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ドヴァーフ編
邂逅
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左の手首に揺れるラピス・ラズリの腕輪。これを彼女が贈ってくれたのは、つい昨夜のことだった。
『この石には、災いを洗い流し、不安を払いのけ、成功をもたらす力があるとされているらしいよ』
はにかんだようにそうラピス・ラズリの効力を説明した彼女は、何よりもこの石が持つ“運”の効果が選ぶ決め手になったのだと話していた。
彼女が運にこだわったのは、まほろばの森に住む伝説の名工グレン・カイザーとの約束、それを果たす為には“天運”と呼ばれるほどの強運が必要だということと、それに対する自分の想いがどれほど強いものなのか、とてもよく分かっていたからだ。
わずかに金色の混じった青い石―――彼女の髪と瞳と同じ色彩を持つ、ラピス・ラズリ。
持ち主の運を上げてくれる効果があるというその石に、アキレウスは強く祈る。
間に合ってくれ、と。
自分がたどり着くその時まで、どうか無事でいてくれー――と。
オーロラ……!
大切な少女の元を目指して、アキレウスは疾走する。祈るような想いを、その胸に秘めて。
誰かに呼ばれたような気がして、あたしはぼんやりと目を覚ました。
ぼやけた視界に、淡く輝く白色の光と、それによって映し出された、薄暗い石造りの古びた天井が映る。ひとつ瞬きをしたあたしは、身震いするような寒さを覚えて小さく身体を震わせた。
身体がひどく冷え切っていて、手足の指先の感覚が痺れたようになくなっている。
寒、い……。何で、こんなに寒いの……?
「う……」
呻きながら起き上がろうとすると、固い床に寝かされていた身体のあちこちが鈍い痛みを訴えて、あたしは思わず顔をしかめた。
いっ……た、ぁ……。
身体がかじかんでいて、上手く動かない。四苦八苦しながらどうにか起き上がると、真っ暗な石造りの部屋の中に自分がぽつんと座り込んでいる状態であることが分かった。
あたしの周りだけを淡い白色の光がまるで結界のようにして包み込んでいて、その光の他に光源はない。暗い室内はかなり広そうだったけど、光の及ぶ範囲は限られていて、あたしはその全てを視認することが出来なかった。
ここ、どこ……?
不安に胸を掴まれながら辺りを見渡したあたしは、自分のすぐ側に恐ろしい顔立ちの竜が座っていることに気が付いて、悲鳴を上げた。
「ひッ……!」
人の倍くらいの大きさの、鈍色の鱗を持つ竜。その全身には禍々しい呪紋が施されていて、あたしに向けられた眼窩は骸骨みたいに空っぽだった。身体からは淀んだ白い陽炎のようなものが立ち昇っていて、暗闇の中にその異質な姿をうっすらと浮かび上がらせている。
あたしは身体を固くして、しばらくの間息を殺したままその竜を見つめていたんだけど、竜はこちらにその空っぽの眼窩を向けているだけで、じっとしたまま動く気配を見せなかった。
その様子にとりあえずの安堵の息をこぼしながら、あたしは寒さと恐怖に震える自分の身体を抱きしめた。
この竜は、いったい何なんだろう。あたしはどうして、こんなところにいるんだろう。
あたしは必死に記憶をたどり、ラァムに呼び出されてあの占い師に捕まってしまったこと、そして占い師の仲間らしい少女の声を聞いて意識を失ってしまったことなどを思い出した。
耳に残るあの時の少女の声―――思い出すだけで、ざわり、と全身に鳥肌が立つ。
あの、甲高くて弾んだ、けれどその底に恐ろしい響きを滲ませた少女の声を聞いた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に囚われて、あたしはそのまま気を失ってしまったのだ。
そして、次に目を覚ました時。あたしはそこに確かに、アキレウスの姿を見たはずだった。自分を呼ぶ彼の声を、この耳で聞いたと思った。―――けれど。
けれど今、ここに彼の姿はない。
あたしの側に在るのは、静寂に包まれた薄暗い闇の空間と、沈黙を守る恐ろしい様相の竜だけだ。
ということは、あたしはあのまま、あの占い師に連れ去られてしまったんだろうか。
―――じゃあ、アキレウスは?
