60 / 91
番外編
木漏れ日の休息
しおりを挟む
※この話はアストレア編終了後~幕間Ⅰの間の話になります。
アストレア編読了後に読まれることをお勧めします。
「オーロラ、いいぞ、その調子だ!」
抜けるような青空の下、広大なアストレア城の敷地内の一画にパトロクロスの声が響き渡る。
「こ、こう?」
馬の手綱を握り締めながら、おっかなびっくりその背に揺られ、あたしは傍らでこちらを見守る彼を見た。
「そうだ、騎手が坐骨にしっかりと体重をかけ、ふくらはぎで腹部を圧迫することによって馬は前進を開始する。これはクリックルでも同じことだ。坐骨を介して鞍に体重をかけるバランスを制御することを『坐骨の扶助』というんだが、これは様々な馬術の基本だ。微妙な体重の移動を感じることで、馬は主人の意図を理解する」
うう、何だか難しいなぁ……。
眉根を寄せながら、あたしはパトロクロスの言葉を反芻しつつ、何とかそれをなぞらえようと、一心不乱に彼の指導に取り組んだ。
まほろばの森からあたしとアキレウスが帰還して、三日後。初日にフォード王達と会談した後、昨日丸一日をぐっすりと眠って過ごし、すっかり元気を回復したあたしは、今日は朝からパトロクロスにお願いをして、馬に乗る練習をしていたのだった。
また、いつ何が起こるか分からないからね。乗れないよりは、絶対に乗れるようになっておいた方がいいし。
自分でやれるべきことはやっておきたいなって思ったんだ。
ハンヴルグ神殿に向かう途中チラッとお願いをしていたこともあって、パトロクロスは乗馬の指導を快く引き受けてくれた。馬とクリックルの乗り方にはそう大差がないらしく、馬に乗れるようになればクリックルにも乗れるようになるぞ、と彼は言っていた。
と、いうわけで、あたしは今、それを何とかモノにしようと努力している真っ最中。ちょっとした力の入れ具合で、こちらの意図が馬には伝わらなかったりするんだよね。馬とのコミュニケーションを取るのって、案外難しいものなんだな。
練習を始めてどのくらい経った頃だろう。
「パトロクロス王子」
聞き覚えのある声に振り向くと、ラオス将軍が急ぎ足で乗馬の特訓中のあたし達に歩み寄ってくるところだった。
「お忙しいところ、申し訳ありません。王が少々お話をしたいことがあるとのことで……恐れ入りますが、王の私室までご足労願えますか」
「フォード王が? 分かりました。すぐに伺います」
本当に申し訳なさそうな表情のラオス将軍に頷いて承諾の意を返すと、パトロクロスは馬上のあたしを見上げ、こう言った。
「オーロラ、悪いな。今日はここまでだ。明日にでもまた続きをやろう」
「うん、ありがとう」
そんな流れで練習をやめる段階になって、あたしは自分の息が軽く上がっていることに気が付いた。集中していて今の今まで気が付かなかったんだけど、全身にうっすら汗もかいている。
いつの間に……。あたし自身は大して身体を動かしていたわけじゃなかったのにな。
あたしがこんなことになっているってコトは、下手っぴな練習に付き合わされるハメになった馬は、きっともっと疲れているよね。
「ごめんね、悪いけど明日もヨロシクね」
馬の鼻筋をなでながらそうお願いをして、あたしはラオス将軍に付き添われて厩舎まで馬を返しに行った後、彼と別れ、疲れた身体を休めようと、一人広大な庭の一角の木陰に腰を下ろした。
立派な枝葉を繁らせた大木に照りつける太陽の日差しから守られて、ホッと息をつくあたしの髪を、時折吹く風が柔らかく揺らし、心地良い涼気が首筋をなでていく。
はー、気持ちいい……。
こん、と後頭部を木の幹に預けて心持ち顔を上向け、爽やかな風を感じながら瞳を閉じてくつろいでいると、頭上からおなじみの声が降ってきた。
「お、乗馬の練習、終わったのか? どうだった?」
目を開けると、剣を片手にあたしを見下ろすアキレウスがそこに立っていた。
「んー、とりあえず、今日は馬との意思疎通を図る練習、ってカンジかな? 並足で歩いたり止まったり、左右に旋回する程度は出来るようになったけど、それ以上はちょっとまだ無理。馬に自分の意思が上手く伝えられないっていうか、馬にまだ認められていないっていうか」
