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本編
二十一歳㉔
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それから数日後の夜。
業務を終えて私の調剤室を訪れたスレンツェは、曇りのない真っ直ぐな眼差しを私に向けて、自分の気持ちを伝えてくれた。
「ユーファ。オレは、お前が好きだ」
面と向かってハッキリとそう告げられて、ドク、と鼓動が高鳴る。
「お前を同僚ではなく異性として意識するようになったのは、領地視察に出立する前夜、お前の前で初めて弱音を吐いた時だったと思う。そこから少しずつお前への気持ちが育っていって、オレの中で特別なものになっていったんだ」
その言葉に、胸が騒いだ。
おんなじだ―――多分、私がスレンツェを意識するようになったのもそれがきっかけだった。
それまで頑なに閉じていた扉を彼が開いてくれた瞬間。初めて心の深いところに触れさせてくれた瞬間。
「オレはこんな身の上だからお前を幸せに出来るはずもないし、この想いを告げるべきではないと、ずっとそう思ってきた。―――それに今の心地好い関係を崩したくないというためらいもあって、ずっと自重してきたんだ」
スレンツェはどこか苦し気な顔をしてそう言った。
「だが―――、もう、育ち過ぎたこの気持ちを抑えておくことが出来なくなった。お前の言葉は、オレに力をくれる。お前の笑顔は、オレに勇気を与えてくれる。お前の温もりは、オレに癒しと安らぎをもたらしてくれる。そんなお前を誰にも渡したくない、そう思うようになった。お前の存在は、もはやオレにとってなくてはならないものなんだ」
スレンツェ……。
ずっと内に秘めてきた想いをそう吐露した彼は、黒い切れ長の双眸に真摯な光を宿して、向き合う私の気持ちを尋ねた。
「ユーファ、飾らないありのままのお前の気持ちを聞かせてくれ。余計な気遣いはしなくていい」
表情や声のトーンから、スレンツェの真剣さと緊張感が伝わってくる。
精一杯自分の気持ちを伝えてくれる彼に、私も隠さずに真っ直ぐに応えようと思った。
「スレンツェ……ありがとう、私のことを好きだと言ってくれて。率直に……とても嬉しいわ。私も、あなたのことを大切に……特別に想っているから」
私の言葉に、彼が微かに目を瞠る。私は自分の胸に手を当てて、正直な気持ちを伝えた。
「私もね、あなたと同じ。同じ時を過ごすうちにいつの間にか、少しずつ少しずつ、あなたを想う気持ちが降り積もっていった感じなの……。初めはね、心配してあなたのことを見ていたのよ。初めて会った時のあなたはまだ十五歳で―――過酷な経験にひどく傷付いて、自分以外の全てが敵だというような目をしていたから―――……」
あの頃のスレンツェは言うなれば虚ろで危うい刃物みたいで、頑なに他人を拒絶する空気を纏っていた。
病弱だったフラムアークを看ながら、殺伐としたスレンツェの方からも目が離せないと思ったのを覚えている。
「……お前とフラムアークの存在が、オレを人として繋ぎ止めたのだと思う」
そう自己分析する彼に、私は少し頬を緩めた。
「だったら嬉しいけれど、それはあなたの人としての強さがあってこそだと思う。何か起こる度、あなたは自分と戦いながらそれを乗り越えて、今のあなたになっていった。私は間近でそんなあなたを見ていて、同僚として尊敬する傍ら、次第に異性としても心惹かれていった―――」
けれど、無意識のうちにそれと並行する形で、成長したフラムアークにも惹かれていった。
そっと睫毛を伏せた私は一度唇を結び、その事実をスレンツェに告げた。
「私はあなたのことを男性として、特別な目で見ているのだと思う。だけど……ごめんなさい。あなたと同じくらい気にかかって、特別な目で見ている男性がいるの。あなたとその人、どちらにも同じくらい惹かれていて、答えが出せない。自分の気持ちをずっと考えているのだけれど、分からない。選べないの。
だから……ごめんなさい。真っ直ぐなあなたの気持ちに応えられる資格が、私にはないの……」
誠実な彼に対してこんな答えしか返せなくて、不誠実でどうしようもない自分に目の奥が熱くなってくる。
「ごめんなさい、スレンツェ……私は、あなたの気持ちには応えられない」
