この王都に入り―――王城に足を踏み入れてからというもの、これまでは感じたことのなかった気持ちの悪い違和感に苛まれるようになりました。情けないですが、そのせいで精神的に少し不安定になって……自分の中の大切な何かが抜け落ちているような気がして、でもそれが何なのか分からなくて、あせって、イライラして」
今なら分かる。お父さんの足跡が強く残るこの場所が、綻びかけていた封印に更なる影響を与えて、彼の精神を揺らがせていたんだ。
「先日の四翼天セルジュの襲来で、シェスナの操る冥竜と戦った時―――ようやく、全てを思い出しました。十年前のあの夜、何があったのか―――オレは今まで、何を忘れていたのか。ようやく―――」
かみしめるようにしてそう吐き出したアキレウスは、顔を上げ、毅然とした面持ちでレイドリック王に尋ねた。
「教えて下さい。十年前、レントール地方のランカート家の所有地でいったい何があったのですか。私の父と母は―――それに、シェイド・ランカートは……」
レイドリック王は憂いを含んだ眼差しを伏せ、ゆっくりと立ち上がった。
「……言葉で語るよりも、実際にその目で見てもらった方がいいだろう。―――来るがいい。その場所へ、案内しよう」
微かに息を飲み、アキレウスが立ち上がる。あたし達も顔を見合わせ、戸惑いながらその後に続いた。
貴賓室を出たレイドリック王が向かった先は自らの私室だった。そこに招き入れられたあたし達は広い部屋の一角にある隠し部屋へと案内され、そこにあった転移の魔法陣の上に乗って、厳かな石造りの空間へと転送された。
その先に待っていたのは、白竜の紋章が刻印された重厚な扉。
この扉の向こうに、いったい何が―――? そう考えると、ひどく緊張してきた。
「ここはかつて、王家の宝物庫として使われていた部屋だ。今は、別の用向きになっている」
言いながらレイドリック王が扉に手をかざし、何かを唱えた。するとそれに反応して扉に刻印された白竜の眼が青白く輝き、カチリ……と小さな音を立てて、ロックが外れる気配がした。
「入るがいい」
レイドリック王が扉の正面を譲り、アキレウスを静かに促す。アキレウスは緊張した面持ちでその前に進み出ると、ゆっくりと扉を開け放った。
魔法の仕掛けなんだろうか、アキレウスが室内に足を踏み入れると同時に、薄暗かった部屋の中が青白い光に映し出され、彼に続いて室内に足を踏み入れたあたし達は、目の当たりにしたその光景に思わず息を飲み、言葉を失った。
部屋の中央には、まるでオブジェかと見紛うような巨大な氷柱が安置されていた。
その中に、瞳を閉じ佇んだ状態で閉じ込められた一人の女性がいる。
白色の長衣を身に纏った美しいその女性は、腰の辺りまである長いアマス色の髪を氷の中に揺蕩わせて、まるで安らかに眠っているかのような表情のまま、時を止めてその場に存在していた。
「―――母、さん……」
あたし達の前に立ったアキレウスから、茫然とした声が漏れた。
彼らしくない緩慢な動きで氷柱に歩み寄ると、冷気が漂うその表面にそっと触れる。微かに震えるその指先が、母親の頬の辺りの氷壁をゆっくりとなでた。
閉じられたままの彼女の瞼の奥には、彼と同じ鮮やかな翠緑玉色の瞳が隠されているんだろう。
その光景を見つめながら言葉も出ないあたし達の背後にレイドリック王が静かに歩み寄り、当時のことについて語り始めた。
「十年前―――レントール地方にあるランカート家の所有地に赴いたオルティスとエレーンが見たものは、凄まじいまでの激戦の跡と、半壊した別荘の中に取り残されていた氷漬けのテティスの姿だった。だが、そこにペーレウスとシェイドの姿はなく、辺りをくまなく捜索しても、彼らの遺体はおろか、その所持品すら発見することが出来なかった。国の秘宝『真実の眼』も―――」
静まり返った室内に、粛々としたレイドリック王の声だけが響く。
「二人は確かにこの地にて相見え、死闘を繰り広げたのだろう。しかし、その結果がどうなったのか―――そこで何が起こったのかは、分からない。テティスを氷漬けにしたのはシェイドの仕業だろうが、どちらかが生き残ったのであれば彼女をこの状態で放っておくとは考えられないし、相討ちに倒れたのだとしても、その亡骸が無いのは解せない。それに―――おそらく、シェイドの方は今も生きているだろうと考えられる」
思いがけないその言葉にあたし達は驚いた。
えっ!? 何で!?