並足っていうのは、馬術で最も遅い歩度のこと。騎乗しているあたしに、ごく軽い前後の揺れが伝わる程度の早さって言えば分かりやすいかな。パトロクロスは基本が大事だと言って、今日は徹底的に基本だけを反復して教わった。
「初めてなら上出来だよ。馬は人を見るからな。これから徐々に慣らしていけばいい」
「へへ、そうだね。アキレウスは剣の稽古をしていたの?」
「あぁ。今日はいつもよりちょっと軽めのメニューにしておいた」
そう言って笑うアキレウスもあたしと同じく、昨日は丸一日眠ったままの状態だったらしい。
彼の身体に溜まっていた疲労はあたしの比じゃなかっただろうから、今日はきっとまだ本調子じゃないんだろうな。
アキレウスはあたしの隣に腰を下ろすと、愛剣を傍らに置いて、大きく伸びをした。
「気持ちいいな、ここ。風が良く通る……」
そう言って気持ち良さそうに目を細めながら、彼はゆったりと木の幹に背を預けた。同じように木の幹に背を預けながら、あたしは頭ひとつ高い位置にある隣の彼の顔を見上げた。
「ねー。身体を動かした後だと、何だか眠くなっちゃう……」
そんなあたしにアキレウスは穏やかな微笑を返して、だな、と相槌を打った。それっきり、心地良い沈黙があたし達を包み込んだ。
木漏れ日の下、緩やかに吹く風が、静かな森の緑の香りを運んでくる。
あ……アキレウスの匂いだ……。
それを感じた瞬間、あたしは何だかふぅっと瞼から力が抜けていくような錯覚を覚えた。
彼の香りは、あたしをひどく安心させる。それは、まるで魔法みたいだ。彼の香りに包まれると、何だかふんわりと温かいものにくるみ込まれたような、そんな安心感に満たされて、その心地良さに身をゆだねてしまいたくなる。
…………。
ゆったりと、流れる時間。身体を包む心地良い疲れと、枝葉の間から降り注ぐ柔らかな木漏れ日。少し前まではまるで考えることの出来なかった、穏やかで心安らぐ、ささやかな幸せを感じるひと時。
そんなふわふわとした心地良さが、ついあたしの気を緩ませてしまったらしい。
「この匂い、好きだな……」
ぽろりと自分の口からこぼれた台詞の意味にハタと気が付くまで、数秒かかった。それに気が付いた瞬間、まどろみかけていたあたしの脳は一気に覚醒した。
ぎゃっ! し、しまった! あたしったら何を……!
真っ赤になりながら、あたしは覚醒したばかりの脳みそを大慌てでフル稼働させた。
ヤバい、ヤバい! 「何の匂い?」ってアキレウスに聞かれたら、何て答えよう。この近くに花壇はないし、美味しそうな匂いが漂っているワケでもないし。
ううう、何て答えたらいいんだろう。風が運んでくる緑の香り、とか?
心の中で一人わたわた悶えていると、それまで無言だったアキレウスが、あたしの側頭部にこつん、と額を寄せてきた。
きゃっ!?
驚いて硬直するあたしの耳元に、彼の吐息がかかる。途端、心臓の鼓動が一気に最高値まで高まり、あたしの思考能力を停止させた。ひどく近くに感じる彼の体温が、あたしの熱をグンと上昇させていく。
ついさっきまで心安らぐと感じていたはずの彼の香りが、今はもう、まるで正反対の性質を持つものへと変貌してしまっていて、あたしはあせった。頭の芯が痺れるような、何も考えられなくなってしまうような、とにかく心がひどくドキドキして落ち着かない、あたしの思考能力を蕩けさせてしまうような、そういうものへと―――。
わ、忘れていた。
アキレウスの匂い……場合によっては、あたしの心臓を破壊しかねないシロモノになるんだったっ……。
ドキドキとスゴい速さで刻まれていく自分の鼓動を意識しながら、あたしはコクン、と息を飲んで、何故か沈黙したままでいるアキレウスにチラリと視線を走らせた。彼はあたしの髪に額を押し付けるようにしたまま、じっと微動だにせずにいる。
「ア、アキレウス……?」
これ以上の沈黙に耐え切れず、意を決して呼びかけたあたしの声に彼は全く反応せず、その時になって、あたしはようやく彼の様子がおかしいことに気が付いた。
ん……?