私の話を黙って聞いていたスレンツェはしばらくの沈黙の後、確認するようにこう言った。
「……つまり今、オレとお前は両想いの関係にあると、そういうことだな?」
「えっ? ……え、ええ。それはそう……だけど。でも」
私はその意外な返しに戸惑って、濡れた瞳を瞬かせた。
「今現在両想いだと知って、オレが引く理由はないな」
腕組みをしてそう結論づけるスレンツェに私は困惑の声を上げた。
「えっ……でも、スレンツェ。私はあなた以外の男性にも同じくらい惹かれているって、そう言っているのよ?」
「フラムアークか?」
ズバリ言い当てられて、私は息を詰めた。
「えっ……」
そう呟いたきり絶句する私を、スレンツェは真っ直ぐに見つめている。
見透かされている―――そう悟って、私は下目がちに口を開いた。
「……身分不相応だって、分かってる。出過ぎた想いだって、分かってる。こんな感情を抱いていい相手じゃないって、分かってる」
けれど、あの夜気が付いてしまった。自分でも知らぬ間に走り出していた彼への想いに。
「……フラムアークは知っているのか? お前の気持ちを」
私は小さくかぶりを振った。
「言えないわよ……言えるわけ、ない」
真意は分からないけれど、フラムアークには表向きアデリーネ様という相手が存在するし―――それでなくても皇族と、それも皇帝になろうという人間と、兎耳族で平民の私が結ばれること自体が、まず有り得ないのだ。
「お前の方からフラムアークに気持ちを伝えるつもりはないのか? これから先もずっと?」
私は涙ぐみながら頷いた。
「……ないわ。それこそ、フェルナンドに格好の攻撃材料を与えてしまうだけだもの」
そうよ。私のフラムアークへの想いは、皇帝を目指す彼の足枷にしかならない。
そう頭では分かっているのだから、気持ちの方も簡単に割り切れてしまえたら良かったのに。
「……なら、ますますオレが引き下がる理由はないな」
スレンツェはそう言って腕組みを解いた。
「えっ?」
「これからもフラムアークへ想いを伝えるつもりがないのなら、今後もお前とフラムアークの仲が進展することはない。片や、オレとはこうして想いが通じ合っているんだ。迷う必要などないんじゃないか?」
「……それは」
私はサファイアブルーの瞳を彷徨わせた。
それは先日、レムリアからも同じような見解を示されて、ハッとさせられた選択肢だった。
けれど、それは―――。
「……確かに、そういう考え方もあるのかもしれないけれど―――でも、私的にはどうしてもそんなふうに割り切れない。モヤモヤしてしまって嫌なの。だって、スレンツェは私に全部の気持ちを向けてくれているのに、私はそうじゃないのよ? 半分、別の人に気持ちが向いてしまっているのよ? そんなのあなたに対して失礼だし、不誠実だわ。スレンツェだって、そんなの嫌でしょう?」
「確かに望ましいことじゃないが、そこはこれからのオレ達の関係次第で変えていける部分だと思っている。オレとしては、このまま平行線をたどるよりは望ましいというところかな。何も始まらないままじゃ、きっと何も変わらない―――そんな気がするんだ」
彼のその言葉は私の痛いところを突いた。
それは、今の私の現状そのものを示していたからだ。フラムアークへの想いに気付いて早一年以上が経過しているのに、未だ二人に対する想いは私の中で拮抗したまま―――何の結論も出せずにいる。
「さっきも言ったが、オレとしてはもうこれ以上育ち過ぎた気持ちを抑えきれそうにないんだ。十五でお前と出会ったオレは今年三十一になる。もういい大人だ。ここからは最盛期を過ぎて、徐々に衰えていくことだろう。十年後、お前の見た目は今とあまり変わらないだろうが、オレはもっと年輪を刻んだ外見になっている。そういうあせりもあるのかもしれないな」
少し寂し気な笑みを口元に刻んだスレンツェを見て、私は小さな衝撃がゆっくりとさざ波のように広がっていくのを覚えた。
人間と兎耳族の時間経過の違い―――忘れかけていたそれを目の前に突きつけられて、自分のこれからの十年と、彼のこれからの十年とでは心構えがまるで違ってくるということに改めて気付かされたからだ。
「スレンツェ……」
私は不安定に瞳を揺らした。
分からない……どうするのが正解なの?