あたしは最悪のケースを考えて、ゾッとした。
有り得ない……有り得ないよ。アキレウスは絶対に、死んだりなんかしない。
ぎゅっと目をつぶって、あたしはその恐ろしい想像を振り払った。
バカなことを考えてないで、まずは確かめなくちゃ……ここがいったい、どこなのか。
そんなことを思いながらふと床に目を落とすと、魔法陣の名残のようなものがうっすらと描かれていることに気が付いた。よくよく注意して見ると、何か台座のようなものが置かれていたらしい形跡もそこに見て取ることが出来た。
ここは昔、何かが祀られていたような場所だったんだろうか。
あたしは改めて薄闇に包まれた室内に視線を向けると、じっと微動だにしない傍らの竜に注意を払いつつ立ち上がろうとして、途中で膝が砕け、べちゃっとその場に座り込んでしまった。
足に、力が入らない。
ううん、足どころか、身体中に力が入らない。
そんな自分の状態に、あたしは茫然とした。
―――魔力、が……。
アキレウス達に異変を知らせる為に放出した後、赤黒い光の糸によって限界まで吸い取られ続けたあたしの魔力は完全に空っぽと言っていい状態だった。赤紫色の被膜の影響を受け続け、痛めつられた肉体も既に限界に近い。それに、ひどい喉の渇きと眩暈を感じる。目立った外傷はないものの、全身が鉛のように重かった。
目覚めてからずっと感じているこの寒気は、魔力というエネルギーを使い切った上、大幅な体力を消耗したことによる一種のショック状態なのかもしれない。
もう一度立ち上がろうと試みて再び倒れこみ、あたしは青ざめながら今の自分の状態を認識した。
どうしよう……立てない。
急に、何とも言えない心細さが襲いかかってきた。
こんな状態じゃ、ここがどこか分かっても、逃げるに逃げられない。
震える拳を握り、あたしは唇をかみしめた。
あたしはここから無事に、みんなの元へ戻ることが出来るんだろうか。もう一度、アキレウスに会うことが出来るんだろうか。
そんな弱気が、心をかすめる。
もしもここで死んでしまったら、あたしの死はみんなに伝わるんだろうか……それとも誰にも知られないまま、ひっそりと闇に葬られてしまうんだろうか。
あたしが死んだと知ったら、アキレウスは悲しんでくれるだろうか。そして時々はあたしのことを思い出してくれるんだろうか。
あたしという存在が確かに自分の側に居たのだということを、彼は思い出してくれるんだろうか。
―――けれど、アキレウスはあたしのこの気持ちを知らない。
それを思うと、ズキン、と胸に鈍い痛みが走った。
あたしがこんなにも彼を好きでいるという事実を、彼は知らない。
アキレウスが思い出すあたしは、あくまで仲間としての、異性としての意識から外れたあたしだ。それはある意味、本当のあたしじゃない。
―――そんなの、イヤだ。
不意に、矛盾した感情が込み上げてきた。
アキレウスにこの気持ちを伝える気は、あたしにはなかった。大賢者シヴァを復活させたら、あたしはいずれ、元の世界に帰るつもりでいたから。
そう遠くない未来、別れることになってしまう彼にこの気持ちを伝える意味なんて、ないと思っていた。伝えても、アキレウスをただ困惑させてしまうだけだって。
だから、彼に対するこの想いは秘めたままでいようと心に決めていた。
―――なのに。
死を意識した瞬間、こんなにも相反した感情が生じてしまっている自分がいる。
アキレウスに本当のあたしを知ってほしい。
いつかあたしを思い出した時、アキレウスには偽りでない、本当のあたしを思い出してほしい。彼には、本当のあたしという人間を知っていてほしい。
それは、利己的で、自己満足以外の何物でもない感情。
そんな自分の心の有り様に、じわりと涙が滲んでくる。
あたしは何てワガママで、矛盾した生き物なんだろう。
死というものを意識したのは、何もこれが初めてというわけじゃなかった。ううん、それどころか、ここに至るまでの道のりで何度それが頭をかすめたのか分からないと言っていいくらいだ。
けれどそういう時、今まではいつもみんなが側にいたから。アキレウスがすぐそこにいてくれたから。
こんなふうに、たった一人でそれを感じるようなことがなかったから。
それが皮肉にも、アキレウスへの想いを痛いくらい再認識させられる結果となった。
―――もう一度、アキレウスに会いたい。
左の小指にそっと触れ、溢れるその想いをかみしめる。
募る想いは堪えきれない涙となって、あたしの頬を伝っていった。
アキレウスに会いたい……!
その時だった。
あたしを包む淡い白色の光がブゥン、という音を立てて翳りを見せた。
ビクリとして顔を上げると、不安定に点滅する結界の向こうで、それまで彫像のように微動だにしなかった竜の空洞の眼窩の奥に不気味な赤い光が灯るのが見え、あたしは身体を緊張させた。
消えかけては復活しかけ、点滅の間隔が段々と早くなっていく結界―――その向こうで不気味な赤い光を眼窩に宿した竜の口がゆっくりと動き、鈍色の鱗に覆われた頑強な身体が身じろいだ。
息を飲み、思わず後退るあたしの前で、結界は音もなく掻き消えるようにして消滅した。その瞬間、それまで結界によって遮られていた胸の悪くなるような禍々しい負の気に包まれ、あたしは短い悲鳴を上げた。
「っ、あ……!」
全身から一気に血の気が引いて、目の前が真っ暗になっていく。
―――何、これ!? 苦、しっ……!
不浄な空気に、胸が詰まる。
―――息が、出来、なっ……。
自分を抱きしめるようにして床に膝をついているあたしの前で、淀んだ陽炎を纏う竜が恐ろしい咆哮を上げる。それが壁に反響し、何度も何度も響き渡って、まるで死へと誘う序曲のようにあたしの鼓膜を震わせた。
振り仰いだ涙で歪む視界に、鋭い牙を剥く竜の姿が映る。
とっさに立ち上がって逃げようとしたあたしに、素早い動きで竜が襲いかかった。ガチン、と背後で牙の鳴る音がして、腰の辺りの短衣が裂けるのが分かった。よろめいた拍子に、偶然第一撃をかわすことが出来たらしい。
倒れこんだあたしの上に、再び竜が襲いかかる。無我夢中で身体を捻ったすぐそこで、ドガッ、と床が割れる音がして、砕けた欠片が頬をかすめていった。
―――殺される!