規則正しく刻まれている、アキレウスの呼吸。よくよく耳を澄ませてみると、あたしの耳にかかる彼の吐息は、すぅすぅと心地良さげな響きをはらんでいた。
!? ね、寝ているっ……!
その事実に気が付いた瞬間、さっきまでとは違う意味であたしはカァーッと頬を紅潮させ、そして一人、脱力した。
あ、あたし、寝ているアキレウスを相手に、一人で何をっ……。
は、恥ずかしすぎるっ……。
赤くなってうつむきながら、あたしは自分にもたれかかって眠っているアキレウスの様子をそっと窺った。
アキレウスがこんなふうに寝ちゃうなんて……やっぱり、疲れが抜けきってなかったんだね。
いつもは強い輝きを放っている翠緑玉色の瞳を瞼の裏側に隠し、少しだけ口を開けて、アキレウスは気持ち良さそうに眠っていた。
その無防備な寝顔が可愛くて、あたしは自分の胸の辺りがきゅうっとしなるのを感じた。
旅をしていると野宿するなんてこともままあるけれど、こんなに明るいところでアキレウスの寝顔を見たのは初めてだった。
ううう、どうしよう。スッゴい可愛いんですけどっ……。
一人頬を染めて悶えながら、ちょっと迷った末、あたしはそろそろと腕を伸ばして、近くにあるアキレウスの手に触れ、その小指を遠慮がちに握ってみた。そんなことをしても、アキレウスは起きる気配を見せなかった。
高名な魔物ハンターであり、優秀な戦士でもある彼がそれで目を覚まさないということは、それだけ彼があたしの気配に心を許してくれている証拠なわけで―――もちろん、それは仲間としての信頼の証、それ以上の何物でもないことは分かっているんだけれど。
でも、嬉しいな。
あたしは一人はにかみながら、小さな幸せをかみしめて、瞼を閉じた。
規則正しい彼の呼吸に誘われて、再びあたしがまどろみ始めるまでに、そう時間はかからなかった―――。
「……こんなトコにいた。あーあ、しょうがないわねー。二人共、子供みたいに無邪気な顔しちゃって」
呆れ口調でそう呟きながら、どこか微笑ましいものを見るような表情で、ガーネットは大木の下で寄り添うようにしてうたた寝をする二人の仲間を見やった。お互いに頭を預け合って、二人は実に気持ち良さそうに眠っている。
「ほーら、二人共、起きなさい! そろそろ夕方になるのよっ」
「う? ううーん……」
「ん……? ガーネット……?」
寝ぼけ眼をこすりながらほぼ同時に目を覚ました二人は、自分達の現状を悟った瞬間、赤くなってお互いに離れるようにして立ち上がった。
その様子に若干の違和感を覚えて、あら? とガーネットは瞳を瞬かせた。
オーロラがそういう態度を取るのは分かるけど、アキレウスまで……?