スレンツェの言うように、彼の手を取ってみるべき? そこから見えてくることもあるの?
スレンツェのことをもっと深く知って彼への想いが更に深まれば、フラムアークへのこの気持ちは次第に薄れて、純粋に主従としての感情だけが残るようになるの?
今彼の手を取らなければ、ひどく後悔することになるの?
分からない―――私はどうすべきなの……!?
「……お前を困らせたいわけじゃないんだ」
スレンツェはそう言って、私の頬を伝う涙を優しく指先で拭った。
「ごめ……ごめんなさい。こんなつもりじゃ……」
言葉を詰まらせる私に彼は静かにこう尋ねた。
「オレにキスをされた時―――嫌だったか?」
私は大きく首を横に振った。
そんなことない。嫌な気持ちは全くしなかった。
「……嬉し、かった」
驚いたけれど、嬉しかった。それが正直な感想だ。
私の涙を拭っていたスレンツェの指が頬にかかり、私の顔を軽く上向かせるようにした。
視線を上げた先に一瞬彼の精悍な顔が映り、直後に唇に覚えのある熱が触れて、私はビクッと身体を震わせた。
「……っ! ス―――」
反射的にスレンツェの胸に手をつくようにして制止しかける私の手首を彼が握り、頬に添えられていた手が後頭部へと回されて、彼の方へ引き寄せられるような格好になる。スレンツェはそのまま私に唇を重ね続けた。
優しくついばむように、時に柔らかく食むように―――形ばかりの私の抵抗をなし崩しにして、その熱でゆっくりと身体の強張りを解いていく。しっとりと繰り返される強引すぎない甘やかなキスは、あの夜の激しさを秘めた切ないものとはまた違って、私の胸を甘く震わせた。
スレンツェ―――……。
「―――待てないが……待つ。もう少しだけ……」
長いのか短いのか分からないキスの後、スレンツェは私の額に自分の額をこつんと合わせてそう言った。
「オレもいたずらにお前を困らせたいわけじゃないし、出来れば自分に全ての気持ちを向けてもらいたいという思いもある。だからお前の気持ちが整うまで、もう少しだけ……待とうと思う。だが、今までのように何もなかったようには出来ないから……隙あらば、今のように行動させてもらう」
熱の残る唇を長い無骨な指先ですり、となぞられ、私は真っ赤になりながら、ためらいに揺れる眼差しを彼に向けた。
「それでいいの? あなたの時間を無駄にしてしまうことになるかもしれないのに……」
「どういう結果になろうが、オレはそれを無駄とは思わない。少なくともああいう理由で遠ざけられてしまうよりは、好きな相手の傍にいて触れていられる方が建設的だ。オレはオレの心の赴くままに行動するだけだから、お前が気に病む必要はない」
スレンツェは凛々しい目元を和らげて私の頭に手を置くと、長い雪色の髪を優しくその指で梳いた。
「初めてこうしてお前の頭を撫でた時は『年下のクセに』とえらく怒られたものだったが、いつの頃からか怒られることもなくなったな。……人の気持ちは変化していくものだ」
言い様、かすめるようにキスされて、まさかそう来るとは思っていなかった私は、完全に虚を突かれて動きを止めた。
「隙だらけだぞ」
「……!」
目を剥いたまま声の出せない私にゆっくりと口角を上げてみせたスレンツェは、どこか色のある声で囁いた。
「有言実行、だ」
「……!」
男の艶を滲ませた見たことのないその表情に、私は頬を上気させたまま、為す術なく口をわななかせた。