かつてないリアルな戦慄が全身を駆け抜けた。心臓が狂想曲を奏でるように踊り狂い、恐慌状態に陥る意識の中、目の前がぐらぐらと揺れる。
魔力が使えず、自由に動くことすらままならず、今や呼吸も満足に出来ない。生き残れる可能性が、今のあたしにはまるで見当たらない。
―――イヤだ!
床に転がったあたしの上に竜が容赦なく前足を振り下ろす。避けきれず、重い衝撃と共に左の脇腹に熱い痛みが走った。ぬめる血の感触が、生々しい生命の危機を知らしめる。
―――イヤだ……死にたくない!
苦痛と恐怖の涙に頬を濡らしながら、あたしは竜の魔の手から逃れようと必死に身体を動かした。
こんなところで死ぬなんて、絶対にイヤだ!
その思いとは裏腹に絶望へと彩られていく脳裏を、アキレウスの姿がよぎる。
もう一度……もう一度、会いたい。
会って、この想いを伝えたい。
その願いを打ち砕く赤い眼の死神が、あたしの喉笛を引き裂こうと巨大な口を開く!
「イ、ヤ―――!」
絶叫と共に、わずかな魔力が光となって迸った。
最後の最後の、ささやかな抵抗。あたしに残された、全てのチカラ。
それは竜の顔面に炸裂し、怒りの咆哮を上げさせる結果となった。全ての力を使い果たし、もはや動くことすらままならなくなったあたしの左右の腕に、鋭い鉤爪のついた竜の頑強な前足が圧しかかってくる。
「っ、う……」
床の上に仰向けに縫いつけられるような格好になり、呻くあたしの顔の真上に、鋭い牙を剥いた恐ろしい竜の顔が見える。
呼吸を止め、ヒク、と喉を鳴らし、あたしは目をいっぱいに見開いて、悪夢のようなその光景を見つめた。
これが、あたしがこの世で見る、最期の光景になるんだろうか。
アキレウスには、もう二度と、会えないんだろうか。
これ以上ないほどに全身が震えて、溢れるとめどのない涙が血で汚れた頬を濡らしていく。
「アキ……レウス……」
あなたの声を、あたしはもう、聞くことが出来ないんだろうか。
薄闇の景色の中に浮かび上がる、禍々しい赤の双眸。魂を裂くような咆哮を轟かせ、竜の牙が目の前に迫ってくる!
「アキレウスー!!!」
最後の瞬間、あたしは張り裂けるような声で、彼の名を絶叫した。
その、刹那。
目の前で竜の身体が真っ二つに裂け、赤黒い血が噴水のように噴き出すその向こうから、輝かしい黄金の光を身に纏った、大振りの剣を握る人物が現われた。
黄金の光に映し出されたその人物の髪は、月光を紡いだかのようなアマス色。野性的な輝きを放つ瞳は、鮮やかな翠緑玉色―――。
アキ……レウス―――……。
ビシャアッ、と濡れた音を立てて、生温かい血の雨があたしに降り注ぐ。
竜の血を全身に浴びながら、にわかには信じられないその光景に言葉を失うあたしの元へ、アキレウスは息せき切って駆けつけると、深紅の海に横たわるあたしの身体を抱き起こし、頬にべったりとついた血糊を掌で拭いながら勢いよく顔を覗き込んだ。
「オーロラ、大丈夫か!?」
切羽詰った表情であたしを見つめる翠緑玉色の瞳が、心配そうに揺れている。
「―――ア……キ、レウス……」
その瞳を茫然と見つめ返し、かすれた声でその名を呼ぶと、彼は大きく安堵の息をもらした。
「間に合って、良かった……!」
言いながら、掻き抱くようにしてあたしを抱き寄せる。いつもと違って余裕のない彼のその行動が、あたしがどれほど危機的な状況にあったのかということを物語っていた。
その瞬間、生きて再びアキレウスに会うことが出来たのだということをようやく実感して、あたしはしゃくりを上げながら彼にしがみついた。
「アキレウス……!」
「オーロラ……」
心なしか、しがみついたアキレウスの身体が震えているような気がする。ううん、きっと震えているのはあたしの身体だ。
大きくて広い、アキレウスの胸。耳に心地良く響く、彼の声。
あぁ……本当に、本物のアキレウスだ。
あたしは深く深く、息を吐いた。
あんなにも会いたいと願ったアキレウスが今、ここにいる。
「良かっ、た……もう一度、アキレウスに会うことが、出来……て……」
あたしは嗚咽を上げながら、声にならない声で切れ切れに呟いた。
安心感と肉体的な限界から、意識が急激に遠ざかっていく。
「オーロラ!」
自分の名を叫ぶアキレウスの声を聞きながら、あたしは大きな安堵に包まれたまま、意識を闇に手放したのだった。
唇に、柔らかくて温かなものが触れている。
そこからゆっくりと注ぎ込まれる何かを少しずつ飲み込む度、傷付いた組織が修復され、冷え切った身体にじんわりと体温が通っていく。暗く閉ざされていた世界が徐々に白々と明けていく。
ぼんやりとそれを感じながら、いつかどこかで、これと似たようなことがあったということを、あたしはおぼろげに意識の片隅で思い出した。
あれはいったい、いつのことだったんだろう……。
あの時もやっぱり、凍えるような寒さを感じた後―――この感触が、自分を救ってくれたような気がする。
唇に触れる、この温かなぬくもりが……。
それを夢現つに思い出しながら、あたしは震える瞼をゆっくりと押し上げた。
あぁ―――そうだ。
大ケガをして、まほろばの森に迷い込んだ時。
確かあの時も、この優しい感触を感じたんだった……。
ぼやけた視界に、何かが映る。
ただぼんやりとそれを見つめていたあたしは、しばらくしてそれが誰かの睫毛であることに気が付いた。
誰……?