「もしシェイドが死んでいるのならば、術者の魔力が失われた時点で氷は溶け始め、既にテティスの氷縛は解けているはずだ。今もまだこうして氷の中に彼女が囚われていることがその証―――だが、ペーレウスの方は……」
やるせなさそうに口を閉ざし、レイドリック王は重い息を落とした。
「……おそらく、生きてはいまい。生きていればこんな状態の妻と息子を残して、これほど長い月日消息を絶ったままということはないだろう。十年前、この報告を受けた時、私はペーレウスの処遇をどうすべきか思い悩んだ。遺体が見つからない以上、ペーレウスが生存している可能性はゼロではないと思ったからだ。しかし―――状況から考えて、その可能性が絶望的に低いということも分かっていた。決断が遅れれば諸事情からアキレウスの後見に問題が出る恐れもあり、私は最終的にペーレウスを死亡者として処することを決めたのだ」
レイドリック王はそう言ってアキレウスを見やると、ゆっくりと腰を折り、彼に向かって深々と頭を下げた。
「其方の父は、真の英雄だった。全ての責を一身に負い、最後までこの国の為に尽力してくれた。その我が国の英雄を―――こんな不条理な形でしか弔うことが出来ず、罪のない子供の其方にまで辛い思いをさせてしまった。どんなに言葉を尽くしても、詫びようがない。本当に、申し訳なかった……」
陳謝するレイドリック王の両翼で、エレーンとオルティスも深々と腰を折った。
「……頭を上げて下さい」
そんなレイドリック王達にアキレウスはそう声をかけた。
「確かに子供の頃はひどく貴方を恨みましたし、憎みました。けれど、皮肉なことにその思いが生きる力にも繋がった……そしてその経験を乗り越えて、今の私がいる。今ならば、貴方の立場も理解出来ます。私はもちろん苦しみましたが、それと同じくらい、いや、きっとそれ以上に貴方も苦しんでこられたはず……。父の死を悼んで下さるのなら、これからも政務に励まれ、父が託したこの国の未来を、どうか子々孫々にまで伝えていって下さい」
「アキレウス……」
レイドリック王は灰色の瞳を細め、微かに堪えるような表情をした。それに応えるように頷くアキレウスを見て、あたしは涙が溢れるのを止められなかった。
隣でガーネットも泣いている。パトロクロスは眉根を寄せ、唇を結んで、そんな二人を見つめていた。
「シェイド・ランカートが今も生きているのならば……彼を探し出し、母のこの状態を解いてもらうことも出来るわけですよね」
「理屈ではそうだ。だが、今のところシェイドの行方は掴めていない。あれから十年間探し続けているが、公然と捜索出来ないこともあって、我々は未だにその影すら掴めていないのだ。……それに」
レイドリック王は言いにくそうに言葉を紡いだ。
「残念ながら、テティスの生命力は既に失われている。氷の檻から解放されたとしても―――彼女が目覚めることは、二度とないのだ」
そんな……!
残酷な宣告に、あたしは胸がぎゅうっと引き絞られるような思いがした。
十年振りに記憶を取り戻して、こんな切ない形ではあるけれど、やっとお母さんと会えたっていうのに。それなのに……!