「こういうことを繰り返し重ねていくことによって、また何かしらの変化が生まれるかもしれない。待つ間、オレはそれを期待して、こうやってお前に自分の気持ちを伝え続けていくことで、いい意味での変化が生まれるように努力するとしよう」
完全に、手玉に取られている。けれどそうやって翻弄されながらも、困ったことに悪い気はしなかった。
スレンツェにやられっぱなしでしばらくは動悸の治まりそうもない胸を押さえながら、沸騰しそうな頭で自分がどうすべきかを模索する私の脳裏に浮かんだのは、先日のレムリアの言葉だった。
『あまり難しく考えすぎないで、自分が感じたありのままに進んでいけばいいんじゃない? あたしの心はあたしのものだし、ユーファの心はユーファのもの。心は他の誰でもないその人のものなんだから、その結果を第三者にとやかく言われる筋合いはない! ってね』
スレンツェの好意に甘えて結論をずるずると先延ばしにするのは、良くないことなのかもしれない。
けれど彼の言い分にも一理あると思えたし、私自身、彼に気持ちがあるのは事実で、下手に結論付けて後悔をしたくない、とも強く思う。
ずるいのかもしれないけど……自分の気持ちに結論が出せない今は、スレンツェの申し出に甘えさせてもらうのが一番のように思えた。
―――もう少しだけ時間をかけて向き合ってみよう、自分の気持ちに。
一縷の迷いを覚えながらも、私はそう決断した。
そんな私の気持ちを揺さぶる来訪者が宮廷を訪れたのは、それからほどなくしてのことだった―――。
業務を終えて私の調剤室を訪れたスレンツェは、曇りのない真っ直ぐな眼差しを私に向けて、自分の気持ちを伝えてくれた。
「ユーファ。オレは、お前が好きだ」
面と向かってハッキリとそう告げられて、ドク、と鼓動が高鳴る。
「お前を同僚ではなく異性として意識するようになったのは、領地視察に出立する前夜、お前の前で初めて弱音を吐いた時だったと思う。そこから少しずつお前への気持ちが育っていって、オレの中で特別なものになっていったんだ」
その言葉に、胸が騒いだ。
おんなじだ―――多分、私がスレンツェを意識するようになったのもそれがきっかけだった。
それまで頑なに閉じていた扉を彼が開いてくれた瞬間。初めて心の深いところに触れさせてくれた瞬間。
「オレはこんな身の上だからお前を幸せに出来るはずもないし、この想いを告げるべきではないと、ずっとそう思ってきた。―――それに今の心地好い関係を崩したくないというためらいもあって、ずっと自重してきたんだ」
スレンツェはどこか苦し気な顔をしてそう言った。
「だが―――、もう、育ち過ぎたこの気持ちを抑えておくことが出来なくなった。お前の言葉は、オレに力をくれる。お前の笑顔は、オレに勇気を与えてくれる。お前の温もりは、オレに癒しと安らぎをもたらしてくれる。そんなお前を誰にも渡したくない、そう思うようになった。お前の存在は、もはやオレにとってなくてはならないものなんだ」
スレンツェ……。
ずっと内に秘めてきた想いをそう吐露した彼は、黒い切れ長の双眸に真摯な光を宿して、向き合う私の気持ちを尋ねた。
「ユーファ、飾らないありのままのお前の気持ちを聞かせてくれ。余計な気遣いはしなくていい」
表情や声のトーンから、スレンツェの真剣さと緊張感が伝わってくる。
精一杯自分の気持ちを伝えてくれる彼に、私も隠さずに真っ直ぐに応えようと思った。
