病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

藤原 秋

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番外編 第五皇子側用人は見た!

bittersweet5④

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 迂闊うかつな自分の発言に頭を抱えるラウルへ、エドゥアルトが少し意地悪く口角を上げて言った。

「そういえばいつぞやは、ベイゼルンの王宮で僕に大胆な真似をしてくれたっけな。そうだ、思い出したぞ。あの時の借りをまだ返していないままだったな」

 出来ることなら忘却の彼方へ葬り去りたい過去のしくじりを掘り返されて、ラウルはあせった。

「えっ、いや、それはどうぞ未来永劫忘れてて下さい! てか、とっくに終わった話では!? だってあの時ちゃんと謝りましたよね!?」
「許すとはひと言も言ってないだろう?」
「時効ですよ、もうとっくの昔に!」
「僕の性格を知っているよな? やられっぱなしは性に合わないんだ」

 黄味の強いトパーズの瞳が妖しい光を帯びて、身の危険を感じたラウルは思わず後退あとずさった。その拍子に脚が軽くテーブルに当たってしまい、グラスになみなみ注がれていた葡萄酒が波立って勢いよく溢れてしまったのだ。

「あっ」

 ビシャッ、とテーブルにこぼれ落ちたそれがエドゥアルトの白いバスローブにも飛び散って、胸から腹部の辺りにかけて点々と汚してしまう。ラウルは素早く動きながら自身の失態を詫びた。

「すみません!」

 葡萄酒が床に滴り落ちないよう急いでテーブルの上を布巾で押さえ、すぐに別の清潔な布巾でエドゥアルトのバスローブの汚れを軽く押さえるようにして叩くが、落ちにくい葡萄酒の染みは上質のバスローブからなかなか消えてくれない。

 少し悪ふざけが過ぎたと反省していたエドゥアルトは、先程まで距離を置いていたラウルが不意に懐まで飛び込んできたこの状況に軽く戸惑った。

 事態を考えれば当然のことなのだが、突然手の届く位置に彼女が現れたこと、その指先がともすれば自身の素肌に触れかねないところを行き来している事態に、少なからぬ動揺を覚える。

 椅子に腰掛けたエドゥアルトの眼下で銀色の柔毛に覆われた三角耳が忙しそうに動いて、その下で昼間触れた彼女のショートボブの銀髪がサラサラと流れているのが見えた。

 香水の類を付けないラウルからは、石鹸と混じり合った仄かに優しい彼女自身の香りだけがする。

 エドゥアルトは冷静であろうと努めながら、ラウルの邪魔にならぬよう腕だけを伸ばしてテーブルの上のグラスを取った。

 彼の傍らにしゃがみ込んで一心不乱に染みと格闘する彼女の集中力はそちらへ向いてしまっているので、何かの拍子にまた残りをこぼされてもかなわないと思い、グラスを空にしておこうと考えたのだ。

 だが、エドゥアルトが葡萄酒を飲み始めてほどなく、落ちない染みにお手上げとなったラウルが顔を上げた。

「ダメだぁ、落ちない……。すみません、すぐ代わりのバスローブをお持ちしま―――」

 そこでエドゥアルトと目が合ったラウルは、想像以上に彼との距離が近かったことに驚いて、妙な声を上げてしまった。

「わきゃ!」

 この時、とっさに距離を取ろうと突っ張るように押し出された彼女の手が、拭き取り作業で少し緩んでいたエドゥアルトのバスローブの合わせ目に突っ込まれる形になり、突然脇腹の辺りに滑るような一撃を受けた彼は、身体をビクッと震わせて派手にむせ返った。

「あわわ! 申し訳ありませんッ!!」

 盛大にやらかしてしまったラウルは青ざめつつ、むせ返るエドゥアルトが手に持っているグラスを取り落としてしまわないよう、その柄の部分を掴み、もう一方の手で彼の背中を撫でさすった。

「お前っ……なぁッ」

 咳込んで涙目になったエドゥアルトににらみつけられ、平身低頭の勢いで謝罪する。

「本っ当にすみませんッ!!」

 そんなラウルの顔が先程より近い位置にあるのを見取ったエドゥアルトは、これ以上妙なことにならないよう、彼女の手を振り払って遠ざけようとした。

「もういい、下がれ」
「でも」

 ちょっとした押し問答のようになったその時、二人が手に持ったままのグラスに相反する力が生じ、そこから残りの葡萄酒が波立つようにこぼれ出て、中腰で立っていたラウルの口元にかかってしまったのだ。

