病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

藤原 秋

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本編

二十一歳㉒

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 ガーディアから宮廷へ帰還後、スレンツェはフラムアークから数日間休養するよう申し渡された。

 彼の厚意を素直に受けることにしたスレンツェは、ユーファからネロリの茶葉や入眠剤などを処方してもらい、久し振りに戻った自身の居室で、ベッドの上に仰向けに倒れ込むようにして、ひとつ息をついた。

 最低限必要なものしか置かれていない、簡素な部屋。しばらく留守にしていた為、室内は少し空気がこもった感じがした。

 先程開けた窓から、いつの間にかだいぶ秋めいてきた涼やかな風が入り込んできて、緩やかなクセのある彼の黒髪を優しく揺らす。窓越しに見上げた青い空に浮かぶ雲は、すっかり秋のそれになっていた。

 宮廷内に居室を与えられた皇子付きの他の側用人達とは明確に区分された彼の部屋は、宮廷の主要な箇所へ行き来するには不便な場所にあり、日中でも人通りが少なく静かだ。そんな環境下にある場所で、壁を隔てた隣の部屋から時折聞こえてくるのは、エレオラが掃除をする音である。

 スレンツェの隣の空き部屋を居室として与えられた彼女は、長い間使われていなかった部屋を掃除しながら自分用に整えているのだ。

 気にしなくていいと言ったのだが、スレンツェが休んでいることを知っている彼女は、なるべく音を立てないように作業してくれている。

 こんなふうに何もせずに過ごすのは、いったいいつ以来だろう―――?

 エレオラが掃除をする気配と風に乗って聞こえてくる鳥のさえずりに耳を傾けながら、瞼を閉じたスレンツェの意識はいつの間にかまどろみの中へと沈んでいった―――。







 これはまた―――あの夢、か……。

 見覚えのある赤と黒と白に彩られた景色の中、スレンツェは髑髏どくろの山で亡者達に囚われた自分の姿を、どこか遠いところから見下ろしている。

 夢だと分かっているのに、止められない。胸をかれるような光景が繰り返されるのを見たくなどないのに、この悪夢から覚められない。

 意識の底でもがくスレンツェの前に再び現れたカルロが血の涙を流し、これまでと同じ言葉で彼を糾弾した。

『何故、我々を裏切ったのだ! 貴方のせいでまた死んだ、アズール王国を守ろうとする同胞達がまた死んだ! 我らをどれほど落胆させ失望させたら気が済むのだ、貴方は!?』

 現実のカルロの言葉ではないのだと、夢なのだと分かってはいても、放たれた言葉はスレンツェの心に再び深く突き刺さり、癒えることのない傷を開けていく。

 その時だった。そんな環境に変化が起こったのは―――。

 大気が一瞬、震えたような気がして、スレンツェは憔悴しょうすいしきった顔をのろのろと上げた。

 そんな彼の眼前でもう一度大気が震え、どこからともなく青色に輝く音符が忽然こつぜんと目の前に現れた。赤と黒と白の三色で彩られた世界に、初めて違う色が出現した。

 これまでにない展開に目を凝らしていると、空から音が降ってきた。音は次第に声となり、声はやがて歌となって、赤と黒と白の世界に降り注いだ。

 スレンツェは息を飲んで、世界に歌が降り注ぐその光景を見つめていた。

 どこか懐かしい旋律―――悪夢の世界に響く、儚くて美しい、澄んだ声音―――……。

 胸に染み入るようなその歌声は、疲弊しきったスレンツェの心に優しく沁み渡り、脳裏に懐かしい故郷の景色を咲かせて、彼の中に眠っていた大切な記憶を揺り起こした。

 ああ―――……。

 空を見上げたスレンツェは瞼を閉じ、喉を震わせて、深く深く息を吐き出した。

 過酷な現実に直面するあまり、頭の片隅に追いやられて思い出せなくなっていた温かな思い出達が瞼の裏にめくるめき、色鮮やかに甦って、ひび割れた心の空洞を埋めていく。

 辛いことばかりがあったわけじゃない。今は亡き人達と穏やかに笑って過ごした時間も、ささやかな幸せを見出して喜びを共有した時間も、確かにあった。

 犠牲にしてきたものの数があまりにも多すぎて、いつの間にかそれを見失ってしまっていた。自分が立っているのはただのむくろの山ではなく、その根源には彼らと共に過ごしたこの幸せな記憶があったはずだったのに。