「スレンツェ……ありがとう、私のことを好きだと言ってくれて。率直に……とても嬉しいわ。私も、あなたのことを大切に……特別に想っているから」
私の言葉に、彼が微かに目を瞠る。私は自分の胸に手を当てて、正直な気持ちを伝えた。
「私もね、あなたと同じ。同じ時を過ごすうちにいつの間にか、少しずつ少しずつ、あなたを想う気持ちが降り積もっていった感じなの……。初めはね、心配してあなたのことを見ていたのよ。初めて会った時のあなたはまだ十五歳で―――過酷な経験にひどく傷付いて、自分以外の全てが敵だというような目をしていたから―――……」
あの頃のスレンツェは言うなれば虚ろで危うい刃物みたいで、頑なに他人を拒絶する空気を纏っていた。
病弱だったフラムアークを看ながら、殺伐としたスレンツェの方からも目が離せないと思ったのを覚えている。
「……お前とフラムアークの存在が、オレを人として繋ぎ止めたのだと思う」
そう自己分析する彼に、私は少し頬を緩めた。
「だったら嬉しいけれど、それはあなたの人としての強さがあってこそだと思う。何か起こる度、あなたは自分と戦いながらそれを乗り越えて、今のあなたになっていった。私は間近でそんなあなたを見ていて、同僚として尊敬する傍ら、次第に異性としても心惹かれていった―――」
けれど、無意識のうちにそれと並行する形で、成長したフラムアークにも惹かれていった。
そっと睫毛を伏せた私は一度唇を結び、その事実をスレンツェに告げた。
「私はあなたのことを男性として、特別な目で見ているのだと思う。だけど……ごめんなさい。あなたと同じくらい気にかかって、特別な目で見ている男性がいるの。あなたとその人、どちらにも同じくらい惹かれていて、答えが出せない。自分の気持ちをずっと考えているのだけれど、分からない。選べないの。
だから……ごめんなさい。真っ直ぐなあなたの気持ちに応えられる資格が、私にはないの……」
誠実な彼に対してこんな答えしか返せなくて、不誠実でどうしようもない自分に目の奥が熱くなってくる。
「ごめんなさい、スレンツェ……私は、あなたの気持ちには応えられない」
私の話を黙って聞いていたスレンツェはしばらくの沈黙の後、確認するようにこう言った。
「……つまり今、オレとお前は両想いの関係にあると、そういうことだな?」
「えっ? ……え、ええ。それはそう……だけど。でも」
私はその意外な返しに戸惑って、濡れた瞳を瞬かせた。
「今現在両想いだと知って、オレが引く理由はないな」
腕組みをしてそう結論づけるスレンツェに私は困惑の声を上げた。
「えっ……でも、スレンツェ。私はあなた以外の男性にも同じくらい惹かれているって、そう言っているのよ?」
「フラムアークか?」
ズバリ言い当てられて、私は息を詰めた。
「えっ……」
そう呟いたきり絶句する私を、スレンツェは真っ直ぐに見つめている。
見透かされている―――そう悟って、私は下目がちに口を開いた。
「……身分不相応だって、分かってる。出過ぎた想いだって、分かってる。こんな感情を抱いていい相手じゃないって、分かってる」
けれど、あの夜気が付いてしまった。自分でも知らぬ間に走り出していた彼への想いに。
「……フラムアークは知っているのか? お前の気持ちを」
私は小さくかぶりを振った。
「言えないわよ……言えるわけ、ない」