虚ろな瞳を瞬かせるあたしから、閉じられたままのその睫毛がゆっくりと離れていく。そして少し離れたところでそれが開かれると、鮮やかな翠緑玉色の瞳がそこから覗いた。あたしはそれで、その人物が誰なのかを悟った。
―――アキレウス……。
≪オーロラ、気が付いたか?≫
アキレウスが何か話しかけてくる。けれどあたしの目に映る彼の姿はどこかぼんやりと霞んでいて、その声は何かの膜を通したようにくぐもって不明瞭で、彼が何を言っているのか、あたしには聞き取ることが出来なかった。
それを尋ねようとして唇を動かしかけるけど、声が出ない。
そんなあたしの様子を見たアキレウスが、手にした小瓶をあおるのが見えた。
そしてゆっくりとあたしに顔を近づけると、唇に再び、柔らかくて温かなあの感触を感じた。
そこから注ぎ込まれる液体を飲み込むと、身体の隅々まで神経が通い始め、次第に意識がハッキリとしていくのが分かった。それに伴って確かな五感が甦ってくる。
あぁ、そうか―――アキレウスは、あたしに口移しで回復薬を飲ませてくれているんだ。
そう理解した瞬間、一気に脳が覚醒した。
―――口、移し!?
驚いて勢いよく目を見開いたその先に、アキレウスのドアップが映る。
「!!!」
唇には、押しつけられた温かな彼の唇の感触があった。
それを認識した途端、心臓が急激に高鳴り、身体中の血液が一気に沸騰して、あたしは身体を硬直させながら、真っ赤な顔でぎゅっと目をつぶった。
うわ……ぁっ……。
やがてアキレウスの唇が離れていった後も、どうしたらいいのか分からなくて、あたしは真っ赤な顔のまま、ずっと目をつぶっていた。
「オーロラ」
アキレウスに静かな声で名前を呼ばれて、あたしはドキンと胸が震えるのを覚えながら、そろそろと目を開けた。
「……大丈夫か?」
心配そうな表情であたしの顔を覗き込むアキレウスの姿が、そこにはあった。
「う……うん……」
頷きながら、彼のその表情を見て、あたしは何だか申し訳ない気持ちで一杯になった。
アキレウスはこんなにあたしを心配してくれているのに、あたしってば……反省。
緊急事態の人命救助……だったんだよ、ね。
「ここは……?」
呟いて起き上がりながら、あたしは辺りを見渡した。
あたしはあの地下の石室ではなく、外の芝生の上に寝かされていた。辺りはすっかり宵闇に包まれていて、月の輝く夜空の下、見覚えのある姿とは少し形を変えたドヴァーフの王城が魔法の光に照らされ、そこにそびえ立っている。
近くに人の姿は見えなかったけれど、あちらこちらで慌しげな声が行き交い、城内はざわついた雰囲気に包まれていた。
「ドヴァーフ城の立ち入り禁止区域だよ。オーロラはあの占い師にそこの地下室で監禁されていたんだ」
アキレウスに言われてそちらを見やると、打ち破られた物々しい法印の描かれた重厚な扉と、その先に暗く口を開ける地下への入口が目に入った。
そこからわずかに漏れ出る不浄な空気を感じて、あたしはザワッと全身に鳥肌が立つのを感じた。
思わずぎゅっと抱きしめた自分の身体は、あの竜の血で汚れていた。つい先程の恐怖がたちまち生々しく甦ってきて、あたしは喘ぐような吐息をこぼしながら、大きく身体を震わせた。
今、自分が生きてこの場にいることが、本当に奇跡だと思った。
「ラァムとあの占い師から、全部聞いたよ。オレのせいでオーロラをこんな目に合わせてしまって……すまない」
アキレウスが沈痛な面持ちになりながらそう謝罪した。
「……アキレウスのせいじゃ、ないよ」
あたしはそう言って首を振った。
「助けに来てくれて……ありがとう」
微かに震える唇を意識的に笑みの形に刻むと、アキレウスは切なそうな表情になって、手を伸ばし、あたしの髪に触れた。
「助けに来るのが遅くなって……ゴメンな」
柔らかく、労わるように彼に髪をなでられて、堪えていた涙が溢れ出した。
「っ、うっ……」
はらはらと、後から後から溢れ出る涙が頬を伝って落ちていく。
怖かった。あの瞬間、もう本当にダメかと思った。もう二度と、アキレウスには会えないんだと思った。
肩を震わせて大粒の涙を流すあたしを、アキレウスはそっとその胸に包み込んだ。
「怖い思いをさせて……悪かった……」
耳元でなだめるように囁きながら、あたしのこめかみにそっと口付ける。
無言で首を振るあたしの髪を優しく梳きながら、アキレウスは頬にも軽く唇を寄せた。溢れる涙を唇で掬い、瞼に、おでこに、優しい口付けを落としていく。まるで、怖い夢に怯える小さな子供をあやすように。
あたしの震えが止まるまで、アキレウスはずっとあたしを抱きしめていてくれた。
その胸の温かさに、あたしは生きて再び彼と会えたことを実感し、その現実に心から感謝したのだった。
『この石には、災いを洗い流し、不安を払いのけ、成功をもたらす力があるとされているらしいよ』
はにかんだようにそうラピス・ラズリの効力を説明した彼女は、何よりもこの石が持つ“運”の効果が選ぶ決め手になったのだと話していた。
彼女が運にこだわったのは、まほろばの森に住む伝説の名工グレン・カイザーとの約束、それを果たす為には“天運”と呼ばれるほどの強運が必要だということと、それに対する自分の想いがどれほど強いものなのか、とてもよく分かっていたからだ。
わずかに金色の混じった青い石―――彼女の髪と瞳と同じ色彩を持つ、ラピス・ラズリ。
持ち主の運を上げてくれる効果があるというその石に、アキレウスは強く祈る。
間に合ってくれ、と。
自分がたどり着くその時まで、どうか無事でいてくれー――と。
オーロラ……!
