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 それからしばらく経ったある冬の日―――白い息を吐きながら頬を紅潮させて、早足で待ち合わせの場所へと急ぐノラオの姿があった。

 今日はノラオにとって、待ちに待った大切な日だった。

 エージが結婚してから、初めて二人きりで外で会う約束をしていたからだ。

 前回エージと会ったのは、彼に長男が生まれて、家に出産祝いを持って行った時のことで、もう半年以上も前のことになる。

 その時は同居する奥さんの家族も一緒だったし、そう長居することも遠慮なしに話すことも出来ず、こうして気兼ねなく彼に会うことが出来るのは、実に独身の時以来だった。

 会う約束をしてからこの日を指折り数えて待ちに待ち、前日はなかなか眠ることも出来ないほどだったノラオは、逸る心を抑えながら、約束の時刻の五分前に待ち合わせ場所へと着いた。

 ―――張り切り過ぎて、あんま早く着きすぎちまって変に思われてもいけねぇからな……。

 腕時計で時刻を確認しながら、ノラオはそわそわとエージの到着を待った。

 時刻に正確なエージは、だいたい約束の五分前には待ち合わせ場所へ来ていることが多い。まだ姿は見えないが、遅れてくることはないだろう。

 ―――けれど、約束の時間を五分、十分と過ぎても、エージが待ち合わせ場所に現れることはなかった。

 あれ? オレ、日時とか場所とか間違えてねぇよな……!?

 ノラオはそんな不安に駆られながら記憶を思い返してみたけれど、あれだけ楽しみにして、何度も何度もカレンダーを確認したことを鑑みて、それはない、と断定した。

 ―――もしかして、何かあったのか? まさか事故とか……。

 ふと頭をかすめたそんな予感に、薄ら寒い思いがよぎる。

 まだ携帯電話も、ポケットベルもなかった時代だ。

 連絡手段としてあるのは、自宅や公衆電話などの固定電話だけ。

 公衆電話は待ち合わせ場所から少し離れたところにあったけれど、この場から離れている間にエージが来て行き違いになるかもしれない、という思いと、彼の自宅が奥さんの実家で、そちらに電話をかけるということに少しのためらいがあった。

 ―――もうちっとだけ、待ってみよう。電話すんのはそれからでも遅くねぇし……。

 冬の外気に晒されながら待ち始めて三十分経つ頃には、みぞれ交じりの雪が降ってきた。

「―――うわ。マジか……」

 鼻の頭を赤くして白い息を吐きながら、曇天の空を見上げる。

 エージに限って約束を忘れるなんてことは絶対にねえし、これは多分、何かあったんだ。事故とかじゃねぇといいんだが―――……。

 そう思いながらなかなかその場所を離れられなくて、結局一時間待ち続けた後、冷え切った身体で公衆電話からエージの自宅へ電話すると、彼の義母が出て、エージは娘と一緒に子どもを連れて病院へ行っていると教えてくれた。

 何でも子どもが急に高熱を出して、夫婦で慌てて休日の救急外来へ連れて行ったらしい。

「―――あなたから連絡があったら申し訳ないと伝えてほしいと英一郎さんから言伝ことづてを頼まれていたの。ごめんなさいね、前から約束をしていたそうなのに、急にこんなことになってしまって」
「―――いえ、そういう理由でしたら仕方がありませんから。こちらのことは気にせずお大事にと、英一郎に宜しくお伝え下さい」

 電話口から聞こえてくる声にそう返しながら、今日はエージに会えないんだな、という実感が深い闇のように降りてきて、ノラオの全身を覆っていった。

 ―――事故に遭ったんじゃなくて良かった。エージ自身に何かあったわけじゃなくて良かった。

 熱を出した子どもは可哀想だったが、小さい子にはよくあることだし、医者に診てもらって薬を処方してもらえれば、きっと数日で回復することだろう。

 家族を大切にする、エージらしい選択だ。父親として、夫として、当たり前の選択だ―――。

 頭では分かっていても、会えないというその現実に、気持ちがどうしようもなく堕ちていく。

 エージには守るべきものがたくさん出来たんだ。仕方がないことなんだ。

 オレは、その対象じゃないんだから。

 オレは、エージの一番ではないんだから。

 エージの一番には、なれなかったんだから。

「―――~~~ッ……」

 分かっていたはずなのに、込み上げてきたやりきれない想いが決壊して、熱い涙が冷え切った頬を伝っていった。

 会いたくて会いたくて、傍にいたくて、いてほしくて、愛されたくて、愛してほしくて、諦めて、諦めきれなくて、ごまかして、なだめすかして、我慢して我慢して、いっぱいいっぱいに張り詰めていた気持ちが、その一瞬で溢れてしまった。