「!」

 ラウルの手がグラスから離れ、ハッとしたエドゥアルトはすぐにそれをテーブルに置き、自身のバスローブの袖の部分で彼女の口元を拭ってやったのだが、安否の言葉をかける前に彼女の身体はぐにゃりと傾き、とっさに肩を支えたエドゥアルトにもたれかかるようにして、ずるずると椅子に座る彼の膝の上に崩れ落ちてきた。

「おい、ラウル。おい、大丈夫か」

 ここまで彼女が酒に弱いとは思ってもみなかったエドゥアルトは驚いてその顔を覗き込んだが、顔を赤く染めた彼女の青灰色の瞳はとろんとして獣耳はだらんと下がり、ひどい酩酊めいてい状態に陥っているように見えた。

「おい、分かるか? 僕の声が聞こえるか?」

 あまり揺すってもまずいと思い、熱を帯びた頬を優しく叩くようにして尋ねると、瞬きを返した彼女は小さく頷いて、エドゥアルトの膝の上にうつ伏せに上体を預けたまま、首を少しだけ傾けて彼の方へ顔を向けた。

 その顔を見た瞬間、エドゥアルトはこれまでに感じたことがない種類の衝撃に射抜かれ、自身の左の鼓動に全身が支配されたかのような錯覚に陥った。

 それは、これまで彼が目にしたことのない彼女の姿だったのだ。

 しどけなく上気した肌に、熱を孕んで揺れる青灰色の瞳。少しだけ開かれたつややかで健康的な赤い唇。いつもピンと立っている大きな三角耳を後ろに伏せてこちらを見やる彼女は、強烈な色香を放って見えた。

 膝の上に感じる彼女の重みが、伝わってくる少し高めの体温が、意識しないようにしようとしても、どうしてもバスローブ越しに拾ってしまう女性らしい胸の質感が、視覚と共鳴してエドゥアルトの深いところに響いてくる。

 これは―――色々と、まずい。

 覚醒しかける男としての本能をなだめすかすのに驚くほどの忍耐力を要する。彼としてはこれも初めて体感する感覚だった。

 これまで何人もの貴族の子女と夜を過ごしてきた経験はあったが、恋愛感情を一切挟まず、あくまで男のたしなみとして、損得の絡んだ相手からの求めに応じて、そんな理由で、作法や取引の延長というくらいの感覚でしか女性と接してこなかった彼にとって、それは切なくて愛くてどこか泣きたくなるような、初めての体験だったのだ。

「……。その顔……」

 いつもよりだいぶろれつの怪しくなったラウルの声が、静まり返った室内にポツリと響いた。

「それ……ゲームの決着の間際の顔とおんらじ……。ろうして、そんな顔をしてるんれすか……?」

 葛藤の只中から現実に引き戻されたエドゥアルトの膝の上で、のろのろと上体を起こしたラウルは、微かに目を瞠る彼を潤んだ瞳で見上げてこう尋ねた。

「それは、ろういう意味のある表情なんれすか……? 何が、貴方にそんな顔をさせているんれす……?」

 黙して語らない主に一方の腕をゆっくりと伸ばして、その頬に触れるような仕草を彼女はしたが、その指先はただ彼の胸の辺りを彷徨うだけだった。

「私は、それが引っ掛かっれ、気になっれ……。もしかしたらゲームの結末よりも、その理由が聞きらくれ、知りたくれ、ここへ来たのかもしりません……」

 ラウルの言葉を黙って聞いていたエドゥアルトは半眼を伏せて、自身の胸の辺りを彷徨っている彼女の手を取った。

「……。僕は……あの間際、今と同じような顔をしていたのか……?」

 問いかけるようなひとりごとのような、判然としがたい彼の小さな呟きに、ラウルはコクリと頷いた。

 それを見たエドゥアルトは諦めたような表情になって、自嘲気味にひとりごちた。

「は―――無意識に顔に出てるとか……思春期の小僧じゃあるまいし、気持ち悪いし情けないな」
「……? 別に、気持ち悪くなんれ……」

 不思議そうに瞳を瞬かせるラウルの頭をもう一方の手でくしゃりと撫でて、銀色の髪を緩くかき混ぜながら、エドゥアルトは他の者に見せることのない優しい顔をしてこう言った。