いつもの彼のイメージからすると、大して動じる風もなく立ち上がりそうなものだけれど……。
その瞬間、ガーネットの中の何かのセンサーが発動し、その瞳をきらーんと輝かせた。小悪魔な表情になった彼女は、ニカッと笑いながらアキレウスに話しかける。
「オーロラが眠りこけちゃうのは何となく分かるけど、アキレウスがこんなふうに眠りこけるなんて珍しいわね」
「な、何であたしの場合はそれで通っちゃうの!?」
頬をふくらませるオーロラの言葉はさらりと聞き流して、ガーネットはアキレウスに意味ありげな視線を投げかける。すると、こんな答えが返ってきた。
「まぁ疲れが抜けきってなかったってのもあるんだろうけど……オーロラが隣にいると、何だか眠くなるんだよな」
自分に向けられたガーネットの言葉が何を意図してのものなのかなど察する風もなく、そう答えたアキレウスの態度はいたって自然なものだった。素で回答しているのは間違いなさそうだ。
きょと、と再び瞬くガーネットの前で、何とも言えない表情になったオーロラがアキレウスに尋ねている。
「そ、それってどういう意味ー?」
それがいい意味なのか悪い意味なのかイマイチ掴めなかったのだろう、彼女の表情は困惑気味だった。
「……いや、そのまんまの意味だけど」
何でもないことのようにあっさりとアキレウスはそう返していたが、捉えようによっては、今、ものすごいことを言っていたのではないだろうか。
オーロラが側にいると、安心する、っていう意味にも取れるわよね……。
心の中でそう分析しながら、ガーネットは顎に指を当て、気持ち宙をにらみながら小首を傾げた。これは、彼女が考えごとをする時のクセでもある。
うーん、相手はアキレウスだし、これだけじゃ何とも言えないか……。
そう結論付けて、ガーネットはとりあえずその場でのそれ以上の考えを見送った。
二人の関係の変化の予兆のようなものを、彼女独特の勘で、何となく感じながら。
アストレア編読了後に読まれることをお勧めします。
「オーロラ、いいぞ、その調子だ!」
抜けるような青空の下、広大なアストレア城の敷地内の一画にパトロクロスの声が響き渡る。
「こ、こう?」
馬の手綱を握り締めながら、おっかなびっくりその背に揺られ、あたしは傍らでこちらを見守る彼を見た。
「そうだ、騎手が坐骨にしっかりと体重をかけ、ふくらはぎで腹部を圧迫することによって馬は前進を開始する。これはクリックルでも同じことだ。坐骨を介して鞍に体重をかけるバランスを制御することを『坐骨の扶助』というんだが、これは様々な馬術の基本だ。微妙な体重の移動を感じることで、馬は主人の意図を理解する」
うう、何だか難しいなぁ……。
眉根を寄せながら、あたしはパトロクロスの言葉を反芻しつつ、何とかそれをなぞらえようと、一心不乱に彼の指導に取り組んだ。
まほろばの森からあたしとアキレウスが帰還して、三日後。初日にフォード王達と会談した後、昨日丸一日をぐっすりと眠って過ごし、すっかり元気を回復したあたしは、今日は朝からパトロクロスにお願いをして、馬に乗る練習をしていたのだった。
また、いつ何が起こるか分からないからね。乗れないよりは、絶対に乗れるようになっておいた方がいいし。
自分でやれるべきことはやっておきたいなって思ったんだ。
ハンヴルグ神殿に向かう途中チラッとお願いをしていたこともあって、パトロクロスは乗馬の指導を快く引き受けてくれた。馬とクリックルの乗り方にはそう大差がないらしく、馬に乗れるようになればクリックルにも乗れるようになるぞ、と彼は言っていた。
と、いうわけで、あたしは今、それを何とかモノにしようと努力している真っ最中。ちょっとした力の入れ具合で、こちらの意図が馬には伝わらなかったりするんだよね。馬とのコミュニケーションを取るのって、案外難しいものなんだな。
練習を始めてどのくらい経った頃だろう。
「パトロクロス王子」
聞き覚えのある声に振り向くと、ラオス将軍が急ぎ足で乗馬の特訓中のあたし達に歩み寄ってくるところだった。
「お忙しいところ、申し訳ありません。王が少々お話をしたいことがあるとのことで……恐れ入りますが、王の私室までご足労願えますか」
「フォード王が? 分かりました。すぐに伺います」
本当に申し訳なさそうな表情のラオス将軍に頷いて承諾の意を返すと、パトロクロスは馬上のあたしを見上げ、こう言った。