大切な少女の元を目指して、アキレウスは疾走する。祈るような想いを、その胸に秘めて。
誰かに呼ばれたような気がして、あたしはぼんやりと目を覚ました。
ぼやけた視界に、淡く輝く白色の光と、それによって映し出された、薄暗い石造りの古びた天井が映る。ひとつ瞬きをしたあたしは、身震いするような寒さを覚えて小さく身体を震わせた。
身体がひどく冷え切っていて、手足の指先の感覚が痺れたようになくなっている。
寒、い……。何で、こんなに寒いの……?
「う……」
呻きながら起き上がろうとすると、固い床に寝かされていた身体のあちこちが鈍い痛みを訴えて、あたしは思わず顔をしかめた。
いっ……た、ぁ……。
身体がかじかんでいて、上手く動かない。四苦八苦しながらどうにか起き上がると、真っ暗な石造りの部屋の中に自分がぽつんと座り込んでいる状態であることが分かった。
あたしの周りだけを淡い白色の光がまるで結界のようにして包み込んでいて、その光の他に光源はない。暗い室内はかなり広そうだったけど、光の及ぶ範囲は限られていて、あたしはその全てを視認することが出来なかった。
ここ、どこ……?
不安に胸を掴まれながら辺りを見渡したあたしは、自分のすぐ側に恐ろしい顔立ちの竜が座っていることに気が付いて、悲鳴を上げた。
「ひッ……!」
人の倍くらいの大きさの、鈍色の鱗を持つ竜。その全身には禍々しい呪紋が施されていて、あたしに向けられた眼窩は骸骨みたいに空っぽだった。身体からは淀んだ白い陽炎のようなものが立ち昇っていて、暗闇の中にその異質な姿をうっすらと浮かび上がらせている。
あたしは身体を固くして、しばらくの間息を殺したままその竜を見つめていたんだけど、竜はこちらにその空っぽの眼窩を向けているだけで、じっとしたまま動く気配を見せなかった。
その様子にとりあえずの安堵の息をこぼしながら、あたしは寒さと恐怖に震える自分の身体を抱きしめた。
この竜は、いったい何なんだろう。あたしはどうして、こんなところにいるんだろう。
あたしは必死に記憶をたどり、ラァムに呼び出されてあの占い師に捕まってしまったこと、そして占い師の仲間らしい少女の声を聞いて意識を失ってしまったことなどを思い出した。
耳に残るあの時の少女の声―――思い出すだけで、ざわり、と全身に鳥肌が立つ。
あの、甲高くて弾んだ、けれどその底に恐ろしい響きを滲ませた少女の声を聞いた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に囚われて、あたしはそのまま気を失ってしまったのだ。
そして、次に目を覚ました時。あたしはそこに確かに、アキレウスの姿を見たはずだった。自分を呼ぶ彼の声を、この耳で聞いたと思った。―――けれど。
けれど今、ここに彼の姿はない。
あたしの側に在るのは、静寂に包まれた薄暗い闇の空間と、沈黙を守る恐ろしい様相の竜だけだ。
ということは、あたしはあのまま、あの占い師に連れ去られてしまったんだろうか。
―――じゃあ、アキレウスは?