「まあいいか。今こうして話したところで、どうせお前は明日にはキレイさっぱり忘れて、何も覚えてやしないんだろうからな」
「……?」
「大した理由じゃない。……難しいなぁって、そう思ったんだよ。お互いの気持ちが同じくらいになるまで待つっていうのは、案外難しいものだなって」

 そう言って、エドゥアルトは少し寂しそうに笑んだ。

「僕はせば成るっていう主義だし、欲しいものを得る為には相応の努力をする心積もりはある。けれど、人の心にはそれが当てはまらないんだよな。こちらが気持ちを向けているからと言って、必ずしも向こうがそれに応えてくれるとは限らないんだよな。自分こっちの気持ちと相手あっちの気持ちに温度差があり過ぎて、それが腹立たしいくらい身に沁みて―――諦めるつもりはないけれど、らしくもなく弱気になって、時々心身のバランスが取りづらくなるんだ。相手を大切にしたい気持ちと、無理やりにでも触れたい気持ちがせめぎ合うっていうのかな。それが表れたのが、お前の言う『その顔』さ」

 頭皮を往復する長い指の心地好さにうっとりと身を任せていたラウルは、頭の芯がぼうっとするようなアルコールの影響下に置かれながら、エドゥアルトには誰か想う相手がいて、あの表情はその相手のことを考えて出たものなのだと、漠然と悟った。

 あのエドゥアルト様に、いつの間にかあんな切ない顔をさせる相手が現れたなんて……。

 ……。

 ……。嫌だなぁ……。

 アルコールの影響でふわふわしていた気持ちが急激にしぼんで、表現しようのない重苦しさに胸がぎゅっと押し潰されそうになる。

「……エドゥアルト様が寂しそうにしているのは嫌らけろ……あんな目れ誰かを見つめているのも、嫌らなぁ……」

 酔っているせいで頭が上手く働いていないラウルは、それが自分の口から声になって出ていることに気が付いていなかった。

「エドゥアルト様には笑っれれほしいけろ……幸せになっれほしいけろ……れも、いつまれも大人になり切れないままのエドゥアルト様れ、ずっろ一緒にいれたら良かっらのに……」

 キューン、と鼻を鳴らして、ラウルはエドゥアルトの胸の辺りに自身の側頭部を押し付けるようにした。はだけた彼の素肌が頬に触れ、そこから力強い心音が拍数を上げていくのを耳にしながら、ラウルの意識は眠りの中に吸い込まれていった。

「……。何勘違いしてるんだよ……」

 無防備極まりない状態で寝落ちしてしまったラウルを見やり、エドゥアルトはやりきれない溜め息をこぼした。

「こっちはお前に意識される男になりたいと思って、早く大人になろうと努力しているってのに……」

 銀毛に覆われた三角耳に唇を寄せてそう囁きながら、エドゥアルトは腕の中のラウルを抱きしめた。

「危機感なさ過ぎだろ……あまり信用してくれるなよ、こっちはもういっぱいいっぱいなんだ。そのうち勝手にキスのやり直しをしても知らないからな」

 銀色の髪に頬をうずめて切ない想いを吐き出したエドゥアルトは、ややしてから、未練を断ち切るようにラウルを抱き上げてソファーへと移動させた。

 ドアの外で控えているだろうハンスを呼び、こちらの求めに応じて現れた彼に諸々の後始末を頼む。

 室内の惨状に唖然とするハンスに大まかな事情を伝えると、優秀な彼はそれ以上詮索することもなく、迅速に役目を果たし始めた。それを横目に見やりながら、エドゥアルトは扉続きの自身の寝室へと引きあげていった。

 ぐっすりと眠るラウルには、ハンスの手によって毛布が掛けられた。

 翌朝、主の居室のソファーで目覚めたラウルは、ハンスから強烈な説教を受けることとなるのだが、葡萄酒を浴びてからの記憶が一切ない彼女には何が何やらという状況で、ただまたしてもやらかしてしまった、という記憶だけが残ったのである―――。



<完>
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