真意は分からないけれど、フラムアークには表向きアデリーネ様という相手が存在するし―――それでなくても皇族と、それも皇帝になろうという人間と、兎耳族で平民の私が結ばれること自体が、まず有り得ないのだ。
「お前の方からフラムアークに気持ちを伝えるつもりはないのか? これから先もずっと?」
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「……ないわ。それこそ、フェルナンドに格好の攻撃材料を与えてしまうだけだもの」
そうよ。私のフラムアークへの想いは、皇帝を目指す彼の足枷にしかならない。
そう頭では分かっているのだから、気持ちの方も簡単に割り切れてしまえたら良かったのに。
「……なら、ますますオレが引き下がる理由はないな」
スレンツェはそう言って腕組みを解いた。
「えっ?」
「これからもフラムアークへ想いを伝えるつもりがないのなら、今後もお前とフラムアークの仲が進展することはない。片や、オレとはこうして想いが通じ合っているんだ。迷う必要などないんじゃないか?」
「……それは」
私はサファイアブルーの瞳を彷徨わせた。
それは先日、レムリアからも同じような見解を示されて、ハッとさせられた選択肢だった。
けれど、それは―――。
「……確かに、そういう考え方もあるのかもしれないけれど―――でも、私的にはどうしてもそんなふうに割り切れない。モヤモヤしてしまって嫌なの。だって、スレンツェは私に全部の気持ちを向けてくれているのに、私はそうじゃないのよ? 半分、別の人に気持ちが向いてしまっているのよ? そんなのあなたに対して失礼だし、不誠実だわ。スレンツェだって、そんなの嫌でしょう?」
「確かに望ましいことじゃないが、そこはこれからのオレ達の関係次第で変えていける部分だと思っている。オレとしては、このまま平行線をたどるよりは望ましいというところかな。何も始まらないままじゃ、きっと何も変わらない―――そんな気がするんだ」
彼のその言葉は私の痛いところを突いた。
それは、今の私の現状そのものを示していたからだ。フラムアークへの想いに気付いて早一年以上が経過しているのに、未だ二人に対する想いは私の中で拮抗したまま―――何の結論も出せずにいる。
「さっきも言ったが、オレとしてはもうこれ以上育ち過ぎた気持ちを抑えきれそうにないんだ。十五でお前と出会ったオレは今年三十一になる。もういい大人だ。ここからは最盛期を過ぎて、徐々に衰えていくことだろう。十年後、お前の見た目は今とあまり変わらないだろうが、オレはもっと年輪を刻んだ外見になっている。そういうあせりもあるのかもしれないな」
少し寂し気な笑みを口元に刻んだスレンツェを見て、私は小さな衝撃がゆっくりとさざ波のように広がっていくのを覚えた。
人間と兎耳族の時間経過の違い―――忘れかけていたそれを目の前に突きつけられて、自分のこれからの十年と、彼のこれからの十年とでは心構えがまるで違ってくるということに改めて気付かされたからだ。
「スレンツェ……」
私は不安定に瞳を揺らした。
分からない……どうするのが正解なの?
スレンツェの言うように、彼の手を取ってみるべき? そこから見えてくることもあるの?
スレンツェのことをもっと深く知って彼への想いが更に深まれば、フラムアークへのこの気持ちは次第に薄れて、純粋に主従としての感情だけが残るようになるの?
今彼の手を取らなければ、ひどく後悔することになるの?
分からない―――私はどうすべきなの……!?