あたしは最悪のケースを考えて、ゾッとした。
有り得ない……有り得ないよ。アキレウスは絶対に、死んだりなんかしない。
ぎゅっと目をつぶって、あたしはその恐ろしい想像を振り払った。
バカなことを考えてないで、まずは確かめなくちゃ……ここがいったい、どこなのか。
そんなことを思いながらふと床に目を落とすと、魔法陣の名残のようなものがうっすらと描かれていることに気が付いた。よくよく注意して見ると、何か台座のようなものが置かれていたらしい形跡もそこに見て取ることが出来た。
ここは昔、何かが祀られていたような場所だったんだろうか。
あたしは改めて薄闇に包まれた室内に視線を向けると、じっと微動だにしない傍らの竜に注意を払いつつ立ち上がろうとして、途中で膝が砕け、べちゃっとその場に座り込んでしまった。
足に、力が入らない。
ううん、足どころか、身体中に力が入らない。
そんな自分の状態に、あたしは茫然とした。
―――魔力、が……。
アキレウス達に異変を知らせる為に放出した後、赤黒い光の糸によって限界まで吸い取られ続けたあたしの魔力は完全に空っぽと言っていい状態だった。赤紫色の被膜の影響を受け続け、痛めつられた肉体も既に限界に近い。それに、ひどい喉の渇きと眩暈を感じる。目立った外傷はないものの、全身が鉛のように重かった。
目覚めてからずっと感じているこの寒気は、魔力というエネルギーを使い切った上、大幅な体力を消耗したことによる一種のショック状態なのかもしれない。
もう一度立ち上がろうと試みて再び倒れこみ、あたしは青ざめながら今の自分の状態を認識した。
どうしよう……立てない。
急に、何とも言えない心細さが襲いかかってきた。
こんな状態じゃ、ここがどこか分かっても、逃げるに逃げられない。
震える拳を握り、あたしは唇をかみしめた。
あたしはここから無事に、みんなの元へ戻ることが出来るんだろうか。もう一度、アキレウスに会うことが出来るんだろうか。
そんな弱気が、心をかすめる。
もしもここで死んでしまったら、あたしの死はみんなに伝わるんだろうか……それとも誰にも知られないまま、ひっそりと闇に葬られてしまうんだろうか。
あたしが死んだと知ったら、アキレウスは悲しんでくれるだろうか。そして時々はあたしのことを思い出してくれるんだろうか。
あたしという存在が確かに自分の側に居たのだということを、彼は思い出してくれるんだろうか。
―――けれど、アキレウスはあたしのこの気持ちを知らない。
それを思うと、ズキン、と胸に鈍い痛みが走った。
あたしがこんなにも彼を好きでいるという事実を、彼は知らない。
アキレウスが思い出すあたしは、あくまで仲間としての、異性としての意識から外れたあたしだ。それはある意味、本当のあたしじゃない。
―――そんなの、イヤだ。
不意に、矛盾した感情が込み上げてきた。
アキレウスにこの気持ちを伝える気は、あたしにはなかった。大賢者シヴァを復活させたら、あたしはいずれ、元の世界に帰るつもりでいたから。
そう遠くない未来、別れることになってしまう彼にこの気持ちを伝える意味なんて、ないと思っていた。伝えても、アキレウスをただ困惑させてしまうだけだって。
だから、彼に対するこの想いは秘めたままでいようと心に決めていた。
―――なのに。
死を意識した瞬間、こんなにも相反した感情が生じてしまっている自分がいる。
アキレウスに本当のあたしを知ってほしい。
いつかあたしを思い出した時、アキレウスには偽りでない、本当のあたしを思い出してほしい。彼には、本当のあたしという人間を知っていてほしい。
それは、利己的で、自己満足以外の何物でもない感情。
そんな自分の心の有り様に、じわりと涙が滲んでくる。
あたしは何てワガママで、矛盾した生き物なんだろう。
死というものを意識したのは、何もこれが初めてというわけじゃなかった。ううん、それどころか、ここに至るまでの道のりで何度それが頭をかすめたのか分からないと言っていいくらいだ。
けれどそういう時、今まではいつもみんなが側にいたから。アキレウスがすぐそこにいてくれたから。
こんなふうに、たった一人でそれを感じるようなことがなかったから。
それが皮肉にも、アキレウスへの想いを痛いくらい再認識させられる結果となった。
―――もう一度、アキレウスに会いたい。
左の小指にそっと触れ、溢れるその想いをかみしめる。
募る想いは堪えきれない涙となって、あたしの頬を伝っていった。
アキレウスに会いたい……!
その時だった。
あたしを包む淡い白色の光がブゥン、という音を立てて翳りを見せた。
ビクリとして顔を上げると、不安定に点滅する結界の向こうで、それまで彫像のように微動だにしなかった竜の空洞の眼窩の奥に不気味な赤い光が灯るのが見え、あたしは身体を緊張させた。
消えかけては復活しかけ、点滅の間隔が段々と早くなっていく結界―――その向こうで不気味な赤い光を眼窩に宿した竜の口がゆっくりと動き、鈍色の鱗に覆われた頑強な身体が身じろいだ。
息を飲み、思わず後退るあたしの前で、結界は音もなく掻き消えるようにして消滅した。その瞬間、それまで結界によって遮られていた胸の悪くなるような禍々しい負の気に包まれ、あたしは短い悲鳴を上げた。
「っ、あ……!」
全身から一気に血の気が引いて、目の前が真っ暗になっていく。
―――何、これ!? 苦、しっ……!
不浄な空気に、胸が詰まる。
―――息が、出来、なっ……。
自分を抱きしめるようにして床に膝をついているあたしの前で、淀んだ陽炎を纏う竜が恐ろしい咆哮を上げる。それが壁に反響し、何度も何度も響き渡って、まるで死へと誘う序曲のようにあたしの鼓膜を震わせた。
振り仰いだ涙で歪む視界に、鋭い牙を剥く竜の姿が映る。
とっさに立ち上がって逃げようとしたあたしに、素早い動きで竜が襲いかかった。ガチン、と背後で牙の鳴る音がして、腰の辺りの短衣が裂けるのが分かった。よろめいた拍子に、偶然第一撃をかわすことが出来たらしい。
倒れこんだあたしの上に、再び竜が襲いかかる。無我夢中で身体を捻ったすぐそこで、ドガッ、と床が割れる音がして、砕けた欠片が頬をかすめていった。
―――殺される!
かつてないリアルな戦慄が全身を駆け抜けた。心臓が狂想曲を奏でるように踊り狂い、恐慌状態に陥る意識の中、目の前がぐらぐらと揺れる。
魔力が使えず、自由に動くことすらままならず、今や呼吸も満足に出来ない。生き残れる可能性が、今のあたしにはまるで見当たらない。
―――イヤだ!