 ―――何やってんだ、オレ……。バカみてぇ……。

 失意のまま、完全に雪に変わった冬空の下を交通機関を使わずに歩いて自宅まで戻り、虚ろな気持ちで朝を迎えた時には、身体が異常をきたしていた。

 ―――あー……風邪ひいた……身体、だりぃ……。

 健康でそれまであまり風邪もひいたことがなかったノラオには、久々の感覚だった。

 一人暮らしのアパートに体温計や常備薬はなく、正確な体温は分からなかったものの、かなりの高熱が出ているらしく、身体の節々が痛んで、ひどい喉の腫れと痛みを感じた。

 ―――マジ最悪だ……。

 気怠い身体を起こして、会社に体調不良で欠勤する旨を連絡すると、電話を受けた同僚からひどく迷惑そうな声で「お大事に」と形式的な言葉を返され、余計に気分が悪くなった。

 一人休むとその分のしわ寄せが来てしまうのは事実だし申し訳なくもあったが、その態度は人としていかがなものか。

 ―――そもそも日本人は、働き過ぎなんだよ!

 ノラオが働いていたこの時代は週休一日、会社員だと日曜日だけが休日というのもまだ当たり前のご時世で、有給休暇はあっても名ばかりの制度で、病欠した時なんかにそれが消化されるだけで、残りはみんな捨てているのが実情というような、今ではとても考えられない労働環境だった。

 欧米の人達からは「日本人は働きアリ」なんて揶揄もされていたらしい。

 ―――とりあえず今日一日寝てりゃ、明日には熱も下がんだろ。

 健康に自信があったノラオはこの時は体調不良をあまり深刻には捉えず、布団の中にくるまって目を閉じた。

 彼としては、それよりも精神的な疲弊の方がよほどダメージとして大きかったのだ。

 そのせいか、短い眠りの合間合間に嫌な夢ばかり見てうなされ、ひどい寝汗をかいては目を覚ますことを繰り返した。

 その悪夢は決してエージに手の届かない夢、色んな観点からそれを思い知らされる夢、それからしばらく見ることのなかった、実家関連の夢が多かった。

 エージが結婚してほどなく弟の武雄も結婚が決まり、否応なしにその式に出席した時、必然的に顔を合わせることになってしまったほぼ絶縁状態の父親は、お前もいつまでもフラフラとせず武雄を見習って早く身を固めるように、と予想通りの言葉を突きかけてきた。

 手堅い会社に就職して配偶者をめとり、子どもをもうけ、石動家いするぎけの血を途絶えさせることなく、次なる世代へと伝えていくことこそが男としての一番の務めだと信じて疑わない父親は、今回弟の武雄が相手の家に入ることもあって、長男であるノラオに家名を背負ってその役を全うしてもらいたいという思いが一層強くなっていた。

 式の待ち時間の合間に両親が持参してきていた見合い写真を見せられた時には、辟易した。

 同性で既婚者のエージにずっと片想いをしていて、その彼を未だに諦められずにいるなんて、口が裂けても言えるわけがない。

 父親からしたら、皆が当たり前のようにそうしていることがどうしてお前には出来ないんだ、という気持ちなんだろう。

 そういう意味ではオレは出来損ないで、エージに惚れててこれからも子孫を残す気がないんじゃあ、この先生きていたところで実を成さない、価値もない人間なのかもしれない。

 何の生産性もないオレは、父親みたいな人間からしたらきっと、社会のゴミに等しいんだろう。

 だとしたら、オレは―――オレは―――……。



 何の為に、生きているんだろうな?



 誰にも心から必要とはされていないのに。



 どうして、生まれてきちまったんだろうな―――?



 夕方になって、ほとんど鳴らない家の電話が、珍しく鳴っていた。

 多分、仕事を終えたエージが昨日のことを詫びに電話を掛けてきたんじゃないかと思ったけれど、それを取る気になれなくて、ずっと布団を被ったまま、ただけたたましいその音を聞いていた。

 時間を置いて何度もかかってきたその電話を、結局ノラオは一度も取ることをしなかった。

 完全に拗ねたところに体調不良が重なって、深刻な自暴自棄に陥っていたのだ―――。
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