「……そうですか」
瞳を閉じ、自らを落ち着かせるように震える息を吐いて、アキレウスは氷漬けの母親に視線を戻した。
まるで静かに眠っているだけのような、綺麗な横顔。十年間もこの状態でいるなんて、信じられない。氷の中から抜け出せたなら、すぐにでも目を開けて微笑んでくれそうな、そんな気さえするのに。
「……テティスは真実の眼を浄化する特務神官として、十年ほどこの城に勤めていた。その当時を知る者達は口をそろえて、彼女は神がかり的な能力を持っていたと言う。神聖性……というのだろうか。彼女は周りの者達から、崇高で特別な存在として見られていたようだ。母の力が子供である其方にも受け継がれていると知り、それを脅威と見なしたシェイドは、幼いうちにその能力を封じたのかもしれないな」
「母が昔、神官として王城に勤めていたことは知っています。ですが、私の記憶にある母は、そんな特別な存在には見えなかった……。白魔法の使い手ではありましたが、ごく普通の母親で―――季節の花を愛でたり、美味しい料理を作ってくれたり……穏やかに微笑んでいるような姿しか、思い出せません」
アキレウスはかみしめるようにしてそう呟くと、あたし達に背を向け、母親の眠る氷の柩に額を当てて、小さな声で囁いた。
「ずっと、忘れていて―――ごめん……」
アキレウスの広い背中が、微かに震えている。嗚咽がこぼれそうになって、あたしは両手で口元を覆った。
アキレウスと同じ色の髪をした、物言わぬ美しい女性の穢れのない佇まいが、たまらなく哀しかった。
黄昏色に染まる空。
その光を受けて細長く伸びた影を石造りの露台の上に映し、時折吹きつける風に髪を揺られながら、アキレウスは一人、復興の最中にある街並を見下ろしていた。
もうどのくらい、彼はこの場所でこうしているんだろう。
心配して様子を見に戻ってきたあたしは、露台の前面に佇む彼の後ろ姿を壁際からそっと見守ることしか出来なかった。
何て声をかけたらいいのか、分からない。
ためらっていると、後ろの方から誰かが近付いてくる気配がして、振り返ったあたしはそこにパトロクロスとガーネットの姿を見つけた。
二人共アキレウスのことを心配して、様子を見に来てくれたんだ。
あたし達は無言で視線を交わし合い、しばらくの間佇み続けるアキレウスの後ろ姿を見守っていた。微動だにしない彼は、まるで風景の一部になってしまったかのようだった。
吹きつける風が徐々に夜の冷気を纏い始め、次第に肌寒さを帯びてくる。
このままじゃ、アキレウスが風邪を引いてしまうかもしれない。
彼の身体を心配したあたしは、それとなく声をかけようと意を決して彼のもとに歩み寄った。
その時だった。
「オレの父さんは……やっぱり、オレが信じていた通りの人だった……」
消え入るような小さな声で、アキレウスがそう呟いたのが聞こえて、彼の斜め後ろからその顔を仰ぎ見たあたしは、精悍な頬をひと筋の涙が伝うのに気が付いて、胸を突かれた。
声もなく、アキレウスは泣いていた。
彼の涙を見たのは、初めてだった。
言葉が、出ない。
あたしは背後からアキレウスに寄り添うようにして、冷たくなったその身体を抱きしめた。
アキレウスは前に回されたあたしの手に手を重ねて、静かに涙をこぼした。
その光景に堪えきれず、視線を逸らして涙を拭うガーネットの肩にパトロクロスがそっと手を置く。
薄闇に飲まれゆく空が、そんなあたし達を静かに切なく見守っていた。
それとほぼ同時刻―――ドヴァーフから遠く離れた場所で、やはり一人の男が古びた城の露台に佇み、足元に長い影を落としていた。
クセのないつややかな黒髪に、同色のひんやりとした印象の瞳。長めの前髪の隙間から覗く整った眉と形の良い額は端正な顔立ちを想像させるが、その鼻から下は黒い金属製のマスクで覆われ、全貌はようとして知れない。
マスクと同色の全身鎧に身を包んだその男は、裏地の赤い漆黒の外套を風にたなびかせ、感情の窺い知れぬ表情で黙然と目の前に広がる風景を見つめていた。
その背には、禍々しい気配を放つ闇色の大剣が装備されている。
「―――アルファ=ロ・メ様。ルシフェル様がお呼びです」
露台の手前にうやうやしく控えた配下の者が男の背中に声をかけた。
それを受け、男が無言のままに踵を返す。その背中で闇色の大剣が黄昏の光を反射し、妖しく不吉な輝きを放った。
伝説の鍛冶師は言った。
片割れが今も朽ちずにあるならば、兄弟剣は互いを呼び合い、いずれ巡り会うこともあるだろう、と―――。
その言葉に導かれるように、運命の時は近付いていく。
―――だが、再会の時が無上の喜びをもたらすものだとは、限らない。
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※小説家になろう様でも掲載予定です。
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