「オーロラ、悪いな。今日はここまでだ。明日にでもまた続きをやろう」
「うん、ありがとう」
そんな流れで練習をやめる段階になって、あたしは自分の息が軽く上がっていることに気が付いた。集中していて今の今まで気が付かなかったんだけど、全身にうっすら汗もかいている。
いつの間に……。あたし自身は大して身体を動かしていたわけじゃなかったのにな。
あたしがこんなことになっているってコトは、下手っぴな練習に付き合わされるハメになった馬は、きっともっと疲れているよね。
「ごめんね、悪いけど明日もヨロシクね」
馬の鼻筋をなでながらそうお願いをして、あたしはラオス将軍に付き添われて厩舎まで馬を返しに行った後、彼と別れ、疲れた身体を休めようと、一人広大な庭の一角の木陰に腰を下ろした。
立派な枝葉を繁らせた大木に照りつける太陽の日差しから守られて、ホッと息をつくあたしの髪を、時折吹く風が柔らかく揺らし、心地良い涼気が首筋をなでていく。
はー、気持ちいい……。
こん、と後頭部を木の幹に預けて心持ち顔を上向け、爽やかな風を感じながら瞳を閉じてくつろいでいると、頭上からおなじみの声が降ってきた。
「お、乗馬の練習、終わったのか? どうだった?」
目を開けると、剣を片手にあたしを見下ろすアキレウスがそこに立っていた。
「んー、とりあえず、今日は馬との意思疎通を図る練習、ってカンジかな? 並足で歩いたり止まったり、左右に旋回する程度は出来るようになったけど、それ以上はちょっとまだ無理。馬に自分の意思が上手く伝えられないっていうか、馬にまだ認められていないっていうか」
並足っていうのは、馬術で最も遅い歩度のこと。騎乗しているあたしに、ごく軽い前後の揺れが伝わる程度の早さって言えば分かりやすいかな。パトロクロスは基本が大事だと言って、今日は徹底的に基本だけを反復して教わった。
「初めてなら上出来だよ。馬は人を見るからな。これから徐々に慣らしていけばいい」
「へへ、そうだね。アキレウスは剣の稽古をしていたの?」
「あぁ。今日はいつもよりちょっと軽めのメニューにしておいた」
そう言って笑うアキレウスもあたしと同じく、昨日は丸一日眠ったままの状態だったらしい。
彼の身体に溜まっていた疲労はあたしの比じゃなかっただろうから、今日はきっとまだ本調子じゃないんだろうな。
アキレウスはあたしの隣に腰を下ろすと、愛剣を傍らに置いて、大きく伸びをした。
「気持ちいいな、ここ。風が良く通る……」
そう言って気持ち良さそうに目を細めながら、彼はゆったりと木の幹に背を預けた。同じように木の幹に背を預けながら、あたしは頭ひとつ高い位置にある隣の彼の顔を見上げた。
「ねー。身体を動かした後だと、何だか眠くなっちゃう……」
そんなあたしにアキレウスは穏やかな微笑を返して、だな、と相槌を打った。それっきり、心地良い沈黙があたし達を包み込んだ。
木漏れ日の下、緩やかに吹く風が、静かな森の緑の香りを運んでくる。
あ……アキレウスの匂いだ……。
それを感じた瞬間、あたしは何だかふぅっと瞼から力が抜けていくような錯覚を覚えた。
彼の香りは、あたしをひどく安心させる。それは、まるで魔法みたいだ。彼の香りに包まれると、何だかふんわりと温かいものにくるみ込まれたような、そんな安心感に満たされて、その心地良さに身をゆだねてしまいたくなる。
…………。
ゆったりと、流れる時間。身体を包む心地良い疲れと、枝葉の間から降り注ぐ柔らかな木漏れ日。少し前まではまるで考えることの出来なかった、穏やかで心安らぐ、ささやかな幸せを感じるひと時。
そんなふわふわとした心地良さが、ついあたしの気を緩ませてしまったらしい。
「この匂い、好きだな……」
ぽろりと自分の口からこぼれた台詞の意味にハタと気が付くまで、数秒かかった。それに気が付いた瞬間、まどろみかけていたあたしの脳は一気に覚醒した。
ぎゃっ! し、しまった! あたしったら何を……!
真っ赤になりながら、あたしは覚醒したばかりの脳みそを大慌てでフル稼働させた。
ヤバい、ヤバい! 「何の匂い?」ってアキレウスに聞かれたら、何て答えよう。この近くに花壇はないし、美味しそうな匂いが漂っているワケでもないし。
ううう、何て答えたらいいんだろう。風が運んでくる緑の香り、とか?
心の中で一人わたわた悶えていると、それまで無言だったアキレウスが、あたしの側頭部にこつん、と額を寄せてきた。
きゃっ!?