 スレンツェは唐突にそれを思い出した。

 そうだ―――自分が立つ土台となっているものは、根本にあるものはこれだったはずなのだ。

 それを失ってしまった悲しみが大きすぎて、一人で抱えるにはあまりにも重たすぎて、苦しくて、切なくて、どうしようもなくて―――処理しきれない憤りの矛先が、ただ一人生き残ってしまった自分自身へと向いた。

 大切なものを守れなかった自分は彼らに恨まれて当然なのだと、罰せられて当然なのだと、自分で自分をがんじがらめにした。悲しみに目を向けるよりその方が楽だったし、そうでもしなければ許されないと思った。

 その心象が現れたのが、この世界だ。

 だが、突如としてその世界に響いた歌声は、そんな彼の心に寄り添いながら、優しい旋律で行き過ぎた自責の念を押しなだめ、頑なな心の檻をほころばせていく。

 気が付けば亡者達もカルロも、その優しい歌声に聞き入っていた。

 悪夢の世界に満ちていた呪詛が、怒りが、消えていく。空から降り注ぐ歌声に浄化されて、清らかな青い光に包まれて、亡者達の輪郭もカルロの輪郭も、その光の中に溶け消えていく―――。

 その光景に知らず涙が溢れて、スレンツェの頬を伝い流れ落ちた。

 茫然と立ち尽くし涙する彼の上にも眩い光は降り注ぎ、優しい音色で包み込んだ。

 全ての罪がすくい上げられていくかのような錯覚―――。

 どこか母親の胎内を彷彿とさせる、安らぎに満ちたぬくもりのようなものに満たされていくのを感じた瞬間、自らを縛り続ける呪いと化していた、行き過ぎた自責の念から解放されていく自分をスレンツェは感じた。

 ああ、そうか―――オレは自らを責めながら、その実、許されたくてたまらなかったんだな―――。

 深層意識の底でそう悟りながら、スレンツェはゆっくりと瞼を閉じた。脳裏に一瞬浮かんで消えたのは、いつかどこか、陽光を反射して煌めいて見えた、穢れのない涙だった。

 全てをゆるし、てついた心の内まで照らしてくれるようなその光と歌声の中で、スレンツェはようやく、穏やかな眠りにつくことが出来たのだ―――……。







 目を覚ますと、辺りは黄昏色に染まっていた。

 ベッドの上でぼんやりと瞬きを繰り返したスレンツェは、自室の天井を瞳に映しながら、涙に濡れた目元を拭った。

 どこかまだ夢現ゆめうつつなのは、夢の中とリンクするこの歌声のせいだろうか―――……。

 開け放ったままの窓から微かに流れ込んでくるのは、アズールに昔から伝わる星詠みの歌だ。季節によって移り変わる星の位置と、遠く離れた場所にいる大切な人とを重ね合わせて、その幸福と繁栄を祈った歌である。

 エレオラ―――……。

 掃除が終わって、ひと段落ついたところだろうか。それとも、まだ細々とした作業を続けている最中なのだろうか。

 こんなふうにスレンツェが聞き入っているとは夢にも思っていないらしいエレオラは、小さな声で故郷の歌を口ずさんでいる。

 彼女が宮廷での生活を始めるにあたって諸々入り用の品は、明日ユーファが一緒に買い出しに行くと言っていた。

 荷物持ちについて行こうか、とスレンツェは名乗り出たのだが、重いものは店の者に届けてもらうよう手配するし、特に問題はないから休んでいるようにと、二人に声をそろえて言われてしまったという経緯がある。

 それを小耳に挟んだフラムアークが、スレンツェが元気になったらみんなでエレオラの外出着を買いに行こう、と提案して、それを聞いたユーファは喜んでいたが、エレオラ自身はひどく恐縮して戸惑っていた。

 その時の様子を思い出して無意識に口元をほころばせながら、スレンツェは窓辺から流れてくる歌声に耳を傾け続けた。

 今はただ、許される限りこの優しい歌声を聞いていたいと思った。
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