「……お前を困らせたいわけじゃないんだ」
スレンツェはそう言って、私の頬を伝う涙を優しく指先で拭った。
「ごめ……ごめんなさい。こんなつもりじゃ……」
言葉を詰まらせる私に彼は静かにこう尋ねた。
「オレにキスをされた時―――嫌だったか?」
私は大きく首を横に振った。
そんなことない。嫌な気持ちは全くしなかった。
「……嬉し、かった」
驚いたけれど、嬉しかった。それが正直な感想だ。
私の涙を拭っていたスレンツェの指が頬にかかり、私の顔を軽く上向かせるようにした。
視線を上げた先に一瞬彼の精悍な顔が映り、直後に唇に覚えのある熱が触れて、私はビクッと身体を震わせた。
「……っ! ス―――」
反射的にスレンツェの胸に手をつくようにして制止しかける私の手首を彼が握り、頬に添えられていた手が後頭部へと回されて、彼の方へ引き寄せられるような格好になる。スレンツェはそのまま私に唇を重ね続けた。
優しくついばむように、時に柔らかく食むように―――形ばかりの私の抵抗をなし崩しにして、その熱でゆっくりと身体の強張りを解いていく。しっとりと繰り返される強引すぎない甘やかなキスは、あの夜の激しさを秘めた切ないものとはまた違って、私の胸を甘く震わせた。
スレンツェ―――……。
「―――待てないが……待つ。もう少しだけ……」
長いのか短いのか分からないキスの後、スレンツェは私の額に自分の額をこつんと合わせてそう言った。
「オレもいたずらにお前を困らせたいわけじゃないし、出来れば自分に全ての気持ちを向けてもらいたいという思いもある。だからお前の気持ちが整うまで、もう少しだけ……待とうと思う。だが、今までのように何もなかったようには出来ないから……隙あらば、今のように行動させてもらう」
熱の残る唇を長い無骨な指先ですり、となぞられ、私は真っ赤になりながら、ためらいに揺れる眼差しを彼に向けた。
「それでいいの? あなたの時間を無駄にしてしまうことになるかもしれないのに……」
「どういう結果になろうが、オレはそれを無駄とは思わない。少なくともああいう理由で遠ざけられてしまうよりは、好きな相手の傍にいて触れていられる方が建設的だ。オレはオレの心の赴くままに行動するだけだから、お前が気に病む必要はない」
スレンツェは凛々しい目元を和らげて私の頭に手を置くと、長い雪色の髪を優しくその指で梳いた。
「初めてこうしてお前の頭を撫でた時は『年下のクセに』とえらく怒られたものだったが、いつの頃からか怒られることもなくなったな。……人の気持ちは変化していくものだ」
言い様、かすめるようにキスされて、まさかそう来るとは思っていなかった私は、完全に虚を突かれて動きを止めた。
「隙だらけだぞ」
「……!」
目を剥いたまま声の出せない私にゆっくりと口角を上げてみせたスレンツェは、どこか色のある声で囁いた。
「有言実行、だ」
「……!」
男の艶を滲ませた見たことのないその表情に、私は頬を上気させたまま、為す術なく口をわななかせた。
「こういうことを繰り返し重ねていくことによって、また何かしらの変化が生まれるかもしれない。待つ間、オレはそれを期待して、こうやってお前に自分の気持ちを伝え続けていくことで、いい意味での変化が生まれるように努力するとしよう」
完全に、手玉に取られている。けれどそうやって翻弄されながらも、困ったことに悪い気はしなかった。
スレンツェにやられっぱなしでしばらくは動悸の治まりそうもない胸を押さえながら、沸騰しそうな頭で自分がどうすべきかを模索する私の脳裏に浮かんだのは、先日のレムリアの言葉だった。
『あまり難しく考えすぎないで、自分が感じたありのままに進んでいけばいいんじゃない? あたしの心はあたしのものだし、ユーファの心はユーファのもの。心は他の誰でもないその人のものなんだから、その結果を第三者にとやかく言われる筋合いはない! ってね』
スレンツェの好意に甘えて結論をずるずると先延ばしにするのは、良くないことなのかもしれない。
けれど彼の言い分にも一理あると思えたし、私自身、彼に気持ちがあるのは事実で、下手に結論付けて後悔をしたくない、とも強く思う。
ずるいのかもしれないけど……自分の気持ちに結論が出せない今は、スレンツェの申し出に甘えさせてもらうのが一番のように思えた。
―――もう少しだけ時間をかけて向き合ってみよう、自分の気持ちに。
一縷の迷いを覚えながらも、私はそう決断した。
そんな私の気持ちを揺さぶる来訪者が宮廷を訪れたのは、それからほどなくしてのことだった―――。
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