驚いて硬直するあたしの耳元に、彼の吐息がかかる。途端、心臓の鼓動が一気に最高値まで高まり、あたしの思考能力を停止させた。ひどく近くに感じる彼の体温が、あたしの熱をグンと上昇させていく。
ついさっきまで心安らぐと感じていたはずの彼の香りが、今はもう、まるで正反対の性質を持つものへと変貌してしまっていて、あたしはあせった。頭の芯が痺れるような、何も考えられなくなってしまうような、とにかく心がひどくドキドキして落ち着かない、あたしの思考能力を蕩けさせてしまうような、そういうものへと―――。
わ、忘れていた。
アキレウスの匂い……場合によっては、あたしの心臓を破壊しかねないシロモノになるんだったっ……。
ドキドキとスゴい速さで刻まれていく自分の鼓動を意識しながら、あたしはコクン、と息を飲んで、何故か沈黙したままでいるアキレウスにチラリと視線を走らせた。彼はあたしの髪に額を押し付けるようにしたまま、じっと微動だにせずにいる。
「ア、アキレウス……?」
これ以上の沈黙に耐え切れず、意を決して呼びかけたあたしの声に彼は全く反応せず、その時になって、あたしはようやく彼の様子がおかしいことに気が付いた。
ん……?
規則正しく刻まれている、アキレウスの呼吸。よくよく耳を澄ませてみると、あたしの耳にかかる彼の吐息は、すぅすぅと心地良さげな響きをはらんでいた。
!? ね、寝ているっ……!
その事実に気が付いた瞬間、さっきまでとは違う意味であたしはカァーッと頬を紅潮させ、そして一人、脱力した。
あ、あたし、寝ているアキレウスを相手に、一人で何をっ……。
は、恥ずかしすぎるっ……。
赤くなってうつむきながら、あたしは自分にもたれかかって眠っているアキレウスの様子をそっと窺った。
アキレウスがこんなふうに寝ちゃうなんて……やっぱり、疲れが抜けきってなかったんだね。
いつもは強い輝きを放っている翠緑玉色の瞳を瞼の裏側に隠し、少しだけ口を開けて、アキレウスは気持ち良さそうに眠っていた。
その無防備な寝顔が可愛くて、あたしは自分の胸の辺りがきゅうっとしなるのを感じた。
旅をしていると野宿するなんてこともままあるけれど、こんなに明るいところでアキレウスの寝顔を見たのは初めてだった。
ううう、どうしよう。スッゴい可愛いんですけどっ……。
一人頬を染めて悶えながら、ちょっと迷った末、あたしはそろそろと腕を伸ばして、近くにあるアキレウスの手に触れ、その小指を遠慮がちに握ってみた。そんなことをしても、アキレウスは起きる気配を見せなかった。
高名な魔物ハンターであり、優秀な戦士でもある彼がそれで目を覚まさないということは、それだけ彼があたしの気配に心を許してくれている証拠なわけで―――もちろん、それは仲間としての信頼の証、それ以上の何物でもないことは分かっているんだけれど。
でも、嬉しいな。
あたしは一人はにかみながら、小さな幸せをかみしめて、瞼を閉じた。
規則正しい彼の呼吸に誘われて、再びあたしがまどろみ始めるまでに、そう時間はかからなかった―――。
「……こんなトコにいた。あーあ、しょうがないわねー。二人共、子供みたいに無邪気な顔しちゃって」
呆れ口調でそう呟きながら、どこか微笑ましいものを見るような表情で、ガーネットは大木の下で寄り添うようにしてうたた寝をする二人の仲間を見やった。お互いに頭を預け合って、二人は実に気持ち良さそうに眠っている。
「ほーら、二人共、起きなさい! そろそろ夕方になるのよっ」
「う? ううーん……」
「ん……? ガーネット……?」
寝ぼけ眼をこすりながらほぼ同時に目を覚ました二人は、自分達の現状を悟った瞬間、赤くなってお互いに離れるようにして立ち上がった。
その様子に若干の違和感を覚えて、あら? とガーネットは瞳を瞬かせた。
オーロラがそういう態度を取るのは分かるけど、アキレウスまで……?