床に転がったあたしの上に竜が容赦なく前足を振り下ろす。避けきれず、重い衝撃と共に左の脇腹に熱い痛みが走った。ぬめる血の感触が、生々しい生命の危機を知らしめる。
―――イヤだ……死にたくない!
苦痛と恐怖の涙に頬を濡らしながら、あたしは竜の魔の手から逃れようと必死に身体を動かした。
こんなところで死ぬなんて、絶対にイヤだ!
その思いとは裏腹に絶望へと彩られていく脳裏を、アキレウスの姿がよぎる。
もう一度……もう一度、会いたい。
会って、この想いを伝えたい。
その願いを打ち砕く赤い眼の死神が、あたしの喉笛を引き裂こうと巨大な口を開く!
「イ、ヤ―――!」
絶叫と共に、わずかな魔力が光となって迸った。
最後の最後の、ささやかな抵抗。あたしに残された、全てのチカラ。
それは竜の顔面に炸裂し、怒りの咆哮を上げさせる結果となった。全ての力を使い果たし、もはや動くことすらままならなくなったあたしの左右の腕に、鋭い鉤爪のついた竜の頑強な前足が圧しかかってくる。
「っ、う……」
床の上に仰向けに縫いつけられるような格好になり、呻くあたしの顔の真上に、鋭い牙を剥いた恐ろしい竜の顔が見える。
呼吸を止め、ヒク、と喉を鳴らし、あたしは目をいっぱいに見開いて、悪夢のようなその光景を見つめた。
これが、あたしがこの世で見る、最期の光景になるんだろうか。
アキレウスには、もう二度と、会えないんだろうか。
これ以上ないほどに全身が震えて、溢れるとめどのない涙が血で汚れた頬を濡らしていく。
「アキ……レウス……」
あなたの声を、あたしはもう、聞くことが出来ないんだろうか。
薄闇の景色の中に浮かび上がる、禍々しい赤の双眸。魂を裂くような咆哮を轟かせ、竜の牙が目の前に迫ってくる!
「アキレウスー!!!」
最後の瞬間、あたしは張り裂けるような声で、彼の名を絶叫した。
その、刹那。
目の前で竜の身体が真っ二つに裂け、赤黒い血が噴水のように噴き出すその向こうから、輝かしい黄金の光を身に纏った、大振りの剣を握る人物が現われた。
黄金の光に映し出されたその人物の髪は、月光を紡いだかのようなアマス色。野性的な輝きを放つ瞳は、鮮やかな翠緑玉色―――。
アキ……レウス―――……。
ビシャアッ、と濡れた音を立てて、生温かい血の雨があたしに降り注ぐ。
竜の血を全身に浴びながら、にわかには信じられないその光景に言葉を失うあたしの元へ、アキレウスは息せき切って駆けつけると、深紅の海に横たわるあたしの身体を抱き起こし、頬にべったりとついた血糊を掌で拭いながら勢いよく顔を覗き込んだ。
「オーロラ、大丈夫か!?」
切羽詰った表情であたしを見つめる翠緑玉色の瞳が、心配そうに揺れている。
「―――ア……キ、レウス……」
その瞳を茫然と見つめ返し、かすれた声でその名を呼ぶと、彼は大きく安堵の息をもらした。
「間に合って、良かった……!」
言いながら、掻き抱くようにしてあたしを抱き寄せる。いつもと違って余裕のない彼のその行動が、あたしがどれほど危機的な状況にあったのかということを物語っていた。
その瞬間、生きて再びアキレウスに会うことが出来たのだということをようやく実感して、あたしはしゃくりを上げながら彼にしがみついた。
「アキレウス……!」
「オーロラ……」
心なしか、しがみついたアキレウスの身体が震えているような気がする。ううん、きっと震えているのはあたしの身体だ。
大きくて広い、アキレウスの胸。耳に心地良く響く、彼の声。
あぁ……本当に、本物のアキレウスだ。
あたしは深く深く、息を吐いた。
あんなにも会いたいと願ったアキレウスが今、ここにいる。
「良かっ、た……もう一度、アキレウスに会うことが、出来……て……」
あたしは嗚咽を上げながら、声にならない声で切れ切れに呟いた。
安心感と肉体的な限界から、意識が急激に遠ざかっていく。
「オーロラ!」
自分の名を叫ぶアキレウスの声を聞きながら、あたしは大きな安堵に包まれたまま、意識を闇に手放したのだった。
唇に、柔らかくて温かなものが触れている。
そこからゆっくりと注ぎ込まれる何かを少しずつ飲み込む度、傷付いた組織が修復され、冷え切った身体にじんわりと体温が通っていく。暗く閉ざされていた世界が徐々に白々と明けていく。
ぼんやりとそれを感じながら、いつかどこかで、これと似たようなことがあったということを、あたしはおぼろげに意識の片隅で思い出した。
あれはいったい、いつのことだったんだろう……。
あの時もやっぱり、凍えるような寒さを感じた後―――この感触が、自分を救ってくれたような気がする。
唇に触れる、この温かなぬくもりが……。
それを夢現つに思い出しながら、あたしは震える瞼をゆっくりと押し上げた。
あぁ―――そうだ。
大ケガをして、まほろばの森に迷い込んだ時。
確かあの時も、この優しい感触を感じたんだった……。
ぼやけた視界に、何かが映る。
ただぼんやりとそれを見つめていたあたしは、しばらくしてそれが誰かの睫毛であることに気が付いた。
誰……?
虚ろな瞳を瞬かせるあたしから、閉じられたままのその睫毛がゆっくりと離れていく。そして少し離れたところでそれが開かれると、鮮やかな翠緑玉色の瞳がそこから覗いた。あたしはそれで、その人物が誰なのかを悟った。
―――アキレウス……。
≪オーロラ、気が付いたか?≫
アキレウスが何か話しかけてくる。けれどあたしの目に映る彼の姿はどこかぼんやりと霞んでいて、その声は何かの膜を通したようにくぐもって不明瞭で、彼が何を言っているのか、あたしには聞き取ることが出来なかった。
それを尋ねようとして唇を動かしかけるけど、声が出ない。
そんなあたしの様子を見たアキレウスが、手にした小瓶をあおるのが見えた。
そしてゆっくりとあたしに顔を近づけると、唇に再び、柔らかくて温かなあの感触を感じた。
そこから注ぎ込まれる液体を飲み込むと、身体の隅々まで神経が通い始め、次第に意識がハッキリとしていくのが分かった。それに伴って確かな五感が甦ってくる。
あぁ、そうか―――アキレウスは、あたしに口移しで回復薬を飲ませてくれているんだ。
そう理解した瞬間、一気に脳が覚醒した。
―――口、移し!?
驚いて勢いよく目を見開いたその先に、アキレウスのドアップが映る。
「!!!」
唇には、押しつけられた温かな彼の唇の感触があった。
それを認識した途端、心臓が急激に高鳴り、身体中の血液が一気に沸騰して、あたしは身体を硬直させながら、真っ赤な顔でぎゅっと目をつぶった。
うわ……ぁっ……。
やがてアキレウスの唇が離れていった後も、どうしたらいいのか分からなくて、あたしは真っ赤な顔のまま、ずっと目をつぶっていた。
「オーロラ」
アキレウスに静かな声で名前を呼ばれて、あたしはドキンと胸が震えるのを覚えながら、そろそろと目を開けた。
「……大丈夫か?」
心配そうな表情であたしの顔を覗き込むアキレウスの姿が、そこにはあった。
「う……うん……」
頷きながら、彼のその表情を見て、あたしは何だか申し訳ない気持ちで一杯になった。
アキレウスはこんなにあたしを心配してくれているのに、あたしってば……反省。
緊急事態の人命救助……だったんだよ、ね。
「ここは……?」
呟いて起き上がりながら、あたしは辺りを見渡した。
あたしはあの地下の石室ではなく、外の芝生の上に寝かされていた。辺りはすっかり宵闇に包まれていて、月の輝く夜空の下、見覚えのある姿とは少し形を変えたドヴァーフの王城が魔法の光に照らされ、そこにそびえ立っている。
近くに人の姿は見えなかったけれど、あちらこちらで慌しげな声が行き交い、城内はざわついた雰囲気に包まれていた。
「ドヴァーフ城の立ち入り禁止区域だよ。オーロラはあの占い師にそこの地下室で監禁されていたんだ」
アキレウスに言われてそちらを見やると、打ち破られた物々しい法印の描かれた重厚な扉と、その先に暗く口を開ける地下への入口が目に入った。
そこからわずかに漏れ出る不浄な空気を感じて、あたしはザワッと全身に鳥肌が立つのを感じた。
思わずぎゅっと抱きしめた自分の身体は、あの竜の血で汚れていた。つい先程の恐怖がたちまち生々しく甦ってきて、あたしは喘ぐような吐息をこぼしながら、大きく身体を震わせた。
今、自分が生きてこの場にいることが、本当に奇跡だと思った。
「ラァムとあの占い師から、全部聞いたよ。オレのせいでオーロラをこんな目に合わせてしまって……すまない」
アキレウスが沈痛な面持ちになりながらそう謝罪した。
「……アキレウスのせいじゃ、ないよ」
あたしはそう言って首を振った。
「助けに来てくれて……ありがとう」
微かに震える唇を意識的に笑みの形に刻むと、アキレウスは切なそうな表情になって、手を伸ばし、あたしの髪に触れた。
「助けに来るのが遅くなって……ゴメンな」
柔らかく、労わるように彼に髪をなでられて、堪えていた涙が溢れ出した。
「っ、うっ……」
はらはらと、後から後から溢れ出る涙が頬を伝って落ちていく。
怖かった。あの瞬間、もう本当にダメかと思った。もう二度と、アキレウスには会えないんだと思った。
肩を震わせて大粒の涙を流すあたしを、アキレウスはそっとその胸に包み込んだ。
「怖い思いをさせて……悪かった……」
耳元でなだめるように囁きながら、あたしのこめかみにそっと口付ける。
無言で首を振るあたしの髪を優しく梳きながら、アキレウスは頬にも軽く唇を寄せた。溢れる涙を唇で掬い、瞼に、おでこに、優しい口付けを落としていく。まるで、怖い夢に怯える小さな子供をあやすように。
あたしの震えが止まるまで、アキレウスはずっとあたしを抱きしめていてくれた。
その胸の温かさに、あたしは生きて再び彼と会えたことを実感し、その現実に心から感謝したのだった。
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