いつもの彼のイメージからすると、大して動じる風もなく立ち上がりそうなものだけれど……。
その瞬間、ガーネットの中の何かのセンサーが発動し、その瞳をきらーんと輝かせた。小悪魔な表情になった彼女は、ニカッと笑いながらアキレウスに話しかける。
「オーロラが眠りこけちゃうのは何となく分かるけど、アキレウスがこんなふうに眠りこけるなんて珍しいわね」
「な、何であたしの場合はそれで通っちゃうの!?」
頬をふくらませるオーロラの言葉はさらりと聞き流して、ガーネットはアキレウスに意味ありげな視線を投げかける。すると、こんな答えが返ってきた。
「まぁ疲れが抜けきってなかったってのもあるんだろうけど……オーロラが隣にいると、何だか眠くなるんだよな」
自分に向けられたガーネットの言葉が何を意図してのものなのかなど察する風もなく、そう答えたアキレウスの態度はいたって自然なものだった。素で回答しているのは間違いなさそうだ。
きょと、と再び瞬くガーネットの前で、何とも言えない表情になったオーロラがアキレウスに尋ねている。
「そ、それってどういう意味ー?」
それがいい意味なのか悪い意味なのかイマイチ掴めなかったのだろう、彼女の表情は困惑気味だった。
「……いや、そのまんまの意味だけど」
何でもないことのようにあっさりとアキレウスはそう返していたが、捉えようによっては、今、ものすごいことを言っていたのではないだろうか。
オーロラが側にいると、安心する、っていう意味にも取れるわよね……。
心の中でそう分析しながら、ガーネットは顎に指を当て、気持ち宙をにらみながら小首を傾げた。これは、彼女が考えごとをする時のクセでもある。
うーん、相手はアキレウスだし、これだけじゃ何とも言えないか……。
そう結論付けて、ガーネットはとりあえずその場でのそれ以上の考えを見送った。
二人の関係の変化の予兆のようなものを、彼女独特の勘で、何となく感じながら。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
もういらないと言われたので隣国で聖女やります。
ゆーぞー
ファンタジー
孤児院出身のアリスは5歳の時に天女様の加護があることがわかり、王都で聖女をしていた。
しかし国王が崩御したため、国外追放されてしまう。
しかし隣国で聖女をやることになり、アリスは幸せを掴んでいく。
【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です
葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。
王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。
孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。
王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。
働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。
何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。
隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。
そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。
※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
※小説家になろう様でも掲載予定です。
聖女の姉が行方不明になりました
蓮沼ナノ
ファンタジー
8年前、姉が聖女の力に目覚め無理矢理王宮に連れて行かれた。取り残された家族は泣きながらも姉の幸せを願っていたが、8年後、王宮から姉が行方不明になったと聞かされる。妹のバリーは姉を探しに王都へと向かうが、王宮では元平民の姉は虐げられていたようで…聖女になった姉と田舎に残された家族の話し。
王命を忘れた恋
須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』
そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。
強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?
そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。
聖女の仕事なめんな~聖女の仕事に顔は関係ないんで~
猿喰 森繁
ファンタジー
※完結したので、再度アップします。
毎日、ぶっ倒れるまで、聖女の仕事をしている私。
それをよりにもよって、のんきに暮らしている妹のほうが、聖女にふさわしいと王子から言われた。
いやいやいや… …なにいってんだ。こいつ。
いきなり、なぜ妹の方が、聖女にふさわしいということになるんだ…。
え?可愛いから?笑顔で、皆を癒してくれる?
は?仕事なめてんの?聖女の仕事は、命がかかってるんだよ!
確かに外見は重要だが、聖女に求められている必須項目ではない。
それも分からない王子とその取り巻きによって、国を追い出されてしまう。
妹の方が確かに聖女としての資質は高い。
でも、それは訓練をすればの話だ。
まぁ、私は遠く離れた異国の地でうまくやるんで、そっちもうまくいくといいですね。
元聖女だった少女は我が道を往く
春の小径
ファンタジー
突然入ってきた王子や取り巻きたちに聖室を荒らされた。
彼らは先代聖女様の棺を蹴り倒し、聖石まで蹴り倒した。
「聖女は必要がない」と言われた新たな聖女になるはずだったわたし。
その言葉は取り返しのつかない事態を招く。
でも、もうわたしには関係ない。
だって神に見捨てられたこの世界に聖女は二度と現れない。
わたしが聖女となることもない。
─── それは誓約だったから
☆これは聖女物ではありません
☆他社でも公開はじめました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる